リリーの頬に哀しみが滑った。 華茂はリリーではないのだから、ほんとのところどうなのかはわからない。 だけどやはり、リリーは残念そうな顔で華茂たちを見下ろしていたのだ。それは、最後までとっておいたハンバーグを食べ終わった後のような表情だった。 「狭いわ」 リリーはバイオリンを消し、貝殻の模様に似た穹窿に人差し指を向ける。 その指先から一つの火球が出現。火球はゆっくり、ゆっくりと馬鹿にするような速さで穹窿へと進んでいく。音はない。全員で、光の源を見つめる。 そして火球が天井に到達し、そのなめらかな表面で舐めた途端――、 ドボゥゥオオゥォォオゥゥ!!!!!! 漆喰一面に炎が奔り、柱梁もたちまちのうちに崩壊する。あーっ、とあくびをするように落ちてくる溶解石。華茂たちの斜め上に現れたのは、すっぽりとした穴だった。穴から星屑が瞬きをする。ほんのわずか、碧みがかかる。リリーは、まだパチパチと燃える熾をのんびりとした目で見やった。 「遠野さん。あたしとあなたが踊るには、此処は少々狭すぎるのでございます」 リリーは、燕にもライラにもアルエにも、まったく注目していないようだった。目もくれない。まるで無視。華茂とリリーだけが、瞳水晶で会話する。 「参りましょう」 「……どこへ」 リリーは自らの唇を、舌でわずかに湿らせた。 「ともに、宇宙へ」 リリーが舞い上がっていく。早く来いと。ずっとずっとお前を待っていたのだと。その泰然とした目で語りかけてくる。 蘭麗もリリーに続く。強敵二人が、闘場の高度を上げていく。 華茂は昔から、戦いというものが嫌いだった。 魔女学校の攻撃魔法の授業でも、華茂だけがいつも居残りをさせられていた。 だって、嫌なんだもん。 痛い思いをするのは嫌だ。誰かを傷つけたくはない。皮膚を少し切っただけでも、一日中そのことばかりを考えてしまう。痛みは生きる気力を浸食する。みんなが笑って生きるためには、戦う以外の解決策をとるべきだ。模索すべきだ。 しかし今の華茂の喉は、こう奏でた。 「行こう――」と。 一拍の後、背中の向こうのライラから「そ、そうだな。島の人間に迷惑がかかるもんな……」という答えがあった。わずかな、ためらいの気配を乗せて。 この気持ちはなんなのだろう。 なんというか、手紙の返事を書く時に似ている。 リリーと蘭麗は華茂との時間を求めていたのだ。それに応えなければならない、という思いが胸を焦がす。少しずつ、少しずつ。地面から足下が離去していく。 その速度が、増した。 増した増した増した増した増した増した増した。 この胸を打ついのちの音と、呼応するように。 増した増した増した増した増した増した増した。 もしかしたら華茂は、リリーの心を読んだのかもしれない。 寂寥の黒天へ向かって。 進め進め進め。 華茂の高度がリリーたちに追いついた。互いに攻撃せず、牽制せず、存在を認め合ったまま昇っていく。風が縦に流れる。それはさながら急流のよう。島はもう見えない。半島が見える。大陸も臨める。雲叢が喝采を上げる。 空気、温度、そして弱音――。 全てが零と化した宇宙にて、華茂はリリーと対峙した。はっきりと、確実に。 決戦の時が、訪れた。 そしてリリーは、そっと口を開いた。 「このリリー=フローレス。大魔女と呼ばれて幾年月。その名を手放しに喜んでいたわけではございません。年増扱いを受けているようで」 リリーは、おかしむ、といった感じでおかしんでいる。 「ですがその名に恥じぬ自信はございました。……あなたと、会うまでは」 「わたしも……あなたと会うまで、本気で怒ったことはなかったよ」 そこに、ようやく燕たちが追いついてきた。 全員で横並びし、リリーと向き合う。 「ふふ。零式燕、ライラ=ハーゲン。魔女学校の主席かなにか知りませんが、ともに赤子同然。魔力だけが自慢のレティシア=アルエも経験不足で戦術などからっきし」 アルエの奥歯がぎりっと鳴る。 おそらくアルエはリリーの黒魔法で連れ去られたという事実を思い出し、そのふがいなさを自らに叩きつけているのだろう。 