零れた欠片が埋まる時
第8話 八つ当たりの末に ①

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 清香に置いてけぼりを食らわされた挙げ句、色々と頭を悩ませる内容を聞かされてしまった聡は、悩んだ末、夜になってから清香の携帯に電話してみた。病院に付き添っているなら電源を落としているかと思いきや、予想に反して普通に応答がある。 「はい、佐竹ですが、どちら様でしょうか?」  その落ち着き払った声に、聡は(兄さんは大した事は無かったんだな)と安堵する半面、(尋ねてくるという事は、俺の名前をまだ登録してくれていないのか……)と、微妙に気落ちしながら口を開いた。 「清香さん、角谷です。今日はわざわざ出向いて頂いて、ありがとうございました」  そう礼を述べると、電話の向こうの気配が途端に慌てたものになる。 「そんな! 角谷さんにお礼を言って貰う必要なんかありません! いきなり中座して、私の方こそ却って失礼してしまいましたし。その上こちらからご連絡しないで、本当に申し訳ありませんでした!」  声の調子だけで清香が最敬礼している様子が見える気がして、聡は思わず笑い出しそうになった。それを何とか抑えながら、相手を宥めにかかる。 「それは構いません。自分の家族の具合が相当悪そうだと聞いたら、誰だって動揺しますよ。それで……、先生のお加減はいかがですか?」  それを聞いた清香が、益々申し訳無さそうな口調で詳細を伝えてきた。 「ご心配かけてすみませんでした。実は思ったより酷く無かったみたいで、帰宅したら大人しく横になっていたんです」 「そうだったんですか? それは何よりでしたね」 「はい。病院にも行かずに済みましたし、夕食も消化の良い物を食べられましたし、もう心配要らないと思います」 「それを聞いて、俺も安心しました」  聡は口ではそう述べたものの、内心では(ひょっとしたらと思ったが……。やっぱり仮病で、あの男とグルか)と断定し、密かに項垂れた。しかし1人で悶々としている訳にもいかない状況を思い出し、慎重に会話を再開する。 「それで……、清香さん。実はあなたにお話ししないといけない事があるのですが……」 「はい、何でしょうか?」  怪訝そうに問い返す清香に、聡は(もう兄さんにばれているなら、変に名前を偽っていたら益々印象を悪くするに決まっているし、ここは思い切って)などと考えながら口を開いた。 「初対面の時に角谷と名乗りましたが、実は本名は違うんです」 「え? それなら角谷と言うのは偽名ですか?」 「いえ、偽名では無くて職場で使っている通称です。初めてお会いした時、プライベートにも関わらず、ついうっかりそちらを名乗ってしまって、なんとなく訂正する機会を逸したまま、これまでズルズルと。申し訳ありませんでした」 「それは構いませんが、そうなると本当のお名前は、何と仰るんですか?」  不思議そうに尋ねた清香に、聡は一拍空けて本名を告げた。 「……小笠原です」 「小笠原さん、ですか?」 「はい」  怪訝な声でどこか躊躇いがちに問い返す清香に、聡は叱責もしくは非難されるのを覚悟した。 (やはり『小笠原』の名前位は知っていたか? どうして黙っていたのかと責められても仕方が無いが、ここで正直に言っておかないと、後々面倒な事になりそうだし)  しかし聡が無自覚に醸し出すそんな緊迫した空気とは裏腹に、清香はいたってのんびりと答えた。 「私は全然気にしていませんよ? ついうっかり、慣れた名前を口にしただけなんですよね? 私を騙そうとして、意図的に名乗ったわけじゃ無いんですから」 (やっぱり母さんに関する事は、兄さんから微塵も聞いていないらしいな)  明るく朗らかに言われてしまって、却って絶望的な心境に陥ってしまった聡だったが、更に予想外の台詞が耳に飛び込んできた。 「でも角谷さ、ええっと……、小笠原さんが、二十五歳ってお伺いした年齢の割に、落ち着いて見えた訳が分かりました」 「え? それはどういう意味ですか?」 「どういうって……、小笠原さんはもう結婚していて、結婚を機に奥様の方の苗字に改姓したけど、仕事上は旧姓のまま通しているんですよね?」 「は?」 「もう既に家庭を持っているなら、年齢より落ち着いて見えるのも道理です」  しみじみと語られた清香の話に聡は固まり、次いで慌てて弁解した。 「それは誤解です清香さん! 俺はまだ結婚していませんから!」 「え? そうなると本人に向かってはもの凄く言い難いですし、口に出すのもとても失礼なのかも知れませんが……、ひょっとして小笠原さ」 「あのですね! 今、何か変な想像をしてませんか? お願いですから、俺の勤務先の名称を思い出して欲しいんですが!?」  何やらまた妙な考えを口にされる前にと、聡が必死で訴えた内容に、携帯を介して清香が考え込む気配が伝わる。 「小笠原さんの勤務先ですか? えっと、確か小笠原物産の営業部で……、小笠原? え? あ、まさか……」  そこで言葉を区切った清香に、聡は心底安堵しながら事情を説明した。 「ええ、実は父がそこの代表取締役社長を務めています。色々対外的な事があって、入社するに当たって、父の旧姓を名乗らせて貰っているんです。父は婿養子ですから」 「ああ、そうなんですか。良く分かりました。親の会社に入社したりすると、確かに色々大変そうですよね」 (何だかもう、どっと疲れが出た)  一連のやり取りで、精神的な疲労感を一気に覚えてしまった聡は、これ以上会話を続行させる事を諦めた。 「それでは先生の容態が確認できましたし、これで失礼します」 「いえ、こちらこそ心配して頂いてありがとうございました。お兄ちゃんにサインして貰ったら、お渡ししますのでまた連絡しますね?」 「ありがとうございます。おやすみなさい」  そうして表向き平穏に会話を終わらせた聡は、携帯を耳から話して深々と溜め息を吐いた。 「とても諸々を打ち明ける雰囲気でも、気力も保てなかった。……また今度にしよう」  極めて後ろ向きな発言をして現実から目を逸らした聡は、初手の躓きが後々祟るという事に、この時まだ気付いていなかった。

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