船尾の硝子が、けたたましい音とともに散った。 陽光を映し、七色をまぶして舞う硝子片。それは、マロンが飛行船に侵入したことを示すCAUTIONにほかならない。 華茂も迷うことなく、割れた窓へと向かう。突入するとそこはシャワールームだった。ズタズタに切り裂かれた扉がもの悲しく床に転がっている。どうやらマロンは、廊下へと進んでいったようだ。 「きゃああぁあぁあぁあ!!!!」 悲鳴と同時に、鈍い音が鳴った。船首の方だ。 木片が風に流れ、船体の壁に寄る。その直上に、アルエの憤然とした童顔があった。 「行こう、レティシアさん!!」 シャワールームから出て、廊下を疾走する。左右には客室と思われる部屋が十ほど。行き止まりとなった部屋に飛び込むと、そこは四台のテーブルを擁した食事室だった。だが、うち一台はひっくり返り、ドレスを着た人間たちが部屋の隅に追いやられている。 背面姿のマロンがこちらを向き直る。 ぞっとするほど美しい犬歯が、鈍く輝いた。 「来たわねぇ、華茂」 「な、なにしてるのよあなた! 人間を盾にとってどういうつもりなの?」 華茂がビシイ! と指さすも、当のマロンはどこ吹く風。 「別にぃ。人間なんて、どうでもいいし」 「それならここから出ようよ! 話があるなら空でしてあげるからさ!」 「それはいいやぁ。ここだったら、魔法なしで話ができるじゃん?」 言うが早いか、マロンは深紅のカーペットを蹴った。 高速の上段横蹴り。華茂はこれを、腕を使って止める。骨が、ビリッとした。 「な、に?」 「ヤろうよ。魔法なしで」 マロンは高速で距離をとり、テーブルの上のフォークを四本ほど握る。それらを華茂目がけてぶん投げる。華茂は咄嗟に手近なテーブルを倒し、その陰に身を隠した。ダス……ダスダスダス!! フォークがテーブルへと突き刺さる。 そうか。 そういうことか。人間が近くにいれば、危なくて魔法を使えない。魔力の差でいえば、アルエがいるためこちらに分がある。つまりマロンは肉弾戦――フラットな戦場へと華茂たちを誘いこんだのだ。 「そりゃー、いくぜ!!!!」 マロンがカーペットを引っ張る。途端に足場が崩れ、華茂とアルエは後転。頭を護ろうと首を曲げた先、マロンが突っこんできていた。 ドンッ! ドン! マロンのスタンピングが華茂の顔面を襲う。華茂は側方へごろごろと転がりこれを避ける。たまらず椅子を蹴り飛ばせば、マロンは両指を絡めた拳でこれを粉砕した。マロンが空の瓶を投げてくる。華茂は瓶の旋回を凝視し、瓶の口に人差し指を突っこんで止める。そのまま打ち返せば、マロンもまた人差し指を入れてこれを止めた。 瓶と瓶が。 人差し指の間を十数往復する。 呼吸の方法を少しでも間違えれば、鼻頭に激突するだろう。 先に緊張を切ったのは、華茂の方だった。 カーテンをビリビリと破り、瓶の進行方向に放り投げる。瓶はカーテンに包まれて空中で停止。だが、一瞬閉じられた視界の奥からマロンの跳び蹴りがカーテンごと華茂を打ち抜いた。華茂は血泡を吹いて、後方へスライド。さらにマロンが前傾で走ってきたので、倒れたままの下段回し蹴りでマロンの脚を払った。 ドッ、と尻餅の音。 そのまま組みかかろうとしたが、マロンは背中の筋肉だけで身体を起こしバク転でその場を逃れた。ニヤリと笑うマロン。なんだ、次はどう来る。 バァーン!!!! マロンが裏拳で窓をぶち破る。またも人間たちの悲鳴が轟いた。たちまちに生じる、風の引力。華茂のバランスが崩れた。そこへ待つは、マロンの強靱な蹴り。 ――――もう、それは。 身体が自然反応を起こしたとしか言いようがない。 華茂は両手をかぶせるようにマロンの蹴りを受けると、その反動で前転した。膝を曲げ、きびすの一点に神経を集中させる。極限まで溜めたエネルギーをただ一点に、この一点に捧げる――――、 幽天からの、かかと落とし。 ご、 づぅっ!!!!!! もろに入った。 マロンの僧帽筋。マロンの腕が、ぶらんと伸びる。 「はぁ……ん?」 最初は驚いただけの、マロン。だがやがて鈍痛が到来したようで、マロンの眉間に深い皺が寄った。ツーステップでバックアウェイ。この隙を逃すまいと思ったが、マロンは破れた窓にためらいもなく頭を入れた。 だがマロンの脚が、腿が、見えている。華茂はマロンの足首を掴む。するとマロンはこちらをギロリと睨み、手首を振った。それは――、小さいけれど、受けてはならぬ、 風の刃。 入り身反転、ミリ単位の危うさでこれをかわす。マロンの刃はそのまま空間を直進し、食事室の壁を貫いていった。 途端、ガガ――――ン!!!! と奇音が立つ。 「な、なにっ?」 そしてぐらりと傾く、飛行船。 目を凝らす。隣の部屋から尋常ではない量の煙が巻き起こる。