そしてアルエは、音もなく華茂の前に出た。 「あ、アルエさん?」 「いくらなんでも失礼だわ。今の言葉、取り消しなさい」 次にもう一人、アルエの隣へと並ぶ。 ライラのツインテールは幾分、怒りのために逆立っていた。 「華茂ちゃん、悪いけどここはライラにやらせてもらうわ」 そして最後。 燕が、華茂を護るように両手を広げた。 「華茂にはもう二度と手を汚させません。汚れるなら、私の手だけで充分です」 三人は無言でコンタクトをとり、三方へと散った。 『静かな湖だった。そこにはなにもなかった。私が水面を指でつつけば、水たちは揺らぎ、やがて暴れ出した。水が歴史を変える。ゆえに私は、歴史の創造者である』 アルエの両肩から、著しい砂塵が巻き起こる!! 『雲の峰。音色が、りぃん、りぃん。蝉の鳴く音を越していく。どうかまだ、夜を呼ばないでおくれ。今宵、私の街は燃え尽きてしまうのだから』 ライラの両手の指が振動し、その先から炎波が姿を現した! 『氷の音楽が聞こえるかしら。その先端で貴女の胸を突くかしら。私は横から眺めていましょう。氷が貴女を仕留め損ねた時、青の刺突を贈れるように』 燕の頭上に、何者をも貫く氷槍が像を結ぶ! そしてそれが、合図だった! 『いざなうわ! 駆逐せよ――――不退転ッッ!!!!』 『Ignition of Wonderlandおおおっッッ!!!!』 『氷舞ァァァァァァ――――ッッ!!!!!!』 「雑魚どもがッッ!!!! 身の程をわきまえながら泡になりなさい!!!!!!」 ニーウの吐いた砂が薔薇の模様へと変わる。ぐにゃぐにゃと揺蕩っていたが、突如として急旋回した。緩から急。薔薇は、リリーという餌を発見したらしい。 ライラからは、二つの炎波が完璧なリズムで放たれた。まるで炎の毒蛇。サイドワインダー。リリーの側方を狙い、一分の迷いもなく進んでいく。 それらの魔法より前に、さらなる駿足で飛び出したのは燕だった。片腕を大きく振ると、氷の槍は一直線に空間を割る。燕自身も前傾姿勢で飛びこんでいく。 まずリリーに到達したのは、燕だ。 上段回し蹴り。 ビシッ! ――とリリーは腕で止め、 重心を入れ替えて、逆側の脚で上段回し蹴り。 ビシッ! ――やはりリリーは、逆側の腕で止める。 そこで炎波が分岐する。左右に分かれた炎は、挟みこむようにリリーへと襲いかかった。リリーはバイオリンの弓だけを魔法で現出。一方の炎を弓で払い、もう一方をかがんでかわす。二つの炎は真空をクロスする形となり、リリーとの邂逅に失敗する。 「はあっ!」 気合一発、燕の下段蹴り。しかも燕はリリーと同じくしゃがんでいる。屈伸した者同士、同一線上からの急襲だ。その脚は鞭のようにしなる。蓄えに蓄えた弾性エネルギー。脚の像がブレる。 「逢魔掃討ッ!」 リリーの前に、四本の火柱が立つ。燕は慌てて脚を引っこめた。しかし勢いを殺すことはできず、燕はいわゆる空振った状態で脚を上に向けた。そこを見逃すリリーではない。火柱の方向を水平に変え、唇からフッと息を一つ。火柱は光線のごとく燕の脇腹を目指す。 がぎゃ ―― ぁああぁぁぁぁ ―― ああぁっっ!!!! その火柱を喰らったのは、アルエの魔法――薔薇だった。燕はすんでのところで火柱との直撃を避ける。その顔には、九死に一生を得た思いが描かれている。 薔薇はまだ満足をしない。リリーを包みこむように接近。だがリリーが弓でビュン! ビュン! と十字を描くと、その形の光線が薔薇の表面へと沈んだ。光は粒となり、果てる。同時に、ニーウが「にいひっ」と小さなげっぷをした。 「単純でございますね。また、先日と同じ結末を味わいたいのでございますか?」 リリーの挑発を受けて、アルエの顔に悔しさが滲む。 ――そうか。 リリーはあえて、ニーウに魔法を食わせたのだ。 アルエの魔法は無から有を生み出し、有を無に還す強力な魔法。その魔力だけなら他の魔女の追随を許さない。それはたとえ、相手がリリーであったとしてもだ。 しかしリリーはアルエの弱点を逃さなかった。リリーもまた、強大な魔力をもった魔女である。