魔女のお茶会
最終章⑤(喜ぶためにわたしたちは生きている)

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 風――。  それは、偏西風。秒速20メートルの風速が、蘭麗らんれいのドレスをみだらに押し抜いていく。  蘭麗は夜の瞬きの中、上空から静かに船を見下ろしていた。  甲板かんぱんもキャビンも火の海だ。船自体が右舷うげん方向に傾いている。あの鉄格子の迷路を、奴らが突破することはできないだろう。蘭麗は確勝かくしょうの笑みを浮かべる。  鉄格子をただ単に並べただけでは、万が一ではあるが脱出されるかもしれない。だから蘭麗はあえて一枚だけの鉄格子を設置し、その先に数十枚を並べるという戦略に出た。魔女も人間も同じだ。重要なのは、心。相手の心を折ってやればいい。身体と心は深く接続している。崩壊した心に、どうやって身体や魔力がついてくるというのか。それに壁には鉄格子以上の対抗魔法をかけておいた。こちらを壊そうとすれば、より大きな反発を受けて心が死ぬ。つまり奴らの逃げ道など、いくら探そうが皆無なのだ。  だが。  蘭麗は油断しない。ナンドンランドンには、全機械をフル稼働させるよう指示を出しておいた。あいつのことだ、機械を操縦するにあたり村中の人間を集めたことだろう。あの機械でけがれをはらおうとすれば、未曾有の大災害が発生する。地を割る地震。沿岸を襲う大津波。火山の全面噴火。そして怒った穢れによる、太陽光の遮断。これで人間どもは全滅だ。ナンドンランドンは深く悔いることだろうが、こっちの知ったこっちゃあない。  それに加えて、蘭麗には蘭麗のやるべきことがある。  空を見上げる。  黒雲こくうんが邪悪な渦を巻いていた。 「……ん?」  その雲の中で、いくつかの雷光が瞬いている。 「あらぁ。やっこさん、起きてきたってわけね」  だけどまあ、彼女が活躍する舞台は公演中止となりそうだ。だってほら、蘭麗の船は間もなく沈んでいくのだから。深い深い海へと、炎とともに消えていくのだから。  蘭麗は袖口からカードの束をシュッ、と出す。 『決断する時にはいつもこれを使っているのよ』  誰かにそんなせりふを吐いた記憶がある。  ……ああ。そうだそうだ、あれはつばめに対してだった。だけど皮肉なものね、まさかその相手が爆煙ばくえんとともに、今まさに海中へと沈んでいこうとしているなんて。  さて、自分の決断は正しかったのだろうか。  クラント。  懐かしい名前を呟いて、カードの一枚を束から抜き出す。めくる。その表に描かれていたのは、鎌を握った死神だった。本来は、最悪のカードの一つだ。 「……そう。だけど、今のあたしには」  正解。  ただただ、正解。一片の曇りなく正解。なぜなら悪魔に魂を売ってでも時空を超えてきた、この蘭麗の決断なのだから。  正解以外の選択肢など――、ない。  蘭麗は指を振り、カードを離す。死神のカードはシュルシュルシュルと回転しながら飛んでいったが、やがて風力に押され、のろまなイルカのように海へ落ちていく。  そのカードが、船の像と重なり合った時だった。  ガオオオォォァォアオァオァオァオン!!!!!!  船の後方、煙突が吹き飛んだ。煙突は着水するなり高飛沫をまき散らし、そのまま海中へと潜っていく。ふふ、そうか。ついに炎は操舵室にまで及んだか。  再び船を見る。船は横転の格好となり、もう半分ぐらいが海に浸かっていた。めらめらと外心がいしんが揺らぎ、蛍のような火の粉を吐き出している。なんと、美麗な。  幽玄な場景に酔った、まさにその時。蘭麗のまなこが鈍く歪んだ。 