アルエの眼の前で、突如として火の粉が舞う。 それらはまるで巣をつつかれた蜂のよう。7番通りの演者も観客も、火事が発生したと思ったのか、めいめいに大きな悲鳴を上げて逃げ出した。 しかしその中、マロンだけは手で庇をつくり、落ち着き払っている。 「あらら。チャーミが敵を見つけたみたいね」 「て、敵?」 「ニーウには黙ってて悪かったけど、うちら魔女なんだよね」 それは……知っている。アルエはマロンたちが魔女だとわかっていたのだが、マロンのあっけらかんとした性格に惹かれ、友達になりたいと思ったのだ。それに自分のファッションを褒められたのも、ちょっと嬉しかったし……。 火の粉はメラメラと、いっそうの激しさを増す。アルエはたまらず腰だめに構えるが、マロンはそんなアルエの頭にポンと手を置いてきた。 「大丈夫。この火は別に、怖くないから」 えっ――? カフェの銅板の下、繰り広げられているのは明らかに火属性の魔法なのに? そう疑問に思った瞬間、ド高い音が炸裂した。 ドウン ドウン ドッ ドドドドドドドドドドドドドドドドド!!!!!! あれは、なんだ。 鉄だ。楕円形の鉄の板が激しく回転している。先端がブレているが、あそこにはおそらく刃のようなものがついている。アルエはあんな機械を、これまでに見たことがない。 「あれ、なんだっけ。ちぇーんそー、とか言ったっけな」 「チェーン、ソー?」 「チャーミが蘭麗っていう魔女からもらったんだってさ」 刃が激しく輪転する様はどこか拷問具を想起させる。そして乾いた音にも、敵意が。 火の粉が晴れてきた。爆粉の去った先には、二人の魔女が立っていた。あの二人は、ちょっと前にアルエを訪ねてきた……華茂と燕という名前の魔女だったはずだ。 「それでは掃討の。お時間としましょう。十字を切りなさい」 チャーミの口がにいっと開く。 ローブが風にあおられ、バタバタとはためく。 その前で、華茂と燕は腕で顔面を護り、それでもチャーミから目は離さない。おそらく、背中を向けてしまうことがもっとも危険であることを理解しているのだろう。 『全・鬼・空。出立の鐘をけして止めることなかれ。全・魔・海。ここに大地は果て、汝そのもの未踏と化す。脳裏に映すは雌伏の時。祝えや、一生の前借りを――』 チェーンソーが、ブルーン! と鬨の声を上げる。 チャーミの魔力がぐんぐん高まっていく様を、アルエは肌で感じている。 「やめてと言って、わかってくれそうにはありませんね……」 燕が、規則正しい波のように片手を伸ばした。 「燕さん……」 「華茂、いったんは自分の身を護りましょう。考えるのは後です!!」 チャーミの片目だけがパチパチっと開閉。チェーンソーが肩より上に、高らかと掲げられる。 「き、ますよ!!」 『キャーハハハハハハ!!!! 諧謔のデッドエンドォォォォォ――――――ッッ!!!!!!』 チャーミがチェーンソーで半円状の動線を描くと――、 バキッ……、バキバキッ……、 ――――バキバキバキバキバキバキバキビキビキビキビキバキバキバキッッ!!!! 「こ、これは……」 華茂が首を振り、周囲の変化を確かめる。 「氷……?」 そう。それはまさしく凍結、だった。 路地が硝子が店構えが……、看板がベンチがポストが花がランプが楽器が洗濯物が車が――――全て尖った氷へと包まれていく! ガッ、シャ――――ン!!!! ガシャン、ガシャン!! 温度の変化に耐えられず、建物という建物の硝子が破裂。氷混じりの破片をそこかしこへと降らせていく。白昼の陽光を乱反射させたそれはまさに、光の驟雨だ。 「燕さん、飛んで!!」 「えっ…………ああっ!!」 華茂と燕は咄嗟に飛翔。もし彼女たちの対応が一秒でも遅ければ、彼女たちの脚は透明な器に封じこめられていたことだろう。 続いて、メキメキという音が聞こえたと思ったら、洗濯屋の看板が落下。その重さで、地面に放射状のひびが入る。 これだけの氷の跋扈を許しているというのに、なぜだか焔の塊は依然として空気を舌で舐めている。