華茂は夢を見ているのかと思った。 死出の旅につくその一歩手前。自分の知っている思い出がごちゃごちゃになって交錯しているのではないかと。 記憶のとおり、マロンは学校の制服のようなものを着ている。短いスカート。はちきれんばかりの胸と、その谷間。 「なにやってんだよ、おめー。しっかりしなよ」 マロンは華茂にそう言って、柔らかそうな舌をべっと出した。 宇宙の虚空が、瑠璃色に染まり出す。 夜明けが、少しずつ、少しずつ近づいてきている。 「おや、あなたがたは……使えないお二人ではございませんか」 リリーが音もなく動き、マロンたちと高度を合わせた。 「今ごろ遊びに来ても遅いですわよ。メインディッシュは、このあたしと蘭麗が全ていただいてしまいました。あなたがたはアニンに帰り、反省文でも書いていなさいな」 「そう。だけど。デザートは。残っているように。見えるわ」 チャーミが手のひらをリリーに向け、一本ずつ指を折り畳む。それはまるで、リリーを挑発するような仕草だった。 「チャーミ。あなた、もしかしてあたしたちに遊んでほしいとか? たかが人間の銃ごときで、無様に雪原を這って逃げたあなたが」 「記憶は記憶。慚愧は。悪くない。舌に乗せて舐めれば。昨日の自分を。越えられる。むしろ目を背ける。ことこそ。無能の証」 「ふふふ。しかしどうしてでしょうね。あなたはどうして、このリーフスごときに構おうとするのでございましょう?」 「借りが。あるから。それが。全て」 「借り!」 リリーは、くっ、くっ、くっ、と喉で笑った。 「それはあなたが導いた失態でしょう。たかがいのちを救われたくらいで立場を変える。あなたの思想が空洞であるという、なによりもの証拠ですわ」 「たかが。いのち」 チャーミが、静かに静かに覇気を高めていく。青いオーラが立ち上る。その様子が、華茂にはたしかに見えた。魔力上昇。それはかつて、彼女と戦った時に感じた強烈な気配だった。苦戦に苦戦を重ねた、底知れぬ魔力だ。 「いのちを。軽んじる。メイサの死を。あれだけ悼んでいる。くせに。これは。矛盾」 「メイサ……」 「矛盾する。その思想こそ。空洞。間抜け」 「メイサっ……!!」 ボゥゥゥゥゥゥ――、と火の粉が散り始める。 それは、リリーの本気のたしかな証左。 華茂の記憶では、リリーはメイサという魔女の死に心を痛めていたはずだ。友達だったと言っていた。二人は編み物が好きで、とても仲良くしていたのだと。だけどそのメイサは人間によって魔女裁判にかけられ、火あぶりにされたのだと。 だからその名前は、リリーにとって逆鱗だったのかもしれない。 「ちょっと、リリー師匠! そんなの放っておきなさいよ!」 蘭麗の呼びかけを、リリーはちらりとも見はしない。 リリーの像は瞬時にして――、二つに分離した。 「逢魔掃討でございますわあああああッッッ!!!!」 分離したのは、高速のゆえ。 残像を生じさせ、リリーは四半秒でチャーミの前に到達した。 バイオリンの弓で横一線。リリーは身を屈めてかわす。弓の航跡に蒼い炎が咲く。さらに上段からの唐竹割り。力の経を絞ったその一撃はあまりにもあまりにも迅く、チャーミのローブを激しく焦がした。右肩から先の部分だ。チャーミのローブが、長袖と半袖のアシンメトリーへと変わる。 「この、無礼者がッ!!」 瀑布のような乱打が銀線をも生じさせる。チャーミはたまらん、といった感じで後方へステップアウェイ。リリーは迷うことなくこれを追いかける。 ――――が。 『地雷地帯へ。ようこそ。大魔女様。――チャックル滞留債権』 ボウン! ボウン! ボウン! ボワン!! リリーの移動先を狙って爆発が巻き起こる。