マロンは寄り目になり、「あうっ?」と漏らす。 その場にいた誰もが、身体の力を一割ほど抜いた。もちろん、華茂もだ。 「ニーウ、戻って!」 意思を宿した声が、時を再び動き出させる。 華茂の目の前にそびえたのは、均整の取れた長身。たおやかな髪がさらりと風に遊ばれる。だがその背中にはたしかに、何者をも震撼させる怒りが静かにわなないていた。 アルエの歯が、ギリッ、と鳴る。 「壊したわね」 こころなしか、指先が顫動している。 「あなたたちは壊した! だからアルエはここに来た! アルエはあなたたちを、絶対に許さない!!!!」 アルエは華茂に背を向けているため、その表情をうかがい知ることはできない。しかし彼女の声には、どこか涙色が混じっているようにも聞こえた。 だがチャーミは要領を得ない感じで、ゆらりと首を傾げるだけ。 「壊した? ああ。さっきの岩が。町に落ちたのね。駄菓子屋にも。届いたかしら?」 「ミスカームは……」 そこでアルエは頭をもち上げる。その角度は、宇宙を眺めているようにも、あるいはあふれてくる雫をなんとか我慢しているようにも見えた。 「もう、ないわ」 「だけど君は。ここにいる。今こそ。旅立ちの時」 「ここにいる? そう……そんなふうに考えるのね。あの炎は、あなたの魔法でしょ?」 「正解。景品は。ないけれど」 「あなたたちが壊したのは、町だけじゃない」 そう言ってアルエは、手をそっと胸に当てた。 「アルエの暮らし! アルエの人生! ……アルエの未来! だから、同じように……」 ニーウがアルエの肩に乗り、小さく喉を鳴らす。 たちまちに生じる、羅刹の気配。広域に磁場が生じ、辺りの空気をビリビリと震わせる。これまでに感じた何物よりも戦慄に満ちた気配に、華茂の肌という肌が粟立っていく。 アルエは半身に構えると――、 「同じように、あなたたちの未来を奪ってあげるわ!!!!!!」 一瞬の残像をのこし、アルエの背中が遠ざかっていく。それはまるで、砂時計の砂が一点に落ちていくように。 『静かな湖だった。そこにはなにもなかった。私が水面を指でつつけば、水たちは揺らぎ、やがて暴れ出した。水が歴史を変える。ゆえに私は、歴史の創造者である――』 アルエが狙ったのは、マロンの方。 おそらくはマロンの方を強敵と捉えているのだろう。さっきマロンは、チャーミがチェーンソーを出せないと言っていた。なんらかの理由であの武器が使えないのなら、ここ空戦における難敵はマロンの方ということになる。 マロンも自分がターゲットに選ばれたのを感づいたのか、夢から覚めたような目で唇を真一文字に結んだ。 華茂が首都で見た、花を選びながら笑う二人の魔女。 ここにはもう、そんな二人はいなかった。 『いざなうわ! 駆逐せよ――――――――、不退転ッッッ!!!!!!』 一気呵成、というアルエの気迫。 しかし――、なにも生じない。 ニーウが楽しそうにピョンピョンと空を舞うだけで、アルエからは火・水・風・土いずれの属性の魔法も放たれないままだ。それでもアルエはどんどん距離を詰めていく。マロンの顔に不審の色が浮かび出す。なにをやるのか、どこから来るのか。 「うっ……」 わずかな躊躇を見せたマロンだったが、 「ご、ごめんな!!」 目を閉じながら、嘆くように腕を振るった。先刻華茂を襲ったものとは数も面積も減ってはいるが、それでも凶悪な勢いを乗せて風の刃が進んでいく。 アルエは、その場にぴたりと停止した。 それは直立不動。眉尻をわずかに下げるのみ。 相手を気遣うような。あるいは、過ぎ去りし時を惜しむような。 ピシッ――。 ピシッ。ピシ。 三枚の風刃は、アルエの簡単な所作により指の間へとおさまった。 「な、んで」 マロンは目を剥いた。いや、それは華茂も同じだった。 建造物を一刀の下に斬り捨てる、マロンの風魔法。 華茂と燕を苦しめ、燕の腕の皮膚を破ったあの威力。 マロンはアルエが傷つくことを予想していたのだろう。だがアルエは親指から中指までの三本を使用するだけで、刃を無力化させた。あのタイミング。動線すらも見破っていたに違いない。 「ありがとう、マロンちゃん」 哀しく笑い、アルエは風刃を投げ捨てる。