――もうだめっ! 華茂は思わず手で顔を押さえた。 浅い呼吸だけが、静寂に唯一反抗している。 ゆっくりと、指を開く。 スリット状に露わになる視界。しかしそこでは、華茂の頭をよぎった最悪の想像は現実のものとなっていなかった。 蘭麗の番傘の刃が、ライラの胸の数ミリ手前で止まっている。 「く……」 番傘を握る蘭麗の手は、小刻みに震えていた。 「ははっ」 そして勝ち誇った笑みを結ぶのは、ライラだ。 「どうしたのぉ。なんで突かないの、蘭麗さん?」 「……貴女、いつから。いつから、あたしのことを……っ!」 「船さ。あなた、船でライラたちに眠り薬を飲ませたよね?」 すると燕が「あっ!」と喉を震わせ、強く手を叩いた。 「そういえばレティシアさんも……さらわれたままでしたっ!」 「そうそう、そういうこと。まあアルエさんをさらったのは、ライラたちを誘い出すためだったとしようよ。でもさ、ライラたちはこうやって来てあげたじゃない。あなたの目的は達成されたじゃない。なのにどうしてアルエさんを殺さずに、鉄格子で閉じこめたりなんてしたの? ライラたちだってさ、眠ってる間に殺しちゃえばよかったじゃない」 言ってライラは、上目で蘭麗の刃を見下ろす。 「その、ご立派な武器でさ」 「う、ううっ……うううううううううっっ……」 低い声で呻く蘭麗。ライラの余裕の笑みは刹那に崩れ、哀れむような表情に変わった。 「まあ、その。ライラの経験上だけどね。たぶんあなたは過去につらいことがあったんじゃないかな。誰かに傷つけられたとか。だからあなたは、魔女を直接殺せない。……違ったら、ごめんだけど」 そうだったのか。 いや、ライラの分析は外れているかもしれないが、蘭麗が弱点を有しているというのはまぎれもない事実だ。蘭麗は魔女を殺せない。さっきの番傘の魔法も、ある種のこけおどしだったんだ。実際、酸の雨のうち大きな束はライラを自然と避けていった。 なら、もしかして。 今の状況って、そんなにヤバいものじゃないってこと? 華茂が楽観する前で、ライラは手のひらをそっと蘭麗に向けた。 「さあ、もう終わりにしましょ」 しかし蘭麗は、 その救いにも似た手を、 「邪魔、だわぁ……」 パシッ、と払った。 身じろぐライラ。すでに蘭麗は、元の邪悪なる表情へと戻っていた。すぐさまライラから距離をとり、番傘を肩に構える。 「たしかに、そう。そうね。貴女の推察が当たっているかもしれない」 「当たるもなにも、そうなんでしょ。これ以上争ってどうなるっていうのよ。ライラたちはアルエさんを返してもらったんだからもういいよ」 「ええ……いいのぉ?」 蘭麗の唇が、波形にひずむ。 「あたしちょっと、気分を害しちゃったなー」 「知らないよ。あなたも帰って、ゆっくり寝たら? 寝不足はストレスの大敵よ」 「いーや、いやいや」 蘭麗は人差し指を立て、左右に振りながらチッ、チッ、チッと舌を鳴らした。なんだろうあの仕草。よくわからないけど、嫌な予感がする。 蘭麗が番傘を高く上げる。轟音を立てて、雷が海に落ちた。狐の干上がったような色が海一面に走る。空中に浮いていた十数の番傘は、蘭麗の持つ傘にするするすると吸いこまれていった。そして蘭麗は、 ――くるりと後ろを向いた。 「人間でも殺してきちゃお~~っと!!!!!!」 ギュッ――、 オンンンンンンンンンンンン!!!! 蘭麗の像が、ブレる。華茂と燕の間に、ひと筋の旋風が巻き起こる。かまいたちが生じた。華茂の頬に、深紅の横筋一つ。指で触る。血がついた。もう一度指で確かめる。裂けていたはずの皮膚が、くっついていた。 なんたる、速度。 「ちょっと!」 華茂は届くはずのない声を飛ばす。そして目で追いかける。到底視認の追いつかない迅さ。それでも、彼女の目指す場所だけは捕捉しておく必要がある。華茂は蘭麗の航跡を視線でなぞった。蘭麗の生じさせた白い通り道は、海面……いや、直下に浮かぶ小さな島へと続いている。蘭麗は、あの島に向かったのだ。 しかもあの島、真夜中であるためわずかではあるが、光が点っている。人が暮らしている……。これはいけない。 「燕さん! ライラさん! アルエさんっ!」 華茂が叫ぶよりも早く、三人は島を目指して降下を開始していた。華茂もそれに続く。朧と輝く月明かり。ディープブルーの空が、華茂を試している。命じている。お前の全てを費やせ、そして、溶かせ――と。