アルエの心音が高まっていく。 ここは空の中、そして、青の中。 太陽がひたすらに眩しい。アルエのチュニックは超高速の風を受けてはためきをやめ、今や一本の棒へと化していた。 チャーミとマロンが向かったのは、間違いなくアルエの住む町だ。しかしどうして二人はアルエの町を目指したのだろう。理由がまったく見えてこないのだが、二つの大きな魔力はすでに町へと到達している。明らかに目的をもっての行動に違いない。 ここでアルエは首を曲げ、下降に入る。中層雲へと突入だ。先ほどの穏やかさは気配をなくし、たちまちに視界がガタガタと揺れ出す。時折、稲妻が水平に走った。だがアルエは瞼を閉じない。完全な直線を描きながら雲の群れを突っきっていく。 ――と、そこで。 ズオオオオオオオ、ン…………。 と、重い音が響いた。 アルエの呼吸が三秒止まる。町……だ。アルエの町から黒煙が立ち上っている。 なにがあったの。なにを――、したの。 アルエは自らの魔力を最大出力した。町の全景が見えているのに、なかなか地面が近づいてこない。もどかしい。急いでも急いでも近づかない。もどかしい。 黒煙の近くに、人だかりがあった。ちょうどドーナツの形になるよう町の人たちが集まっている。ならば、そこへ――。 身体をひねって、着地。 やはり輪の中心には、チャーミとマロンの姿があった。 「思ったより。早かったわね。安心したわ。道草を食ってなかった。ようで」 アルエはチャーミの声に耳を貸さない。まず、周囲の状況を確認する。 かかとに重心を置いて回転。パノラマに流れる風景の中に、明らかな異常を捉えた。 ホテルが。 ホテルがシンメトリーに裂かれ、今も頂上からおびただしい噴煙を上げている。 その前で支配人とおぼしき男が、花崗岩敷きの地面に泣き崩れていた。なにも知らないナンテンの樹は、ただ白い花を咲かせるのみ。 「なんで、ホテルを」 思わず訊くと、チャーミはチェーンソーを斜めに持ち上げた。 「リーフスを泊めた。みたいだったから。見せしめよ」 「……けが人は」 「残念ながら」 軽く肩をすくめる、チャーミ。 「売れないホテル。だったのね。宿泊客なし。もっと。営業しないと」 「あ、うううううう……ぅぅぅ。私の、ほ、ホテルが……」 支配人はずっと、嗚咽を漏らし続けている。 ――そうだろう。 この男の人生において、事業をやろうと考えたことは大きな決心だったはず。業者とやりとりをして、一つずつ完成していく建物と計画。家族も応援したかもしれない。すなわちこのホテルは支配人の人生そのもの、だったのだ。 人間の寿命は、魔女よりも短い。 そんな人間の夢を踏みにじるという行動は、割ってはいけない器に傷を入れるようなものである。それをおそらくはあの……チェーンソーとやらで切り裂いたというわけか。 アルエは歯噛みしつつ、しかし、と思う。 (それならそれで、どうしてみんな逃げないの……?) 魔女がホテルを壊したのだから、こんなところに集まっているというのはおかしい。少しでも遠くに逃げるはずだ。それに、町の人の顔はどこかこわばっている。 アルエの心を読んだかのように、チャーミが人差し指をおもむろに立てた。 「逃げた者から殺すと。そう。言い聞かせたのよ」 「あなた……なんで、そんなことをするの……」 「まあまあ。皆に聞いてほしいことが。あるのよ。華茂と燕は。空軍のおかげで遅れた。全てが計算どおりで。微笑」 風が、わずかな砂を乗せてやって来る。 アルエがチャーミの次の句を待っていると、静かな、それでいて泥のようなささやきが耳に届いた。 (魔女め) (なんであいつら、生きてるんだ) (消えてくれ。本当に、消えてくれ) (魔女に、心なんてないのよ) それらの怨嗟は、誰が発したかわからないくらいかすかなものだった。 しかし、チャーミにもしっかりと聞こえていたようで、 「そう。そう! 魔女は最低ね。君たちの。全てを壊していく。面白いから! ただ。それだけで」 チャーミは顔を天に傾けて言う。 