その異常やるかたなしといった状況で、マロンは慣れたように言った。 「あれが、チャーミの魔法だよ」 「炎と、氷……」 「チャーミは温度を二つに分けることができるんだよね。めっちゃ熱いのと、めっちゃ冷たいのと。ま、あれがこっちにきたらうちが護ってあげるから安心しなー」 そこでアルエは思い出した。 聞いたことがある。凍土を担当し、自らの火属性で人間を寒さから護っていたという魔女のこと。その名前は間違いなく、エントレス=チャーミだったはず。かつて人間を護っていたチャーミがなぜ今、町を破壊している? そのチャーミはすぐさま上方を仰いだ。天に逃げる、華茂と燕。しかしチャーミは二人を追おうとはしない。狂い笑いを咲かせながら、二発、三発とチェーンソーから攻撃を放った。 瞬間――。 バオッ!! ガシピシガシガシガシィ――――ッ!! 華茂の付近で、爆炎と氷塊が現出する。 「うわっ!!」 華茂の飛行がおぼつかない。あれはきっと、まだ飛行の魔法に慣れていないのだ。 一方の燕は八の字に旋回して攻撃を回避。これにてチャーミのターゲットは華茂のみに絞られた。 空気の温度が、次々と分離させられていく。炎熱の空間と、氷点下の空間へ――。 華茂は短い呼吸を続けながら、ようやくといった感じでこれらを回避する。 が――。 華茂が振り向いたその真正面に、時計台の針があった。 「キャーハハハハハハ!!!! 行き止まり!! 残念。もう一度。人生やり直し!!」 ためらいもなくチェーンソーが振り抜かれる。 華茂の目が丸くなり。 もっと、丸くなり。 着弾まで四半秒――――、 そこに、燕。 『氷舞!!!!!!』 燕のつま先から放たれた氷の円錐が、チャーミの攻撃を横殴りに撃ちつけた。この氷のせいで炎塊は生じず、ただ氷×氷の槍だけが華茂の鼻先を通過していく。 ズガァァァァ――――――――ン!!!! 巨大な氷槍をもろにくらった時計台はわずかに揺らぎ、息をぺっと吐き出すように二本の針を地面へと落とした。 それらの針は民家の屋根を貫通。直ちに民家の中から「きゃああああああああ!!!!」という声が金を切る。避難しきれなかった人間がまだ、残っているのだ。 だが、人間の気配はそれだけではなかった。 「な、なんだ!!」 「消防車を呼べ!! 7番通りだ!!」 「あれは……魔女だぞ!!!!」 7番通りの入口、道角に入ったところに人間の群れが詰めかけていた。たぶん、元々駅前で祭りを楽しんでいた人間が異常を察して大挙してきたのだ。 「人間風情が。くたばる前に。温泉巡りも。いいわね!」 再び、ブルーン!! と唸りを上げるチェーンソー。 チャーミの横顔が集中線をともなったその時――、 斜め上方に、燕の孤影が現れた。 『我が身委ねる母なる大地よ、葉擦れの声よ――森羅の生命を乗せて、集え!!』 奇岩。 ――突発。 しかしチャーミは微動だにしない。脚を大地にべっとりとつけたまま、燕の魔法であろう大岩と対峙するのみ。 「もしかしてあの人、飛べないの?」 アルエがマロンに訊くと、マロンは軽い所作で首を振った。 「いや、飛べるよ。だけどあの武器を使う時は長く飛べないらしい。それだけ、魔力の消耗が激しいって聞いたわ」 それからマロンはボソボソ、と呟いた。 チェーンソーを手に入れてから、チャーミの魔力が莫大に上昇したこと。 あの武器をチャーミに渡した蘭麗という魔女が、いったい何者なのかわからないこと。 アルエは感じる。 あのチャーミという魔女は、触れてはいけないものに触れているような……。 しかしそんなアルエの思いとは裏腹に、チャーミは享楽の笑みを浮かべる。 そして。 「ごめんなさい。それ。真っ二つ!!!!」 『が……峨々なる刃で敵を貫け――――っっ!!』 チェーンソーから放たれた空弾の方が、わずかに迅い。しかし距離の差へと直されたその『わずか』は、戦況に明らかな有利不利を生み出した。 ボゴォォオォォォォォ!! ビキビキビキビキビキビキ――――!!!! 