時限式の連続爆弾。そのどれもがリリーの首から上を狙っていた。しかしリリーはためらうことなく高熱を素手で払い、トップスピードのままチャーミを追撃する。その目には、狂気が滲んでいる。 「チャーミ、危ない! どけっ!!」 マロンは華茂のそばを離れ、静止するなり両腕をクロスさせた。 『森の薫風に誘われ、旅人たちは靴を新たにした。樹幹と梢、漏れ来る光。貴方に光を捧げよう。鎌風とともに』 高速の詠唱。マロンの腕に空圧が生じ、その反作用として華茂の頬が引っ張られた。周囲の空間がマロンへと集中していく。あれはたしか……大地をも切り裂く……。 『円環フラッシュライトおおおおぉぉぉぉおおぉぉお――――――――っっ!!!!』 風が。 殺意を纏った。 その風が。 ヒョイと首を曲げたチャーミを。易々と越え。 遠から近へ。パッ――――パ・パ・パ・パと明滅。 リリーの、弓を狙って――――、 「止めましょう!!!!!!」 が、ぐ、ォォォォォォ!?!?!? 弓がしなる。折れそうなほどに、ギリギリと。それをマロンの風が押す。 押す押す、押す。 ギーイ! ギギギギギギギギ!!!! 「はああああああっ!!!!」 ギギギギギギギギギ!!!! ギギギ、 ギ、 ――――ギィン。 リリーの弓が少しずつ、少しずつ元の形へと戻っていく。 「見事。ロール=オブ=マロン」 リリーの指からわずかな出血。リリーは指をぺろりと舐め、マロンに賛辞を送った。 なんたる、魔力。 マロンは信じられないような顔をし、チャーミも右肩を押さえて息を乱している。 あの風の刃を、止めた。 それは華茂にとっても衝撃だった。 だけど。 驚いている場合じゃない。せっかくマロンとチャーミが来てくれたのだ。こんな板に磔にされたままでいいわけがない。華茂も早く、参戦しなければならない。 それはわかっているのだが、身体がどうしても動いてくれないのだ。 (戦って、なにになるの?) (燕はもう手遅れなのよ?) (そもそも燕は貴女のことを、愛していないのよ) そんな声が頭の中に響き、華茂の力を奪う。 生きなくてもよい、と妙な赦しを送る。 そして枷はガッチリと板に固定されていて、動こうにも動けない。 二つの相反する気持ち。それは、なにかに似ている気がした。 やるべきだ、という心と、やりたくない、という心。華茂は日常においても、いつもそれらの間で揺れていた。水汲みをする時も。畑を耕す時も。それから、穢れを祓う時も。 やらなくちゃいけないのに、やらなくてもよい理由を探している自分がいる。それはきっと華茂だけじゃない。誰もが日々、迷いの中で生きているのだろう。 だけど、今は違うはず。 怠けたいとか疲れたとか。そういうのじゃない。燕のいのちがかかっているのだ。いつもだったら、なにを差し置いてでも犠牲にしても、燕の元に駆けつけようとするはずだ。 なのに――、これは蘭麗の魔力によるものなのだろうか、心臓の中で二つの事実が釘を刺す。 燕が華茂を思う気持ちは、魔法に負けた。 華茂は燕の想いを、信じきれなかった。 それらの事実が、華茂の心をぐずつかせる。自分が感じた思いを数万倍、数億倍にして与えられたような感覚。マイナス1を、マイナス100000000にしてぶつけられているような感覚なのだ。どうして。どうして自分は――、 またしても自分を責めつけようとした、その時。 「チャーミ、これ使って!」 マロンの叫びが、華茂を現実に引き戻した。 マロンは右手を挙げる。そこに、バリバリバリ! という音をともなって金属の塊が現れた。あれはたしか、チェーンソーという名前の武器……。 