「これは……リリーの魔力? ……いや!」  違う! 魔力の気配は四つある。その数が示すところはすなわち――、  近づいてくる。  こちらへ、近づいてくる。  最初は豆粒大だったそいつらは、すぐにそれぞれの個性を露わにする。  桃色のツインテール、ライラ=ハーゲン。  どこまでも凛烈りんれつな瞳、零式燕ぜろしきつばめ。  童顔長身絶対領域、レティシア=アルエ。  そして、エネルギーの全てを噛みしめるような歯、遠野とおの華茂かも。  全員がそろい踏み、というわけか。  どうやらあのトラップは、敵の一人をも仕留められなかったらしい。たったの、一人も。  蘭麗は、ふっ、と苦笑する。  自分の策略の愚かさにではない。  自分の策略が実を結ばなかったという、確たる事実そのものに対して。  ここで蘭麗は『第一策』を諦めた。四人を葬るチャンスは、あの客船の策を除きもうないといっていいだろう。ここからはナンドンランドンの動きに期待しつつ、自らも『第二策』の履行に向けて全力を尽くす。いやはや、しかし。  華茂たちが四人、蘭麗の目の前に一列で並んだ。  全員が視線で、蘭麗を刺す。 「いや、おめでとう!」  蘭麗は拍手をした。不敵な笑みを浮かべながら。 「でもどうやって抜け出したの? すごいじゃない、あなたたち!」  訊くとアルエが、人差し指をゆっくりと燕に向けた。 「燕ちゃんが、頑張ったからよ」 「へえええ! あれ全部で十七枚張っておいたんだけどね。よく壊せたね。身体は大丈夫だった?」 「大丈夫、じゃない」  アルエの顔に、わずかな憎悪が現れる。 「あなた、対抗魔法をかけていたわね。あれを一枚破るだけで、燕ちゃんの色んなところがちぎれたのよ。だけどライラちゃんの回復魔法で治した。アルエ、あんなの、見たくなかった……」 「ふうん。だけど回復魔法ってけっこう魔力を食うじゃない? 一枚ごとに回復させていたら、そこのピンクちゃんの魔力がもたないと思うんだけどね?」 「ええ、あなたの言うとおりよ。だから私が、燕を、増やした」 「……ああ! そういうこと!」  聡明、聡明、聡明。  聡慧そうけい炯眼けいがん鋭敏えいびん。  賢いなぁ~~。アルエの言う「燕を」というのはすなわち、燕の土魔法のことだろう。たしかに魔法を増やせば、一撃で全ての鉄格子を破砕することができる。そしてダメージは一回で済む。その一回に対して回復魔法をかけてやればいいのだ。なるほどなるほどなるほど。それならそれで、魔法を撃った燕にはそれ相応の極彩色ごくさいしきが訪れたと思うのだけど……ふふ、こいつら、変態ねぇ。燕の身など、内蔵も骨もあらわになっていたことだろう。人間の形をしていないところまで粉々になったことだろう。それをわかってでもやったというのか。こりゃ、とんだ変態だ。やーい、変態変態。 「……ふざけるなァッッッ!!!!!!」  おっと。  蘭麗は思わずたじろいでしまった。拳をギチギチに固めて叫んだのは、華茂だ。 「なにがよ。おチビさん」 「燕さんを傷つけて! ライラさんとレティシアさんを苦しめて! なにがしたいの、あなた。……なにがしたいんだよぉっ!?」 「うふっ」 「なに笑ってんの。なにがおかしいの」 「いいえ。貴女たちは、本当に恵まれているなぁと思ってね」 「恵まれてる……?」 「貴女たちは仲間同士。誰かのことを考えて、思いやって、仲良しこよしさん。穢れを祓うだとかなんとかいって、人間ごときに好かれて満足して。温かいところに住んで、調子に乗って料理をして。空に戻れば、まぁ、なんて楽しいお茶会。……だから、恵まれてるって言ったのよ。違うかしら?」 「それはそうだけど……別に、悪いことじゃない。