【第二章――歩めや乙女、文化の始まる花の路――】 雨のしとしとと降る、三番街。 街路に植えられたペチュニアからは、しずくがぽとり。 傘を差しながら歩く人たちもちらほらいるが、やはり人足はいつもより少ない。モザイク仕立ての石畳に溜まった轍には、いくつもの同心円が描かれていた。 「ねぇ、燕さん。レティシアさんってこの辺りに住んでいるんだよね」 「そうらしいですね。でも、本当にまったく魔力を感じませんね」 「じゃあやっぱり、歩いて探さないといけないってこと? もう二週間だよ。疲れたよ」 「ですね……旅館に泊まれているのは幸いですけれど」 「うう……雨やだぁ。傘買おう、傘」 そう語りながら駄菓子屋『ミスカーム』の前を通り過ぎて行った二人は……おそらく魔女だろう。しかもそこそこ強い魔力をもっている。どうやらアルエのことを探しているようだけど、二人の目的が全然わからない。でもなんとなく、厄介ごとの気配がする。 アルエはミスカームの桟からそろりと首を出し、二人が雨の帳に消えたことを確認する。 ふぅ、とひと息をついたところで、後ろからガッと肩を掴まれた。 「また、あたしの姿に化けて。なにやってんだい、小娘」 アルエの黒目が小さくなる。目の前で仁王立ちしているのは、ミスカームのババア……ではなく、女店主サジャンノだ。複数の串を通しまくったその頭は、えらくでかい。加えてラウンド形のサングラス。仮にサジャンノが地下組織のメンバーだと告白されてもこれっぽっちも不思議には思えないくらいだ。ま、実際は駄菓子屋の店主に過ぎないのだが。 「あ、うん。ごめん」 とりあえず謝る。それからボワンとひと煙で、アルエの姿は少女のそれへと戻った。 アルエは十八歳になるのだが、成長は十二歳くらいで止まってしまっていた。 いや、けして幼いスタイルというわけではない。形の良い胸は師範学校に通う人間たちに冷やかされるくらいだし、大人よりもさらに10センチは高いだろう身長を誇っているし。 だけど顔が……。どうも顔つきが幼いのだ。童顔、という言葉を用いるには幼すぎる。だからアルエはこの町の人間たちにいつも、『小娘』などと呼ばれているのだ。 「小娘、またいたずらかい? 二週間前からずっとじゃないか」 「ううん。なんかね、アルエのことを探している奴らがいるらしいの」 「ほう、それで。あんたみたいなのが役に立つのかい」 「役に立つわけないよ。アルエ、誰にも褒められたことないもん」 それは嘘偽りのない事実だった。アルエは魔女学校で先生に褒められたことが一度もない。アルエはリリー=フローレスという超有名な魔女に師事していたのだけど、ある日、なんでもいいから魔法を見せてみなさいと命令された。そこで空間から猫を出してみた。アルエは友達が少なかったので、(こんな友達がいたらいいな)と思えるような、シャープな白猫を無から生み出してみたのだ。 するとリリーは口をつぐんだ。あれは完全に無視だった。アルエはリリーに無視をされ、夕闇に溶けそうな砂の大地をゆっくりと踏んで校舎に戻ったのだ。猫は「ニャアウ」と鳴いた。アルエを慰めているようだった。だからアルエはその猫を、ニーウと名付けた。 ……しかしだ。 たとえ微少な魔力だとはいえ、アルエはその魔力を使わずに生きている。他の魔女から居場所を嗅ぎつけられることなんてないはずなのである。なのにあの二人……。 何者、なんだろう。 「小娘、ちょっと早いけど店じまいにしよう。入口に錠をつけとくれ」 「うん」 アルエは横滑りの戸をおもむろに閉め、銅仕立ての鍵に手をかける。さっきまで漂っていた霧雨の香りが古びた木材の匂いに染められていく。 アルエは瞼を瞬かせ、長いまつ毛から水分を落とす――。 「いたっ!!」 突然扉が、ガラララララ――――、と開いた。 ギクリとした。現れたのは、さっき通り過ぎたはずの二人組の一人。遅れてもう一人の方も軒の下へとやって来る。 「レティシアさんだよね?」 「い、いや……ちが……」 「燕さん! やっぱりレティシアさんだった! いたいた!」 「だから、違う……」 「まあ、華茂。やりましたね!」 二人して、心地よさそうにハイタッチ。くっ……こっちの話なんてまるで聞いちゃいない。 だけどもう、コソコソ隠れるのも億劫になってきた。それにこの二人が何者なのかということにも、蟻ん子ほどではあるけど興味はあるし。 「わかった。とりあえず二人とも、中に入って」 どうやらババア……じゃなくてサジャンノは、二階に上がっているようだ。