「風魔法で直しといたから! ちゃんと動くよ!」 マロンがチャーミに向かってチェーンソーを投げる。チェーンソーは放物線を描き、チャーミの手元へとおさまった。 「マロン。感謝」 チャーミがチェーンソーから伸びたコードを引く。 ブオン、ブオン。 ブル、ブルルルルルルルルルルルルルルルル!!!! 激しい音がうなる。チェーンソーの刃が猛転を開始する。チャーミはチェーンソーを肩口に構え、皓歯をこぼした。 『全・鬼・空。出立の鐘をけして止めることなかれ。全・魔・海。ここに大地は果て、汝そのもの未踏と化す。脳裏に映すは雌伏の時。祝えや、一生の前借りを』 その時。 チェーンソーの刃からリリーの鼻梁にかけて。 一本の線が引かれたような。そんな、気がした。 『諧謔のデッドエンド――――――ッ!!!!』 チャーミが叫ぶやいなや、ビキキキキキキキキィィィッ!! と空間が裂かれた。右舷に生じる炎のウェーブ。それらが、折り紙を畳むようにしてリリーにかぶさっていく。 「低級の、火魔法でございますわね」 だがリリーは一瞬のためらいもなく炎の壁に飛びこむ。自ら、死線へと進んでいく。バイオリン本体を炎に向けると、それらの炎熱は全て先端のスクロールへと吸いこまれていった。むしろ、喰らった、という表現の方が正しいか。 だが。その火の裏に。 チャーミが、いた。 「うーふふふふふふ!!!! かくれんぼは。楽しいわね!」 チェーンソーがリリーの首に振り下ろされる。リリーは上半身を反らすことでそれをかわす。だがすぐに二撃目。今度の狙いはリリーの手首。するとリリーは咄嗟の動きで弓を燕返しした。 ギャアアァァァアアアアアアアアアア!!!!!! ギィィイイイイイィィィイイイイィイ!!!!!! チェーンソーと弓が斜めに交差し、激しく火花を散らす。狙うは互いに力押しだ。とにかく魔力と腕力に任せ、相手を切断しようと試みる。 「大魔女の。脳髄。見たいわ! うふふふふふ!!」 チャーミが上から体重をかけ、受ける弓はリリーのひたいにじりじりと近づく。 「……断末魔の悲鳴、聴かせてみせなさい。あたしの、快眠のために!」 リリーの青いドレスがギィンと輝く。今度は、チェーンソーとチャーミの距離が縮まる。 押して、引き。 引いて、押し。 やがて二刀は、ある一点で動きを止めた。 両者、ギリギリギリギリと歯を食いしばり。 そこから始まる――、 「世代交代。なさいな!」 「品がないのでございますよ、品が!!」 丁々発止。 丁々発止、丁々発止、丁々発止! ギャリーン! ギャン ギャリン!!!! 切り結ぶ切り結ぶ切り結ぶ! 斜め下から! 抜き銅で! 死角を! 鋭敏に!! 切り結ぶ切り結ぶ切り結ぶ切り結ぶ!! 汗を撒き散らし、相手の背景を無にし、ただただ敵のいのちを奪うべく! ギャアン! 火は線となって流れ。 ギャリッ! 軌道は波と化しうねる。 そしてチャーミは、たいへん器用にチェーンソーを操った。接近戦において弓とチェーンソーを比べれば、小回りの利く弓の方が有利だろう。それでもチャーミはリリーの突きを許さなかった。チェーンソーの刃――ガイドバーの先端、根元、側面を十二分に利用し、相手への攻撃と防御の両方を成し遂げた。 だが。 やはり、弓は迅い。リリーの攻撃ターンは徐々に増加し、チャーミは防戦一方の状態へと追いこまれていく。しかもあの弓、実に固い。相当な魔力を含んでいるらしく、いくらチェーンソーに剣戟を振るわれようが傷一つ入っていない。 そんな状況の中――――、 リリーは、狡猾に笑った。 「零下で。着飾って。ちょうだいなッッッ!!!!!!」 