例えるなら、リリーが雨でアルエが堤。堤は水の進行を許さない。しかし豪雨に次ぐ豪雨を叩きこめば、いかなる堤防も決壊してしまう。 「魔女学校の頃を、思い出しますわね」 リリーは自らのドレスを手で払い、たたずまいを正す。 「あなたはあたしの生徒でした。そしてあたしはあなたの才能を見抜きました。それがゆえ、あなたに与えなかったものがあるのでございます。それがなにか、わかりますか?」 アルエは答えない。本当にわからないように、小さく首を傾げる。 その仕草を見て、リリーは不敵に笑った。 「自信。生きていく中で、最も大切なものの一つ。自信のない天才は、自信のある凡人に到底敵わないものなのでございます。あたしがせっかくあなたから牙を抜いて差し上げたというのに……」 リリーの黒目が、燕、ライラ、華茂の順に射貫いていく。 「余計なことを……」 リリーは再び薔薇に目をやり、 やり、 やり――――、 ギュウゥゥゥウウゥウゥゥゥゥンンン!!!!!! ――――ぱしっ。 薔薇の下をくぐってリリーに伸びてきた氷槍を、足裏だけで鮮やかに止めた。 「なんとあざとい。零式さん、あたしの痴呆にでも期待したのでございますか?」 燕の口から吐息が漏れる。そして、不自然な瞬きが繰り返された。 きっと燕は……、氷槍を打ち出すタイミングをはかっていたのだ。そしてリリーが雄弁になった今こそがチャンスだと思った。しかしリリーは忘れていなかった。かつて自分のふとももを出血に至らせた忌まわしき氷を、けして忘れてなどいなかったのだ。 「で、お次はここでございましょう……ねっ!!」 リリーが弓で薔薇の中心を突く。 そのままぐるぐるとかき混ぜると、刺突の点からザァアアアァァァ!! と砂が散った。それらはマーブル状となりながら、リリーの身体を避ける形で宇宙に溶けていく。 今のはおそらく。燕の――、土魔法。 「これも芸がございません。砂の中に砂を隠す。レティシアとの連携は見事でしたが、こんなものを見抜けないようでは、あたしはあたしになれませんから」 そこでアルエの魔法が解け、薔薇はただの砂粒と化した。アニンの重力にその身を委ね、バラバラバラと瓦解する。 リリーは燕たちに向かって、弓を厳しくしならせた。 「さぁて、誰から泡にしてあげましょうか。蘭麗、誰がよいかしら?」 「そうね。じゃあ、レティシアなんてどう? あたし、幸せなのに孤独ぶっている子ってどうも好きになれないのよねぇ」 「なるほど。では、これまで働いて下さった蘭麗にねぎらいの意を込めて――レティシアから、即死でございましょう」 リリーはアルエに照準を合わせる。 もちろん燕とライラは傍観しない。華茂もそこに加わり、三人でアルエの身体を護るように浮いた。誰一人、死なせない。みんなでお茶会に戻るんだ。帰るんだ。 絶対に――。 「ふっ。あまり近づいていると、一緒に溶けてしまいますわ、 リリーが指先に炎を点した、刹那。 よ」 リリーの顔が、ぐにゃりと歪んだ。 「この気配……」 うつむき、なにかを感じとろうとするリリー。 「この気配は……そして魔力は……」 同時に、華茂の頭にも電流が走った。 ビィーン! とくるこの感覚。温かさ。強さ。ほがらかさ。冷静さ。美しさ。 この世の全てに興味をもち、この世の全てを信じた、この懐かしさ。 そう。 そうだったよ。 イア師匠はたしかにたしかに。そういう、魔女だった。 「リリー師匠! ティーナさんがここに近づいている! 急いで!」 蘭麗が叫ぶ。 「やかましい!!」 リリーが一喝で返す。 ……なんと頼もしい。ただの気配だけで、敵二人の優勢を打ち崩すなんて。 イアは、生きていたんだ。 生きて、生きて、生きて。 そしてまた、華茂たちを護ろうと高速で近づいて来ている。 なんて、魔女。 華茂の目尻から、ぽろりと涙がこぼれた。戦いの真っ最中だというのに情けない。喜びの言葉も、仲間を鼓舞する言葉も唇を離れてくれない。ただただ、涙が涙があふれてくる。 だけど華茂だけじゃなかった。 燕も泣いていた。ライラも瞼をこすっていた。 みんなの希望。