そうか、あれは――、操縦室だ。飛行船の操縦機器が、マロンの風で斬られてしまっている。 傾斜がひどくなり、人間たちが壁際から別の壁へと滑ってきた。手が脚が絡まり、もう団子状態だ。華茂は魔法で浮いてみせるが、人間たちのパニックは粋を極めている。 マロンの姿が、もうない。窓から外へと逃亡を開始したのだ。……どうしよう。でもまずは、人間たちを助けないと! そこで、またも、ぐらり。 今度は床が水平へと戻った。人間たちの絡みがほどけ、親しい人同士が無事を確認し合っている。え、どうして。煙はまだおさまっていないのに。なにが、どうなった。 華茂も窓を抜けて外に出る。するとそこには。 血だらけになりながら、飛行船を船底から支える燕の姿があった。風に、風に、血が遊ばれている。 「つ、燕さん!!!! なにしてるの!?!?」 「華茂! 早く、マロンさんを追ってください!!」 「そ、そんな……だめ、だよ。燕さん……」 「早くっ!!!! 私も頑張りますから……どうか、この力を無駄にさせないでください!!」 燕の、覚悟を決めた瞳。 そうだ。 なにを迷っている。燕は身を挺して華茂に追撃の機会をつくってくれた。 ならば。 「行くわよ」 華茂をたしなめるように、アルエの身体が浮上した。肩には「ニーウ」と、白猫の影。遅れるわけにはいかない。華茂も燕に目礼を入れて、アルエに続く。 華茂は元々飛行魔法が得意ではない。イアとの修行により、少し開花したくらいだ。アルエの像はみるみるうちに粒と化していく。それでも手負いのマロンに追いつくのは、それほど難しい問題ではなかった。 ボロボロになった制服。そしてあちこちの肌が見える、マロンの背中。 華茂がマロンに追いついた時、ちょうどマロンの進行途上にアルエが浮いていた。マロンは行き場所を失い、ただ空中に漂うのみ。すなわちこれは、挟み撃ちの格好だ。 「マロンさん、もう逃げられないよ」 華茂が言うと、マロンは荒い息をつきながらこちらを見た。 「逃げられないって……うちを、どうしようっての?」 「リーフスのお茶会に来て。あれだけ暴れたあなたを、このまま放っておくことはできないよ」 「へっ……。うちを、お茶会に……はは」 マロンの声に、力はなかった。 実際、彼女からはもう抗うような気持ちが感じられなかった。チャーミも遁走したことだし、ハーバルの脅威はここで終焉を迎えたのだと。華茂は、そう感じた。 だが。 「…………!?」 気配がした。 それは、青という青を喰らう、たしかな漆黒。 雲が蠢動した。なにかによってかき混ぜられているような痺れが勃発している。 華茂は気づいた。 アルエが下方を確認し、こめかみからひと筋の汗を垂らしていることに。 「…………え。レティシア、さん?」 「そ、んな」 「レティシアさん? どうしたの? なにかおかしいことあるの?」 「アルエは、たったの三日前に、祓ったはずなのに……」 そこでようやく、華茂も異常の正体に気づく。 これは間違いない。華茂もよく知っている……いや、魔女であれば誰もが知る、致死の存在。 そいつは、ゴ、ゴゴゴゴゴ、ゴゴゴッゴゴゴゴゴ…………と、渦を巻きながらやってきた。 穢れ――――。 一歩遅れた。 対応が、ただの一歩遅れた。 華茂はガアアアアアアアアアアアアアア――――ッッッ!!!!!! と吹き上げてきた穢れの竜巻に、容易くその身をさらわれた。アルエもだ。 「なぜ、 た つ まき 三日 おかし」 アルエが喋っているが、その声も途切れ途切れ。 う ず が かも の み を ふり まわ す こ え は でな い め が たしょう き く だ け 混乱が混沌を呼び、消炭色に墜ちた視界。 しかしぼんやりと、上方にマロンの像を捉えることができた。どうやら、マロンだけはこの竜巻を回避することに成功したようだ。 マロンは、腰に手を当てて嗤っていた。 「神だな!」 マロンの周囲に白いさざ波が奔る。 「こいつぁ、うちにとって神さん! 全部……全部全部全部全部!! こいつで終わりだぁああぁぁああぁぁ!!!!!!」 そのさざ波は、豆腐を両手で潰すように圧縮されていく。 透明さをともなっていた波は、マロンの正中線の前で一本の鉛白と化した。 神、とマロンは言う。 だが華茂にとって、その時のマロンの荘厳さはまさに、風の神ではないかと感じられたほどだった。 (全てを無に還す――――遠大なる、白) 『円環フラッシュライト、最大出力!!!!!! 一波輝線ッッッ!!!!!!』 鉈がごとき風の刃が、マロンから放たれる。 それは豪速。 そして、確殺。 穢れの渦をものともせず、一直線に華茂に向かって進んできた。追尾の機能があるのか、渦の流れも計算に入れて、確実に華茂へと近づいてくる。 受けようがない。 