刹那、ヒュウ、と寒風が吹いた。 ビシッ。 ビキッ。 ビキビキビキビキビキ……、バギバギバギバギバギバギィ!!!! 水素分子同士が結合し、正四面体へと変化する。それらの粒はドミノが倒れるように空間で結び合い、氷の層を形成した。美しい氷ではない。尖った氷。間がすっぽりと穴になった氷。叫び声にも似た、実にいびつな氷たち。それらが左から右へと瞬時に奔り――、 中心において、リリーの身体をキュウウウウウと締めつけた。 リリーのドレス、髪、頬、ふともも、足首、そして、バイオリンと弓。全てに氷がまとわりつき、リリーの動作を完全なる零下へと落としたのである。 「炎だけ。単独で生じる。わけないわ……うふっ」 目の前に生じた極寒の景色を見て、華茂は思い出した。 あれこそが、チャーミの魔法『諧謔のデッドエンド』の真骨頂。周囲の温度を高熱と零下に分離する魔法だ。さっきの炎の壁が生じたぶん、チェーンソーには零下側の魔力が宿っていた。そして調子に乗って攻めてきたリリーを、氷の鎖が待ち受けた。これはチャーミの戦術がぴたりと決まった格好だといえる。 「か、く、あ……こ、の が きが……」 リリーのまなこ、加えて舌までが凍結する。 ゆっくりとチェーンソーを振り上げるチャーミ。勝負はあったかに見えた。 しかし華茂は聞き逃さなかった。 それはそれは、本当にかすかな声。 『暫時、石を穿つ。落ちる水滴を目で追う。嗚呼、やはりこの洞穴の奥には三千世界の瘴気あり。行こう、行こう。我と汝、なくした心の幻肢痛。進もう、我らの赦される闇へ』 氷は声すらも吸いこんでいた。 だからチャーミは気づけなかったのだろう。 連環する氷の下方から、十本の紅円が回転しながら吹き上げてきたことに。 「こ。れは!?」 チャーミが咄嗟に視線を下げた時にはもう、全てが遅かった。 ガッ! バリッ! ガガガッ!! バリバリバリッ! 蘭麗の放った番傘が、氷の結合を打ち壊した。そこかしこで破れていく氷たち。そしてとうとう、一本の番傘がリリーの前へと到達する。そこでギュウゥゥン、とドリル回転。リリーの身体を封じていた氷を、細かく細かく砕いていった。 ――リリーの瞳に、獰猛が点る。 「あ。」 チャーミが退避の仕草を見せた瞬間、だった。 大きな大きな風が吹いた。 その風は氷の欠片とチャーミを星々の方へと吹き飛ばす。 マロンが両手を合わせてピントを掴む。リリーとの距離、100メートルほど。 だがそれは、風を司る魔女にとっては一刀一足の間に過ぎなかった。 『円環フラッシュライト最大出力!!!!!! 一波輝線ッッ!!!!』 風と風のサンドウィッチ。その中心には恐ろしいほどの圧がかかる。鉈と化したその風は、鯉口を切るやいなやリリーへと射出された。 残光が引かれる。 リリーは弓を水平に構え、その鉈を止めようとする。 爆心地。 ――――――きたる。 ボガキィィイイィィィィィィイィッッッ!!!!!! リリーの弓が。 真っ二つに折れ。 風の鉈はその衝撃で。 リリーをかわして飛んでいく。 マロンはリリーの魔法を壊したことに頬を緩め。 チャーミは、盟友の活躍に勝利の笑みを携えた。 リリーはスローモーションで後方に倒れこみながら。 全損した弓を遠慮なく手放し。 空いた両手の人差し指を立てて。 それらをマロンとチャーミに向けて…………。 『五臓六腑の間欠泉!!!!!!』 ギュアアァアァァッァァァァッァァァッァァァッァアアァアアァァアアァァッアァアァァアァアッァアアァァァッァアァアァアァッァァアァァァァアァァアァァアアァァァァァァァアァァァッァアァァァア――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ッッッ!?!?!? 