いつもは苦手な飛行魔法だが、華茂は燕たちにそう離されることなく島に着陸することができた。 波の、重い音がする。 定期的に轟いている。砂浜を一望するも、人影を見つけることはできない。 なにより華茂の中のなにかが、『ここに蘭麗の魔力はない』と告げてくる。 全員で砂浜を出た。石造りの道の上を、低空飛行で滑っていく。すぐに村落があった。ほとんどの家は灯りを消して休みに入っているが、窓口からみかん色が漏れている家もある。ライラはわずかな躊躇もなく、それらの家の網戸を開けた。 「な、なんだあんたら!!」 当然村人たちは驚嘆する。 しかしライラは丁寧かつ迅速に説明した。 人間の敵の魔女が、この島に逃げこんだこと。 今もこの島のどこかに潜んでいるということ。 華茂たちのただごとではない表情を読みとってくれたのか、村人たちはただちに緊急集合の笛を吹いた。警邏に出ている男たちも集まる。いくつもの家に灯りが点り、静かだった村はたちまちざわめき立った。 「あんたらは外国人かね。それとも魔女かね」 「魔女です。零式燕と申します。この村で犠牲になった方はいらっしゃいませんか?」 「い、いいや……。点呼をとったが、犠牲者とかはおらん」 「そう、ですか……」 燕は一瞬胸をなで下ろすも、すぐに顔に険をとり戻す。 そう。みんなわかっている。 犠牲者はいなくても、蘭麗は今もどこかでなにかの企みを練っているのだ。 ――その時だった。 華茂の胸に、また何者かの声が響いた。 蘭麗は、この島における村の反対側、とある建物の中で息を殺していると。 華茂は村長と思われる男に質問をした。 「あの、この島に大きな建物はありませんか?」 「おお……。森の中に教会がある。今は誰もおらんが、昼間は礼拝に使っておるのじゃ」 「そこ、だ……」 華茂は燕たちの方を向き、両の手を握り締めた。 「行こう、教会に。蘭麗さんは、その教会にいると思う」 三人は、華茂に反対しようとはしなかった。村人たちに謝罪の一礼をし、すぐに今来た道を引き返す。ただし浜辺に出るのではなく、島をぐるりと回る形で教会を目指した。先頭に立ったのは華茂だ。なぜかどうしてか、蘭麗のいる位置がわかる気がする。 「華茂ちゃん、どうしてわかるの。自信満々だけど」 アルエが、飛びながら訊いてくる。月桂樹の、小舟のような葉が線になって流れていく。 「わからない。そんな気がするだけ」 「あなたって不思議ね。前に、アルエの変身を見破ったことがあったじゃない。そのくせチャーミちゃんの魔力は感知できなかったり。今度は蘭麗ちゃんの魔力を見つけたっていうんだから、頼りになるのかならないのか……」 「うう……間違ってたらごめんなさい……」 苦渋により瞬きの回数が増える。するとライラが、華茂の肩を軽く叩いた。 「いや、いいよ。それにライラも、蘭麗さんは村にいないと思うんだ」 「なんで?」 話しながら前方を確認すると、華茂たちは徐々に樹林群へと入りつつあった。村人たちが使う細い道をたどりながら、一路目的地を目指す。梟が、どこかで太く鳴いている。 「蘭麗さんは人間を殺すって言ってたよね。あれはたぶん嘘だよ」 「たしかに。村ではなにも起こってなかったもんね」 「そう。だからあれは完全にフェイク。だけどなにかを企んでいるのも事実だよ。だってライラは蘭麗さんに、帰っていいって言ったよね。なのにライラたちをおびき寄せるように逃げた。これはたぶん……」 そこで話に入ってきたのは、燕だった。 「私たちに対して罠を準備しているか、もしくは」 「なにかを起こすための時間稼ぎ、かもね」 ライラと燕の推察には一分の隙もない。その選択肢のいずれかが正解だ。華茂は気を引き締めて、今からの数分に備える必要がある。 色々と考えていると、ついに教会が見えた。 森の奥にポツリと置かれたようなたたずまい。ここで華茂たちは地面に降り、徒歩で正面入口に向かう。人一人がようやく通れるような道だ。左右から伸びる木の枝を手でどけながら歩く。カナブンが袖に止まったので、華茂は目で小さく挨拶をした。 ゴシック様式の古い教会だ。横並びするランセット窓の奥は、当然暗闇。しかしここのどこかに蘭麗が潜んでいる。……可能性がある。どこかに。どこかに……。 華茂たちが教会の外観を見ながら右手に回った時だった。 ギラリ、となにかが光ったと思ったら。 ――――ん。 