零れた欠片が埋まる時
第8話 八つ当たりの末に③

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 そんなやり取りがあってから数日後。清香と聡は連絡を取り合い、週末に某ホテルの一階ロビーに入っている喫茶店で待ち合わせた。  しかし席に追い付いた清香が、聡に問われて清人について話そうとする度に、妙に口ごもったり、言い直したり、口癖の『お兄ちゃん』が『兄』に置き換えられていたりと、聡からすると挙動不審さが際立っており、サインして貰った本を受け取るのもそこそこに、清香を問い詰めた。 「……という事があったんです。おに……、あの、兄にしてみれば、私は相当子供に見えてるんだろうなって思……、見えているかと思いますし、小笠原さんに対しても、初めて会った時から結構馴れ馴れしい言葉遣いをしてたかな~って、いえ、失礼をしていたのではと、今更ながらに不安になりまして」  清人に叱責された夜の経過を一通り語り、俯いて黙り込んだ清香を見た聡は頭痛を覚えた。 (兄さん、何も清香さんに八つ当たりする事はないだろう? そもそもの原因の俺が、言うべき事じゃないが。さて、どうするか……)  いつも明るい笑顔を向けてくる清香が、すっかり萎れて落ち込んでいるのを可哀想に思った聡は、何とか慰めようと口を開いた。 「清香さん、先生は何もあなたが憎くてきつく当たったわけでは無いんですから。それは分かっているでしょう?」 「ええ、はい、それは重々」 「どうやら先生が危惧したのは、俺が年相応に見えずに落ち着いていると清香さんが評した為に、清香さんのいつもの口調だと失礼に当たるかもと考えた事らしいですし。言わば老婆心ですから、あまり気にされない方が良いです」 「それはそうなんですが……」 「だからその対策として、俺はこれから清香さんに対して、同年代の人間に対する様に喋るから。清香さんもそのつもりで」 「はい?」  いきなり聡の口調が変化したのと、言われた意味を捉え損ねた清香は、思わず軽く目を見開きながら相手を見返した。すると聡は面白い物でも見つけた様に、ニヤリと笑いながら主張を繰り出す。 「俺も見ず知らずの女性に馴れ馴れしく話しかけるのはまずいと思ってたから、これまでは仕事上の口調に準じて喋ってたけど、もう見ず知らずじゃないから、そこら辺は構わないよね?」 「あ、えっと、それは……」 「だから、俺が馬鹿丁寧な言葉遣いをして、かなり年長者に感じさせる事が問題なんだろう? こういう言い方をする相手には、清香さんも気兼ねなく話せるよね? ああ、いっそのこと『清香ちゃん』とか『清香』とでも呼ぼうかな?」 「いえ、あのっ!そ、それは……」  流石に気恥ずかしいものがあり、それは止めて貰おうと口を挟みかけた清香に、聡があっさりと告げた。 「勿論俺の事は『聡さん』とか『聡』で良いよ? 寧ろ聡って呼んで欲しいな」 「……小笠原さんって、実はタラシですか?」 「タラシ? 俺が?」  清香が思わず疑惑の目を向けると、それを真正面から受けた聡は一瞬キョトンとし、すぐにお腹を抱えて爆笑した。いきなり大笑いされた清香が、些かむくれながら文句を言う。 「そこまで笑わなくても……」 「ごめん、悪かった。だけど自分の名前を呼び捨てにして欲しいって口にしただけで、女たらし扱いされたのは初めてだったから」  何とか呼吸を整えた聡は、清香に謝ってから苦笑交じりに話を続けた。 「話を戻すけど、だから俺の前では幾らでも『お兄ちゃん』って言って大丈夫だよ? 君の事を笑ったりしないし、寧ろ清香さんが先生の事を『お兄ちゃんが』って話している時は凄い良い笑顔をしてるから、見ているこっちまで嬉しくなる。『兄が』って緊張して話している時とは雲泥の差だ」  そう嘘偽りの無い本音を漏らすと、清香がそれを吟味する様に聞き終えてから、小さく笑って礼を述べた。 「ありがとうございます。やっぱり小笠原さんは私と比べると随分大人だと思います」  それに聡がすかさず突っ込みを入れる。 「ほら、清香さん。そういう時は何て言うんだっけ?」  それに清香は反射的に「うっ……」と詰まりながらも、嬉しそうに言い直した。 「えっと……、その。ありがとう、聡さん」 「ああ。まだ二十歳なんだし、そのうち自然に慣れるよ。無理に急いで、つまらないしがらみに捕らわれる事もないさ」  そうして二人の周囲の空気が穏やかになった所で、聡が徐に話題を変えた。 「ところで……、清香さんと図書館で会った時、確か榊原康孝の本を借りてたよね。この作家が好き?」 「ええ、作品は大体目を通しているし」 「そうか。それならこれ、要るかな?」 「何ですか?」  ゴソゴソとジャケットの内ポケットから長方形の白い封筒を取り出した聡は、その封をされていない中身を取り出して見せた。 「映画の試写会の招待券。榊原康孝の『春の波濤』が原作だって。小耳に挟んだ所では、当日監督と原作者も来るらしいよ?」 「え? 映像化の話が有ったんですか!? 全然知らなかった! これ、どうしたんですか?」  驚きと期待で目を輝かせた清香が、思わず身を乗り出して手元を覗き込んで来た為、聡が笑って続けた。 「職場が総合商社の営業部だからね。付き合いとかで色々回ってきたりするんだ。それでこれを見つけたから2枚掠め取ってきたんだけど、良かったら一緒に見に行かない?」 「勿論行きます!」  打てば響くように答えた清香に、聡も満足そうに頷く。 「良かった、貰って来た甲斐があったよ。じゃあここに書かれてある日時に、どこかで待ち合わせしようか。予定は大丈夫?」 「はい、空いてますから。ありがとう、凄く嬉しい!」  兄に怒られた事などすっかり忘れ去ってしまったかの様に、ニコニコと上機嫌に微笑む清香を見て、聡は思わず本音を漏らした。 「うん、清香さんは落ち込んでる顔もそれなりに可愛いけど、笑うとそれより数倍可愛いな」  常には清人以外の者にあまり口にされない賛辞を耳にして、清香は動揺して声を上げた。 「お、小笠原さんっ!?」 「聡」  容赦の無い笑顔での駄目出しに顔を若干引き攣らせつつ、清香が窘めようとする。 「う、……え、さ、聡さん。つまらない冗談は」 「本気だけど?」 「…………っ!」  真顔でサラッと言い返されてしまった清香は、本人が自覚しないままその頬を赤く染めていた。絶句して僅かに俯いてしまったその顔を真正面からじっくりと眺めながら、聡は自分の中で愛おしさが込み上げてくるのを自覚する。 (うん、やっぱり兄さんが、この子を溺愛しているのが分かる気がする)  この時、聡の頭の中を占めていたのは清香と清人の事のみで、あれほど重要だった母親の事は、綺麗に忘れ去られていた。  

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