砂塵が真空を切り裂き物理法則を崩し想像を遙か遙か遙か越えた回転で迅速に迅速に迅速に直進する。想像を遙か遙か遙か越えた威力が龍のごとく牙を剥き迅速なる迅速なる迅速なる死を与えようとふざけた螺旋で全てを凌駕する――――――。 そして。 「が、ふあっ!!」 マロンの横腹をえぐり、 「きゃあああああああっ!!」 チャーミの肩を貫通する。 砂塵は約束を果たすように、両者に決定的な一撃を加えたのである。 ――ぽた。 ――ぽた。 ――ぽたり。 華茂の腕に、いくつもの血が降ってくる。 それは、ゆっくりと降下するマロンが唇の端から降らせた血の雨粒だった。 遠くで蘭麗が爆笑している。 遠くでリリーが、人差し指をぺろりと舐めている。 華茂は膜の張られたような視界に、それらをおさめている。 そしてその視界に、マロンの脚が映った。 マロンの腰が、胸が、最後に朱に染まった顔が現れる。チャーミングで楽しげな、明るい金髪の魔女。その彼女が意識を落とすまいと、苦しそうな瞬きを繰り返していた。 「な、なあ、華茂」 呼びかけてくる。 だけど華茂には、それに応じる気力はない。 「なあっ! 華茂ぉっ……」 マロンが一度、しゃくり上げる。そしてその目から、温かいものがぽろぽろとこぼれ落ちた。 「おめー、に頼むよ。レティシアを、助けてやって、くれ……。うちはおめーの力を、信じてる。うちに勝った、おめーの……ごぶっ! ち、力を……」 マロンは自分の脇腹に手をやり、その手をじっと見つめた。 手のひらから垂れる、なまなましい血液。先ほどの風魔法に全てを費やしたのか、もう回復する力は残っていなさそうだ。 マロンは諦めたような目をして、それから、華茂の肩にそっと顎を乗せてきた。 「華茂……」 その声は、すぐ耳元で聞こえる。 「魔女の諺、知ってる、よね」 魔女の諺……。 なんだったっけ、それ。 ……ああ。 疾風は春の祖となるも そのひと吹きに春あらじ 珂雪は冬の祖となるも そのひとひらに冬あらじ そうそう、こういうやつだった。だけどそれが今、最後の時となんの関係がある? 惑う華茂に対し、マロンは「それさ」と言った。甘い、香りがした。 「たった一回風が吹いたり……雪が降ったりするだけじゃ、春も冬も来たことにならないってこと……だよね。それって、今のおめーと燕と、一緒じゃない……?」 どういうことだろう。 燕は魔法に負けて華茂を傷つけた。 華茂は燕を信じきれなかった。 それが事実の全てじゃないのか。 華茂の心を読んだように、マロンは続けた。 「一度きりで……終わる関係、だったのかい? そんなので……がふっ! お、わる、ような……」 マロンの顎が、少しずつ少しずつ華茂から離れていく。 マロンはずるずるとその身を崩し、宇宙の闇へと漂った。 終わりに、こう言い残して。 「んなわけ、ない、よね」 んなわけないよね。 んなわけ、ないよね……。 ない。 ない。 ないよね……。 そんなわけ。ないだろう。 華茂にとって、燕は特別な存在だった。 魔女学校に通っていた頃、燕は優等生で、華茂はちょっとできない子だった。それでも燕とは妙に気が合った。いつも一緒。華茂がイアに挨拶をすれば燕も続き、華茂がイアに叱られていたら燕がそれをかばってくれた。イアは頭の後ろで手を組んで、ご機嫌な顔で教師用の部屋に戻っていった。 二人で植物に水をあげた。水飛沫の隙間に、小さな虹ができた。その奥には、燕の笑顔というなによりもの虹があった。華茂はそれがとてもとても嬉しかった。 ……夢みたいだった。 華茂だって、魔女学校に通う前は不安だった。 なにをさせられるんだろう。怖い魔女はいないかな? 実際、空気を読めない発言をして同級生を引かせたこともある。愛想笑いをしてごまかしたのだけど、そういう微妙なやりとりに対し、必要以上に心を苦しめた。魔法の実技も勉強も難しかった。卒業して立派な魔女になっている自分、というものをまったく想像できなかった。他の人はできるのに、どうして自分はできないのだろう。いくら努力をしても、無理なものは無理なのかな。そんなふうに思って、誰もいないところで一人泣いた。 だけど彼女が。 彼女の存在が。 華茂に勇気を与えた。愛を教えてくれた。自分は特別ではないけれど、自分にとって特別な相手ができたこと。それだけが華茂の誇りだった。 そう。燕は、華茂にとっての誇りだったのだ。 二人で同じ地域を担当するよう割り当てられた時、なんと嬉しかったことか。なんとなんと、嬉しかったことか。パズルがぴたりとはまった。意味ありげに無言ピースをしてきたイア。心の中で何度もお礼を言った。燕と一緒にいさせてくれてありがとう、と。 神様にも、何度もお礼を言った。 燕をこの世に導いてくれてありがとう。 燕とこの世で出会わせてくれてありがとう。 広い広いこの世界で。 華茂と燕は出会った。小さな二人が、嘘のような確率を打ち倒した。出会えるはずもなかった二人は、出会うべくして出会う二人へと変わった。 それすなわち――えにし。 燕と同じ家に住み、毎日燕の料理を食べた。華茂が冗談を言ったら、燕は畳を叩いて笑ってくれた。華茂が育てた朝顔を、きれいだと言ってくれた。華茂、華茂、といつも名前を呼んでくれた。 名前を、呼んで。 くれたじゃないかっ…………!!!! なのに自分は。どうして燕を信じることができない。 燕を信じられないということは、自分を信じていないのと同じことじゃないか! 華茂の全身に、いのちが流れた。 思い出だけじゃない。 未来だけでもない。 『今』が、流れた。 今この一瞬。自分自身を信じたいという心が、熱く熱く燃え上がったのだ!!!! 「ん……」 ぎぃいいいいいいいぃぃぃぃぃぃいいいぃぃぃいいぃぃいいいいぃぃぃぃぃっっぃいぃぃぃっぃぃぃいっぃぃぃいぃぃぃぃっっっっ!!!!!!!! 華茂の手首が痙攣する! 枷に塞がれた、それでも生じるわずかな隙間。 その中で、もがくもがくもがく! もがくもがく! 指で空気を掻く。枷を内側から何度も何度も打ちつける! 大魔女リリーだ? 穢れを司る魔女だぁ? 知らない知らない知らない。 知ったこっちゃない! 自分が今知るべきなのは、燕のことだけ! すなわち、自分自身だけだッ!! 自分と燕がどんな時間を過ごしてきたのか、この手枷ごときに理解されてたまるか! そんな奴に身体をいつまでも封じられたりはしない! こんなもの……、 こんなものぉぉぉぉぉぉぉぉ――――――――――っっっ!!!!!! バッキャアア――――――――ッッッ!!!!!! 粉々だ。 華茂の心がメーターを振りきった。 手枷など、粉々にしてやった。 ゆっくりと肘を曲げる。手を、数度握ってみる。 ――いける。 リリーを睨む。大魔女は、驚きに目を剥いている。 (怖くない、なんて言わない。やっぱり怖いよ、燕さん) だけど。 その怖さを、越えていくのだ。 怖さをしっかりと味わいながら、進んでいくのだ。 その先に燕がいると、信じているから。 遠野華茂。心を司る魔女――。 今、進み始める。
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