必然、目線はまるで、見下しているような角度へと変わった。 ざわつく周囲。血気盛んな男は拳を握り、今にもチャーミに飛びかかりそうだ。 だがチャーミは、紫色にも似た空気に動じない。うん、うん、と二つうなずく。 「そこで。ご紹介! 君たちのよく知る。この子」 人々が、アルエを360度、視線でなぶる。 「この子も。魔女なのでした! 喝采を。希望!」 あ。 ああ――――。 アルエの周囲が、一面の闇に変わった。 そうだった。今、アルエは上空から地面に下りてきた。それは、アルエが魔女だということのたしかな証拠。この町の人たちにずっとずっと黙ってきたことを、チャーミにあっけなく告げられてしまった。 アルエが魔女だということに憤怒する人間がいるだろう。 そして、アルエがこれまで隠してきたことに嫌悪する人間もいることだろう。 いずれにせよ、アルエのここでの生活はもう、終わりだ。 数百の目玉が、まるで炎の球のよう。アルエはこの炎に焼き尽くされてしまうのだ。 野菜を買いに行って、少しのおまけをしてもらったことがあった。 車を運転する人間が、アルエに向かって口笛で歌を奏でてくれたことがあった。 雨の降る日、人間の小さな子供と水たまりで遊んだこともある。 全てが全て、楽しかった。自分を受け入れてくれる場所があると知った時の喜びと安心はいかほどだっただろう。ここがアルエの住む町だった。当たり前の風が吹いていた。夜明けに飲むアップルティーが好きだった。空は始まりの色をしていた。一日一日が素敵に満ちていて、そして、長い物語のたいせつな一ページだったのだ。 そんな場所も、もはや。 「小娘だよ」 誰かが言った。 みんなで見た。 その強い声を発したのは、サジャンノだった。 「魔女だか人間だか知らないけどね。その子はまだ小娘なんだ。あたしらの暮らしを引っかき回しに来たのなら、さっさと消えな」 サジャンノの丸いサングラスが鈍色に光る。 その瞬間、人々から毒気が抜けていくのがわかった。 「そうそう、そいつは俺のお気に入りなんだ!」 「うちの子とよく遊んでくれているからね。小娘に違いないよ!」 「おねーちゃんがつくるお菓子はおいしいわ!」 アルエの小ぶりな鼻が。 少しずつ。 少しずつ、正面を向いていく。向けるように、なる。 そこには……チャーミの希望どおりの喝采があった。腕を伸ばしている人がいる。手でメガホンをつくっている人もいる。そこから流れる言葉の渦は全て、アルエという存在を認めてくれる声で満たされていた。 「小娘! 小娘!」 「小娘!!!!」 アルエのまなうらに、熱い潤いが満ちた。認めてもらえた、という過分さを添えて。 その逆襲の中で、チャーミの表情が無と化す。そして――、 ブルルルルルル――――――ン!!!!!! チェーンソーが一つ、唸りを上げた。その険しい音は、人々の小娘連呼を止めるには十分な威力を有していた。 「わかった。わ」 チャーミが目端をピクつかせ、アルエにチェーンソーの刃を向ける。 「君みたいな。魔女は。ハーバルにいらない」 するとマロンが、慌てたように両手を広げた。 「ま、待ちなよっ! ニーウ……じゃなくて、レティシアをどうするつもり!?」 「旅には。土産が。必要」 「それなら華茂と燕って子でよくね!? レティシアをヤる意味ないじゃんか!!」 マロンとチャーミの意見が相違した、その時。 ダッ。 ――――ダダッ。 二つの鋭い着地音が立った。 スマートな音の方が、燕。 そしてエネルギッシュな音の方が、華茂。 チャーミはそんな二人を見て、「ウーフフフフフフフ!!」と嗤う。 「マロン。君、うまいね。クイズが!」 たちまちに生じる、灼熱と零下の混ざった狂飆。 やや離れた空に、飛行船の像が見えた。 間合いの仮想領域が構築される。 それはまさに。 一歩の幅を間違えた魔女から消えていくであろう、完全な領域――。
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