魔法で返すこともできない。 ならばせめて、この身を炎にくるめ、減殺を狙うしかない――。 後のことは燕に託そう。このままここで泡と消えるか、ライラの回復魔法まで持ちこたえられるか。それはわからない。わからないから、やるしかない。 刮目して炎を念じたその時――――、 『にゃうぁああぁあぁぁぁぁああぁっぁぁあぁぁっっっ!!!!!!』 ニーウの、ひと鳴きだった。 小さく開いた、いとしい口。 ニーウは全てを呑みこんだ。 穢れの黒も。竜巻も。 ……そして、マロンの魔法の最終形も。 「にー、にー、にぃ!」 あっけなかった。 ほんとうに、あっけなかったんだ。 全てが過ぎ去った後、そこに残ったのは、親指を頭に当てたアルエ。そして、小さなげっぷを一つする、ニーウの姿だけだった。 「ばか、な。……ないでしょ。そりゃ、ないよ」 マロンが半笑いになっている。だがその唇は、細かく震えている。 「ばかなばかなばかなばかなばかなばかな!!!! そりゃない。そんなのーないよー」 アルエはマロンに涼しい視線を送り、ニーウを肩へと呼び戻す。 「なにか、疑問でもあるかしら?」 「いやだってさ! あははは! うちの、最強の魔法だよ? あはは?」 「簡単なこと。マロンちゃんに実力がないからでしょう。アルエよりも」 そこで、マロンの笑いがふとやむ。 マロンは元々大きい目をさらにぎょろつかせ、ぐう、と両の拳を握った。 「華茂ちゃん」 アルエが、横目で言う。 「マロンちゃんの魔力は、もうほとんどないわ」 ――そうだろう。 回復魔法というのは相当魔力を食うと聞いたことがある。それに加えてあれだけの風魔法を放ったのだから、当然といえば当然だ。 「アルエはね、マロンちゃんと友達だった時もあるの。つい最近のことだけど、アルエはすごく楽しかったわ」 華茂の脳裏に、花のように笑い合う二人の姿が映った。 あの笑顔に、嘘はなかったのだ。 「だから最後は、華茂ちゃんに委ねる。決着は……あなたにつけてほしい」 華茂は、うん、とうなずく。 いつも優柔不断なのが悪いくせ。 だけど今は、迷ったりはしなかった。 こころを、もらった気がしたから。 華茂はグゥ――――ンと上昇する。マロンをこのままにしておいては、また次の事件を引き起こしてしまう。人間を護るためにも、あの魔女を放置することはできない。 マロンもこちらに目を向けた。しかしその目はなぜか、落ち着いていた。笑みさえ見えた気がした。そのままマロンは急降下。華茂とともに、半直線で結ばれる。 マロンが、来る。 最後の力を乗せて。 腕を振りかぶった。華茂も、拳に炎を宿す。 「うちは、負けない! 人間に馬鹿にされて、裏切られて。負けて、負けて、負けて、負けて……まだ負けてたまるもんか。…………たまるもんかあぁぁぁああぁぁぁぁぁぁあぁっっっ!!!!!!」 「わたしは一人じゃない! だから、負けないんだよぉぉぉぉぉっっっ!!!!!!」 さすがは、風の魔女だった。 風を司る、強い強い魔女だった。 最後の最後の最後は……やはり、手刀できた。 そしてそれを、華茂はわかっていた。華茂がマロンという魔女の矜持を信じることができたからこそ、マロンの手刀を屈伸でかわし――――、 『火龍――――――ッ!!!!!!』 マロンの腹部に、炎熱の拳を叩きこむことができたのだ。 厳罰と化した焔が、マロンの内臓を通過した。と、華茂は感覚で知った。 固めた拳を、ぶるぶるぶるぶると震わせる。瞼に、涙を滲ませて。 マロンは完全に意識を失った。ぐらりと身体を傾け、そのまま地上へと降っていく。金髪で明るい、そして風を司る魔女。しかし彼女の身体は、途中で柔らかく止まった。 アルエの両腕、だった。 アルエが抱える腕の中、マロンは半口を開けてぐったりとしている。 「しばらくおやすみ。マロンちゃん」 アルエは目を閉じると、マロンのぷっくりとした頬に小さくキスをした。 時が、失われる。 華茂は、ふにゃっと笑った。 ――笑えた。 (わたしも行きたい。早く行きたい。大好きな、燕さんのところへ) よたよたと体勢を整え、ゆっくりと下降に入る。 だが、その時だった。 全天が白群――遙かなる水色へと染まった。 神話のような空。目を凝らして見ると、それらは全て氷で形成されている。 バキン、と音が鳴り。氷に稲妻のごときひびが入る。 「く。ら。えぇええぇえぇぇえぇぇぇえ――――――ッッッ!!!!!! キャーハハハハハハハハッハハハハハハハハハハ!!!!!!」 血を垂らした武器が、狂った回転音をがなりたてる。 チェーンソーをかつぎ面の格好に構えたチャーミが、氷の隙間から銀閃を描いた!
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