紺碧が全てを包みこむ。呆然とするマロンに対し、チャーミはなにかに気づいたかのように叫んだ。 「かわしなさい。マロン! 本体は。その娘では。ない!!!!!!」 『フニャァァァァァァァゴォォオオオオオオォォォォォ!!!!!!』 たしか、ニーウという名前の猫。 その猫の口から、砂吹雪が尋常ではない勢いで吹き出した。砂は直線に、あるいは曲線を描きめいめいに伸びていく。まるで幾何学模様。だが砂はたしかに、なんらかの紋様を描こうとしていた。注視する。あれはなんの図形だ。あれは、あれは――。 ――――薔薇。 高貴な花びらを震わせ、薔薇は一直線にマロンへと接近する。マロンは自らの身体をかき抱いた。いのちの気配が断崖へと追いやられる。おそらく彼女に熟思の時間はない。マロンは最終奥義を、ためらいもなく吐き出した。 『円環フラッシュライト――――ファッキン・クロス!!!!』 背表紙を破損した本のように、バタバタバタバタ!! と風が舞い散る。あの一つ一つが滅殺の能力を有している。風は瞬く間に薔薇へと襲いかかった。ズバッ! ザスッ! ガガ……ガガガガガ!! 薔薇は四方八方からの斬撃を受け――そして――、 華麗に、散る。 「な、なんだぁ」 安心の息を吹く、マロン。 そう。薔薇は散っていた。 散っていたのだ。 砕け散った、という方が正しいかもしれない。 薔薇はその姿を分離させたのだが――、 消えてはいなかった。 「ま、魔法が消えない!? おめー、どうなってんだ!!」 砂はたちまち、薔薇へと形を整えていく。しかもマロンの風を喰らったことによりその速度を増していた。瞬き一つも許さない。許されない。音速の壁を突き破った薔薇は――、 メ、シャァァァァ……。 「か、カハァ…………」 絡みつくようにして、チャーミの頭からつま先までを捉えた。 メギメギメギメギ!! 「う、ぐあぁあぁあぁぁ」 バキン!! 「ぎゃあああああぁあぁぁぁああぁぁあ!!!!!!」 それはまさに、断末魔の叫び。 チャーミに粘り着いた薔薇は異常な圧力をもって、おそらく彼女のどこかの骨を折った。 「うっ、くっ」 チャーミは膝をぶらぶらとさせながらも必死の炎熱で薔薇を払い、上空へと逃げていく。 遠く遠く――それは遠くへと――。 チャーミは後先を考えることなく、戦闘圏から離脱したのである。 しばし上方を眺めていたマロンは、ふいと視線をアルエに戻す。 「そっか。わかったわ。おめーの魔法は、なにもないとこから存在を生み出す魔法だ」 「ニーウ、戻りなさい」 「にゃん」 ニーウが再び、アルエの肩に乗る。 「その猫がそうでしょ! おめーが! 創造した! それは……光魔法だ!!!!」 「これが光魔法なの? リリー師匠には呆れられたけど」 違う。 華茂は思う。 それは呆れられたのではない。 その話が本当だとしたら、リリーはたぶんアルエの力が公になってしまうことを恐れ、呆れたふりをしただけなのだろう。 さあっと白南風が吹く。これが、最強の魔女の力――。 「へ、へえ……じゃあ、」 少しずつ、少しずつ、遠ざかっていくマロン。 「やり方を変える必要がありそうね!!」 マロンが突如として、特定の方向へと飛んでいく。 その先にわきたつ雲の間から、マロンの狙いが出現した。 ――――飛行船。 この国のフェスティバルを観覧しにきた、人間の乗る船。 「いけないっ! ……あっ、つ……」 「燕さんはここで動かないで。わたしが止めてくる!!」 燕の服は血だらけ、しかも唇の端から血が伸びている。一緒には行けない。 華茂はマロンの後を追った。チャーミが去った今、ここが勝負の時。それに、いくらハーバルといっても、あの子に人間を殺させたくはない。 またも線となって流れる景色の横に、すうっとアルエの横顔が追いついてきた。 「アルエも、行くわ」 華茂は目だけで了承を伝える。 心強い。今、華茂の隣を誰よりも心強い魔女が飛行している。 マロンは飛行船の下方――乗車口へと近づく。華茂より、十秒ほど、早い。 華茂は心に言いつけた。 けして、殺させはしない――――、と。
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