前髪が一本、はらりと移動する時間を用い、 「えっ」 ガシャアン!!!! ガシャン! ガシャン! ガシャアアァァァァァン!!!!!! 硝子が。 砕け散り。 教会の内側から十数の番傘が、鋭く回転しながら飛び出してきた。華茂は袖で顔面を護るも、硝子片はここまで届かない。番傘の親骨からは刃が伸びている。そしてそのままシュルシュルと回転しながら教会の裏へと飛んでいった。 しかしこの瞬間、華茂は確信した。 なんというか、わかったのだ。蘭麗の心を本にして読んだかのような感覚。華茂は、番傘が飛んでいった方向とは真逆に向かって走り出した。 もう、だまされない。 いつまでも好き勝手にできると思ったら大間違いだ。 ぬかるんだ地面から泥が舞い上がる。頬を汚す。邪魔をするな。どいてくれ。今から自分は一人の魔女の策謀を打ち破る。だから、道をあけてくれ。足を地面に打ちつける。仰ぎ見る。はたしてそこには――、 翼廊の端、二階部分のステンドグラスの奥だった。 ぎょっと目を見開く、蘭麗の姿があった。 アーチをくぐる。扉はない。スタッ、と着地の音がした。夜の帳の落ちる中、敵は確実に存在している。ついに、追い詰めた。 「蘭麗さん、出てこい!!!!」 華茂は腕に炎を宿す。 ゆらめく影。 放射光の中、蘭麗は両手をクロスさせながら立っていた。 「ふふ」 だが蘭麗はあくまで、余白ありげに笑う。青いドレスに包まれたその姿は、遠国に落ち延びた姫君のようでもあった。 「さすがは、心を司る魔女」 「心を、司る……?」 「貴女のことよ、遠野華茂。貴女は、他の魔女の心を知る力に長けている」 「どういうこと? わたしに、そんな力はないよ」 「いいや。あたしはその事実に気づいていた。知っていた。貴女は他者の心に反応し、その力を自分の中に取りこむことができる。だから貴女は、あたしの計画にどうしても必要だったの」 華茂は黙り、今までの記憶を入念に手繰る。 かつて華茂は、アルエの変装を見抜いたことがある。 しかしチャーミの変装に気づくことはできなかった。 あれはアルエに一定の心があり、一方のチャーミはきわめて冷静な魔女だったからだろう。チャーミの心はある意味、死んでいたともいえる。 そして今回、華茂は蘭麗の居場所を突き止めた。全ては蘭麗の語るとおりである。しかし、しかし……。 「そんなの、信じられないよ……」 「あはは、貴女の脳みそってほんとに愚鈍なのね!」 蘭麗は腹を抱え、けたたましく笑う。 「リリー師匠の炎を自分のものとして撃ち返したのは誰? マロンの風を自分の魔法にしちゃったのは? だいいち、どうしてイア=ティーナが貴女に注目したのかって考えなかったの? 少しも変だと思わなかったの? あっははははは! これはおかしいわ! あはははははははは!!!!」 言われてみれば、全てが事実だった。 華茂はなにも返せない。 (わたしが、心を司る? わたしなんかが……?) 心は生涯と繋がっている。深い繋がりがある。心があるからこそ、人は文化と技術を生み出すことができた。営々と築かれる歴史の中には、常に心という存在があった。形をもたないが、たしかに存在する浮遊物。誰もが、深い畏敬を感じざるをえないもの。 『ハートさ、ハート』 イアの言葉を思い出す。華茂は自分が、十数キロ上空までそびえる細い円柱に立っているような錯覚を覚えた。 ――だけど。 今、集中しなければならないのは眼前だ。 なにを知り、なにを考えているかはわからないが……この蘭麗を絶対に止めなくてはならない。今ここにたどり着いたのはそのためだろう。考えるのは後だ。絶対に、止める。 強く念じる。腕の炎が激しさを増した。今、――ここだ。 「しかーし、残念」 だが蘭麗は両の手のひら同士を合わせ、それを頬に当てる。 「そんな炎じゃ、今度は勝てないわねぇ」 蘭麗が呟くと同時に、天井からボトリとなにかが降ってきた。 ボトリ。 ……ボトリ。 ……ボトリ。 これは、炎の塊だ。落ちた箇所の床が溶けていく。とんでもない、高熱。 ゆっくりと。 ゆっくりと、上を向く。 「茫洋とした夜へ、ようこそ」 バイオリンが、短い旋律を奏でた。 「あたしが、推参でございましょう」 片側を三つ編みにまとめた、長い髪。 リリー=フローレスが弓で空気を薙ぐと、次なる炎が、また落ちた。
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