空中。燕付近で、大岩が炎と氷に分離される。燕はその衝撃に吹き飛ばされ、四肢を乱しながらアーチを描いた。 その時、アルエは見た。 一軒の建物から、十歳くらいの男の子が泣きながら走り出てくるのを。 喉がひくついた。男の子は町の住民のところへ、助けを求めて出てきたのだろう。しかしタイミングが悪すぎた。男の子の頭上には、氷に包まれた巨岩が迫る。 思うより先に身体が動いていた。隣にはマロンの気配。マロンもまた、アルエと同時に疾走を開始している。だが――――、 届かない。この脚では届かない。先に大岩が男の子を喰ってしまう。それは飴を舐めれば甘いだろう、という感覚。簡単な足し算で示されるような、当然の公理。 アルエが ア ア ア ァ ァ !! !! !! と五音を発する正面に、 岩を悠然と止めた、片腕があった。 ――――それは、チャーミの腕、だった。 岩の陰で、チャーミは男の子を見下ろしながら哀れむように笑う。 「愚かな人間だけが。消え失せるのが得策。だけど。そこまでは。求められない」 静寂と化す、一つの町。 その中で、消防車のサイレンだけがけたたましい響きを上げている。 涙をぼろぼろとこぼす男の子の前で、チャーミは大岩を路地に軽々と放った。大岩は地面を割る。その衝撃で、岩にまとわりついた氷が弾ける。虹を、つくる。 「ケチが。ついたわ。場所を。変えましょう」 チャーミがそう言うと同時に、チェーンソーが消えた。 予備動作を一つ。やがて鳥のように飛翔を開始するチャーミ。その姿を追って、華茂と燕が手を繋いだ姿で空を切り裂いていく。 「ごっめーん! 花を選ぶのはまた今度ね! でもマジで楽しみにしてるから!!」 マロンは舌を出すと、バイバイと手を振ってからトップスピードで大地に別れを告げた。 魔女たちが皆去ったことを知り、人間たちが7番通りに走りこんでくる。 「火を消せ!!」 「けが人はいるか!?」 「屋根と看板が落ちてくるかもしれん! 気をつけろ!」 しばし呆然としていたアルエだが、そこでハッと気がついた。 あの魔女たちが飛んでいった方向には……、 駄菓子屋『ミスカーム』があることに。 飛ぼうと思った。アルエも飛んで追いかけるべきだ。 しかしここで飛べば、人間たちに『アルエが魔女だ』ということがばれてしまう。しかも魔女が町を壊した後だ。アルエがミスカームを護るとするならば、もうこの町に住むことはできない。 「わーん! お父さん、お母さん!」 「悪かった! 買い物なんかに行ったお父さんが本当に馬鹿だった!」 「もう大丈夫よ。もう大丈夫、だからね……!」 さっきの男の子だ。どうやら無事に両親と再会できたらしい。 でも。 そうだよね。そうあるべきだったよね。 誰かが誰かをたいせつに思うこと。 みんな、限りある世界を、そうやって泳いでいるんだったね。 「ね、あなた。お菓子は好き?」 アルエが男の子に尋ねる。だけど親子三人、訝しそうにこちらを臨むのみ。 「あげる。もう、怖くないよ」 袋入りのマシュマロを渡すと、男の子がニコッと笑った。それを見た父と母はアルエに対して深いお辞儀をしてくる。アルエは、男の子の頭を優しく、撫でた。 アルエの伏せがちな瞼が――、 眠そうな瞼が――。 力強く、開き。 「じゃあね!!」 地面を蹴った。身体が、空と同化した。下方からは悲鳴とか、アルエを罵る言葉が聞こえてくる。だけどそれらも、ほんの数秒で消えた。 いいの。 いいのよ。 そうやって生きてきたのだから。 だけど自分のたいせつなものだけは、この手で護る。 百は得られないけれど、一を得よう。 アルエは、そうやって、生きていくのだから――。 遠方に山脈が見える。頂上にかかった雪が、地平を一本の白線へと仕立て上げる。 頻波雲の隙間に、等間隔の粒が並んでいた。 どうやら、人間たちの空軍が出動を始めたらしい。
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