みんながそうありたいと、願っていることだよ」 「あははは! ばっか!」  蘭麗は、ザン! と腕を高く振る。指先には、番傘の柄の感触が生じた。  白い夕顔の描かれた、くれない軒紙のきがみ。それは敗北と死への、正しい案内人。 「誰もが幸せになりたいよね! 誰もが幸せに暮らしたいよね? でも、だめなの。幸せの量が足りないのよ。十しかない幸せに、百の愚か者が集うわけ。奪い合うわけ。貴女が幸せである背後で、泣いている人を想像したことはある?」  華茂の口が真一文字に結ばれる。  だが奴はそれでも、怯むことなく眼光を飛ばしてくる。 「……違う」 「へえ。なにが」 「百人が幸せを求めることで、十の幸せは増えていくんだ。人間と人間が繋がって。魔女と魔女が繋がって」  華茂は横目で、燕、ライラ、アルエを見る。 「そして人間と魔女が繋がって、増えていく。幸せを増やして、喜ぶために私たちは生きている。喜ぶために、この世界にいのちをもらったんだ」 「はは、面白いなぁ。華茂とあたしは、どこまでも平行線だわ」  なんてなまぬるい魔女。  こんなくだらない魔女が、自分の『第二策』の必要条件になっているだなんて。  滑稽こっけいを通り越して、理不尽の域ですらある。  では、その理不尽の論理に。  この胡蘭麗フーランレイ、乗ってやろう。  あの腐った未来の夢を打ち破れるのならば、阿鼻に棲む怪鳥をも牛鬼をも乗りこなす。  蘭麗は、ババッ!!!! と番傘を広げた。 『暫時、石を穿つ。落ちる水滴を目で追う。嗚呼、やはりこの洞穴どうけつの奥には三千世界の瘴気しょうきあり。行こう、行こう。我と汝、なくした心の幻肢痛テクイスト。進もう、我らの赦される闇へ』  おもむろに頭上へ掲げ、ありとあらゆるものの死を願う。  全てをぶちまけろ、奈落の底へと――。 『踏破不能とうはふのう狂奔連峰きょうはんれんぽう――――――ッッッ!!!!!!』  一本の番傘が。  二、三、四……ずらら……九、十、十一、ずらららら……、  十八、十九、二十!! ずららららららららららららら!!!!  連環した二十本の番傘はまさに、紅の壁。  それらの露先つゆさきから、シャキィン!! と刃が突き出た。 「くらえ、人間の犬ども!」  二十本の番傘が、それぞれ別の方向へと乱舞する。波形で回るものあり、直線で加速するものあり。それらが四方八方十六方の方位より、けたたましく華茂たちに襲いかかった。 「か、回避だっ!!」  ライラが叫ぶ。魔女どもが散る。  刃に月光が点る。番傘もまた拡散し、四人の魔女を追跡した。  華茂――空中であたふたとしながらも、上半身をひねって一撃目をよける。二撃目がかすかに袴を破るも、ほんのわずかな切傷で耐えた。三撃目以降は、宙にて華茂を刈るタイミングをうかがっている。  燕――前、後への旋風脚でたやすく二撃を払った。『氷舞ひむらッ!!!!』三撃目の軒紙に氷槍ひょうそうを突き刺す。完全に飛行をものにしている。あれは、相当優秀なのだろう。  アルエ――人差し指を立てた両手を肩付近に挙げると、頭の上に白猫が現れた。『にー、うにー』白猫が二本の番傘を吸いこむ。本人は飄々ひょうひょうとしながら、猫の頭を撫でるのみ。  ライラ――一撃目は炎波えんぱで灰にしたが、すぐにその炎を消した。二撃目以降は、優れた体術で簡単にかわしている。奴はなぜ、火を引っこめた? 奴の瞳を探るも答えはない。  しかし……。  あの四人は、不思議に思っていることだろう。  たしかに番傘は強い殺傷能力をもっているが、かわそうと思えばかわせないことはない。その最たる例が、華茂だ。彼女の飛行魔法はきわめて未熟。