サジャンノにいらぬ迷惑をかけないためにもその方がいい。アルエは異邦の客人に、二脚の折り畳み椅子を準備した。そして自分は立ったまま脚を組み、商品精算用の台に肘をかける。 二人は名前を、遠野華茂と零式燕と名乗った。元気な方が華茂で、きれい系の方が燕。二人とも、アルエが見たことないようなぶかぶかした白服を着ている。 話を始めたのは、燕の方だった。 「私たち、レティシアさんに協力してほしいことがあって来たんです」 それはやはり、厄介そうな話だった。アルエの直感は当たった。最近はアルエの耳にも、魔女と人間の対立とか、人間側の魔女と反人間側の魔女との対立、なんていう話が届く。この二人は人間側の魔女で、人間を護るために自分たちの仲間になってくれと頼みにきたのである。 「どうですか、レティシアさん。ハーバルとの争いなんて無益なだけなのです。だから私たちは力をもって、ハーバルに牽制する必要があるのですよ。けして戦いなど望みません」 「それでアルエに、なにを?」 「ですから、私たちと一緒にリーフスの拠点に来ていただきたいのです」 そこで、言葉は止まった。 雨の音が、沈黙を埋めるのみ。 次第に闇が忍び寄ってくる、お菓子売り場。アルエはそっと歩き、ハロゲンランプのスイッチをひねった。ボウ、と人工の光がその場を照らす。 「帰ってちょうだい」 「で、ですが……」 「帰ってちょうだい。夕飯の準備があるの」 「もしかしてレティシアさんは……ハーバルなの!?」 立ち上がり、拳を固めて訊いたのは、華茂の方だった。 すぐには答えない。 ただ、フライパンで熱したような苛立ちが心の中を満たしていく。 「帰ってちょうだい。あなたは、アルエに飢え死にしろというのかしら?」 「華茂、引きましょう。押しても得策ではありません」 「…………う」 華茂は納得がいかないようだったが、燕に手を引かれて店のフロアを出て行く。 「無礼な訪問、まことに申し訳ございませんでした」 軒の下で、燕がこうべを垂れた。華茂も、しぶしぶではあるが燕に続く。 積霖はまだ、終わりを見せない。アルエは店先に置いてある傘を掴んだ。 「これ、使って」 「いえ、大丈夫です」 「いいから」 「……では。失礼します」 相合い傘を差した二人が、商店街の方に向かって去っていく。アルエは暫時の間、華茂たちの背中を見つめていた。 アルエは魔女学校を卒業した後、どこの地域を担当せよとも指示されなかった。ただ、自由に生きてよいと言われた。三分の一の同級生からはうらやましがられたが、三分の二は蔑みの目でアルエを見てきた。どこの地域も担当できない魔女、と定義づけて。 アルエは自らの感覚に任せて高速で空を飛び、アニンを何周もしてきた。そしてこの町の夜景をきれいだと感じ、この町に住むことにしたのだ。駄菓子屋ミスカームは、すぐにアルエを受け入れてくれた。小娘、小娘とやかましいが、アルエにだってできる仕事をちゃんと与えてくれる。 だからアルエは、この町を必要としている。リーフスにもハーバルにも興味はない。アルエはただ、この町で静かに暮らすことができればいいのだ。それでいい――、それで。 「行ったのかえ」 「ウニャア」 ちょうど華茂たちの姿が雨の向こうに消えた時、サジャンノとニーウが話しかけてきた。 ニーウは鼻をひくひくさせ、アルエの肩に飛び乗る。アルエはニーウの首を優しく掻いた。 サジャンノは、魔女たちの世界でなにが起っているかを知っていたのか。 そして、それでもなお、華茂たちの訪問に対して顔を出さずにいてくれた。 それはつまり、アルエがまだこの町にいていいという、免罪符のようなものだった。 「じゃあ、ババア。夕飯の支度しよっか」 「へ。あんたもいつか、ババアになるよ」 「ならないよ。アルエは、魔女だもん」 「そうかい。そいつは、強欲なもんだ」 アルエとサジャンノ。二人で小さな笑みを交わし合った時だった。 「あ! スイーツ!! これは見逃せないわねーっ!!」 元気な声が、一つ。 見れば胸元を大きく開けた巻き髪の女子と、ローブを地面まで垂らしてびちゃびちゃにした女子が二人、店の前に立っていた。 「チャーミ、待って! うち、これだけは譲れないんだかんね! いひひひ!!」 「道草は。いけない。……でも。雨宿りには。ちょうどいいわね」 雨の中、街灯が、ぽつりぽつりと光の輪を点し始める。 どうやら本日の、最後のお客が現れたらしい。
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