希望が間もなく――、ここへやって来る。 「時間がないので、ございますか」 リリーはためらいもなくバイオリンを出した。ルーレットのような動きでバイオリンに弓を構える。あの魔法は、あの魔法は……っ! 「みんな、集中して!」 「……あっ!」 「え?」 「…………?」 華茂は神経の全てを集中させた。たちまち忍び寄ってくる死の影を知っているから。 翳りに負けるな。 血液よ。一瞬だけでいい。 ――――止まれ。 疾風は春の祖となるも そのひと吹きに春あらじ 珂雪は冬の祖となるも そのひとひらに冬あらじ―― リリーの、流麗な演奏がその場を満たす。 ジ……ジジジ……と、磁場が生じる。 探るような目でリリーを見ていたライラ。その身体が、ドクン、と跳ねた。 「ぐ、ぐ……? ああっ?」 そして歯同士を合わせたまま、ライラの唇が開かれる。 「ぐぎゃぁああぁぁぁぁああぁぁぁぁあぁ――――――――――っっっ!!!!!!」 「な、なにっ?」 異常事態に驚くアルエもまた、胸郭を震わせた。 「ああああ……あつ、あっ、熱い……うぅぅぅぅぅぅぅうううう!!!!!!」 二人は両手の指を第二関節で曲げ、なにもない空間を掻こう掻こうとする。 しかしいくらもがこうとも、身中の毒からは逃げられない。 「ライラさん! レティシアさんっ!!」 華茂が疾呼するのと蘭麗が詠唱を始めるのは、ほぼ、同時だった。 『龍が如く希望を押し流す水に告ぐ。敵の慧眼を、黒く塞げ――』 灰色の手が二つ、実像を得る。 手首から先だけの手。それはおそらく、蘭麗の魔法だ。 その二つの手は最短距離でライラとアルエに接近し――、 彼女たちの心臓を、邪悪に捉えた。 「戦意喪失確認! リリー師匠、今だっ!」 「蘭麗、見事でございます! はっ!」 リリー上方の空域から2メートルほどの板とU字型の桎梏が現れた。それらは目にも止まらぬ速度でライラとアルエを囲い、二人の手首を襲った。 壁にべとりと張りつけられ、両手を挙げた状態で自由を塞がれる。ライラとアルエは完全に身動きがとれなくなってしまった。黒魔法の波動を受けていた華茂には、二人を助ける余力などまったくなかった。完全に、やられた。 「う、く……」 しかし、華茂は顎に力を入れる。 自分の二の腕を、バアン! と一発殴る。 耐えた。 耐えたのだ、華茂は。 そして横を見れば、燕も拳を構えていた。 一度受けた技は二度くわない。それはリリーだけの特権ではない。 もう一度、言おう。 華茂と燕は、耐えたのだ。 全身の血液を沸騰させる、恐るべき魔法――『青銅のSleepless・Night』に。 あの演奏を聴いてもなお、この身から力は消失しない。 あるのだ。 ――――ある。 惨めに倒れたりする心はもう、永訣した。戦うだけの気持ちがあふれる。明日のために。そして、今のために。お前など微塵も怖くないのだ――、大魔女リリー=フローレスよ。 「へぇっ」 蘭麗は華茂を見て、意外そうな顔をした。 「あれが効かなかったんだ。すごいね、ほんとに」 そんなふうに誉められても嬉しくはない。だって、耐えることが目的ではないから。打ち勝つことが目的なのだから。 燕のために。すなわち、愛する人のために。 華茂がゆっくりと、身体の芯に力を注ぎ始める。そんな、時。 影が、現れたんだ。 そいつは、瞬間移動をしたというわけじゃない。 光ほどに速かった。そういうわけでもない。 だけど華茂はかわせなかった。 ドムッ! 「かはっ!?」 影は前蹴りを華茂の下腹にめりこませる。 ず、むっ……。 「げ、おおおおおおおおっ……」 影の正拳突きが、鳩尾に決まった。 止まる呼吸。喉奥からせり上げてくる、胃液。 しかし、ギラリと輝く致命の一撃だけは首をひねって避けた。 それは華茂の顔面を紙一重で捉えず、宇宙の奥へと消えていく。 その正体を、華茂はたしかに見た。 鋭利な、氷の円錐。 「華茂……」 大好きな大好きな魔女が。 その柳眉を、どこまでも高く、いからせていた。
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