そうだとしてもかわせるのだから、ちょっとした拍子抜けをしているのかもしれない。 (それなら、もういっちょ見せとくかなぁ)  蘭麗は両手の指を素早く組み、印を結んだ。 『踏破不能の狂奔連峰! 秋時雨サランドウッ!!!!』  四人を襲撃中の傘がギュゥゥゥン、と上昇していく。  もちろん奴らは、首を上げてその様子を見ている。  さぁ、通り雨には気をつけな――。  蘭麗が指を弾いた瞬間、開いた傘の内側から幾束いくたばもの水鉄砲が射出された。 「なんですか、これっ!?」 「わからん! でも、当たっちゃだめよ!」  燕とライラが言葉で交信する。それを合図とし、魔女たちが夜雲よぐもを縫っていく。しかし一人だけモタモタと動く華茂の膝を、わずかな水が濡らした。 「い、痛っ!!」 「華茂! どうしたのですか!?」 「燕さん、これただの水じゃないよ! 当たったらジンジンして痛い!!」  うふふふ。  あんなのに当たるマヌケがいて幸運グッド・ラック。おかげで、奴らの警戒心は強まったようだ。  よし、ここで一つ教えてやるとするか。 「貴女たち、それは酸よ。酸の雨。それ浴びたら……溶けちゃうわよ~~っ?」 「えっ」 「そんな」  慌て出す魔女たち。華茂と燕は傘を見上げながら飛行を開始した。先ほどのような軽快さはない。当たれば溶けると聞いて、身体を恐怖にさらしてしまったのだろう。さすがのアルエも動き出した。なるべく白猫に吸いこませるようにしているが、近接してきた酸はよけざるをえない。あのアルエの心すらも、蘭麗は手中におさめた。  うむうむ、いい感じだ。  阿呆が阿呆のような顔をしてダンスしている。ナイスステップ。踊れ踊れ踊れ! 「……ん?」  だが蘭麗は見てしまった。  三人が水中の微生物のように自由行動している中、一人の魔女だけが直立している。  ライラ=ハーゲン。  酸はライラに降り注いでいる。彼女の服を焦がし、皮膚に化学傷を負わせている。しかし肝心の太い水柱が落ちる時、突風がライラへの直撃を邪魔しているのだ。  まさか……。  いや、しかし。  彼女は落ち着いた瞳でこちらを精察せいさつしている。だめだ。その目は、いけない。  蘭麗は、誰にも聞こえないような舌打ちを、一つした。 「愚鈍ぐどんが一人、いるようね! なら、あたしが直々に狩ってあげるわ!!」  蘭麗はぐうんと天上に向かった。一本の番傘から降雨を消し、軒紙を閉じる。束を握ったまま念じる。傘先から剣が伸びた。これで拝み撃てば、どんな身体も真っ二つ。  それでも、ライラは泰然自若たいぜんじじゃくとして動じず。 「一人目、さようなら!!!!」  蘭麗は豪速で急降下。刃と風の摩擦で今にも燃え上がりそう。ライラはずっと蘭麗を見ている。その鉄面皮てつめんぴ……忌々しい。じつに忌々しい。忌々しい忌々しい忌々しい忌々しい忌々しい忌々しい忌々しい!!!! 蘭麗の顔が怒気どきで歪む。下唇を、横に伸ばす。 「ライラさん、危ないっ!」 「ライラさん、逃げてください!!」  ほうら、お仲間が心配しているぞ?  この刃が細胞と細胞の間を斬り分ければ、貴女はあっという間に泡、泡、泡。この世のシャットダウン。それ、わかっているわよねぇ? もちろんねぇ?  蘭麗の視界の中、ライラが占める割合が高まっていく。  黒いスカート、ニーソックス。  たえなる、目。  もうよけられない。遅すぎる。よけられない。遅すぎる。手遅れ手遅れ……。  ――きひひいっ。  ライラの胸と刃との距離は、わずか、数センチ。

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