魔女のお茶会
第一章⑦(ハートさ、ハート)

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 幸せだな、って思っていた。  多くのものを望んだことはない。  朝、起きたら。味噌汁の香りがする。トントントンと、まな板を叩く包丁の音がする。静かな湯気が、台所から座敷へと潜りこんでくる。 (おはよう、華茂かも) (むにゃぁ……おはよう、つばめさん) (もうすぐご飯ができますからね) (ありが、とう。じゃあわたし、お花見てくるね)  そう言って柄杓ひしゃくを持って土間を出て。福寿草ふくじゅそうと朝顔に水をやる。うーん、と背伸びをすれば、村の人たちが笑顔で挨拶をくれた。日和風ひよりかぜが山肌を滑り、野草たちを同じ方向へと波打たせる。  それが華茂の、全てだった。  そしてその全てを愛していた。ここがよかった。ここだけが、よかったのだ。  なのに目の前の魔女――リリーは、華茂の心に土足で踏みこんだ。数少ない、華茂の宝物。それが、ぬかるむ汚泥へと沈められてしまった。ゆえに――、  ――刮目かつもく。 「一番先に墜ちるのはティーナと思っていました。ですが、まさか順番が変わるとは」  リリーの持つ弓の先、爆炎が天上へと吹きあがる。 『時の流れを示すユース首魁デルボルンと化し、暫時ざんじの悪運に口吻くちづけなさい!』  そしてほむらは、華茂を目がけてブーストした。  ごう、ごう、と音を立てて近づくあの世の音。  その流れに、華茂の身体は容易く呑みこまれた。眼前が茜色に変わる。突如の温度変化が華茂の皮膚の水分を奪い、細胞を変形させてやろうと企てをはかる。  しかし非情なるトンネルは、わずか数秒で抜けた。  ただ、それだけだった。 「……ほう?」  再び見えてくる、リリーの姿。その眉がわずかにしゃをなす。雷鳴が音を増す。だが落雷はない。 「いったいどんなトリックを用いられたのでしょう? 防御魔法でもかけてあった?」  じゃり、じゃりっ。  一歩、一歩、前へ。  急がなくていい。奴は華茂の命を奪うまでこの地を離れることはない。その間に力を溜めるのだ。大魔女の中枢ちゅうすうを破壊する、一撃のために。 「ではデザートを、どうぞ」  リリーが弓をX字にクロスさせると、そのクロスの中間点に砂塵が生じた。そうだ……あれこそがイアを穿ち、華茂のこめかみを狙ったリリー必死の魔法――。 「あの世で何度も反芻はんすうできますように!!」  ついにリリーは、その魔法の正体を言い放った。 『五臓六腑ごぞうろっぷ間欠泉ジャクリアンッッッ!!!!』  リリーが華茂へと弓の先端を向ける。砂塵は殺意をまとい、華茂へと瞬撃しゅんげきを開始した。それはまさに、連続の弾丸。砂のレーザーだ。  しかし華茂にはよける気などなかった。そして、よける能力もなかった。ザザッ! と音が聞こえたら、もうそこは致命の領域。暗闇の劇場でかれたフラッシュのように、目の前の景色がコマ切れで流れる。  砂塵は/  華茂の肩口を/  えぐろうとして/  どこまでもえぐろうとして/  えぐることができなくて……、  ――鈍痛どんつう。  華茂はぐうっ、と顔をしかめる。これで左腕は使えなくなった。感覚がない。バランスを損なった身体は華茂に、斜め三十度の視界を与える。右手で肩を押さえ、アキレス腱に言い聞かす。  準備はできたか、と。  だ……。 「だぁああぁぁぁぁああぁぁぁぁぁあぁ――――――――――ッッッ!!!!!!」  華茂のきびすと地面の接点が、ボコォ!! と陥没した。  歯を食いしばる。瞳孔を開く。 「ば、ばかなっ」  リリーはバイオリンと弓で八相はっそうに構える。その麗しい顔には、ひと筋の脂汗。  華茂は右腕を引く。行く。 「身の程を知りなさい、下女しものめ!!」  弓の先端から次々と炎弾が放たれる。着弾の半瞬前、華茂は突き抜ける。次々と火柱が立った。それらは華茂の道を指し示す燭台しょくだいとして機能する。あの炎の真ん中に――、  リリーがいるんだ!!!!  そしてその時……。  声が聞こえた。気がした。  いや、それはたしかに届いた、華茂への鼓舞こぶ。 (たいせつなものを、教えていなかったな)  イアの、声だった。 (でもお前は自分で、それを見つけられた)  だから華茂は確信することができた。 (もうわかっているよな、遠野とおの……)  今から、自分は――やれるのだと!! (ハートさ、ハート)  涙が、目尻を水平方向に流れた。 『火龍ひのたち――――――――っっ!!!!』  上半身から、リリー目がけて突っこむ。  引いた拳に、華茂の全てを乗せる。 「あ、あなたごときの魔力など……」  バイオリンと弓で身体を護る、リリー。  聖炎せいえんまとった拳が――――、  二つの防具の隙間に下方より潜りこみ――――、  バ、ゴオオオオッッッ!!  リリーの鳩尾みぞおちにめりこんだ。  リリーの身体が一瞬前屈みになり、  すぐにのけぞったまま後方へと滑り出す。  彼女の手から、バイオリンと弓が空中に放られる。  リリーは衝突によって生じた速さのまま――、モッコクの幹へと激突。 「ぐふうっ!!」  そこでもう一度、頭を前に倒し――リリーは――、地に、墜ちた。  ……終わらせた。  そう思い揺らいだ意識は、遠くからの呼びかけによって引き戻される。 「華茂ねーちゃん!?」  あれは。  弥助やすけ!?  弥助だけじゃない。村の人間合わせて十五人くらいが、崖の上からこちらを見下ろしている。……そうか。今は、みんなが山に入る時間だった。 「みんな、いけない!」 「華茂ねーちゃん大丈夫!? 燕ねーちゃんもいるよね!」 「だめ、だめっ! 早く村に帰って!!」 「そこで倒れてるの、イアさんじゃないの? おいみんな、手当てしに下りるぞ!!」  おうッ!! と、野太い声が重なる。  そんな、それはだめだ。ここに来てはいけない。みんなまで危険にさらすなんて……。 「ほ、う?」  振り向いた。声の主は間違いなくリリーだった。  ここからコンマを争うせめぎ合いが開始される。  華茂は跳足一発ちょうそくいっぱつリリーを押さえにいくが、その寸毫すんごうの間を縫ってリリーは九時の方向へとステップを入れる。バイオリンと弓を広い、空を見上げる。リリーが崖の上へと飛翔してから華茂がそれに続くまで、一秒の遅れを許してしまった。  ――スタッ。  リリーが弥助たちの眼前に到達。遅れて華茂。ためらうことなくリリーに焔を放った。これをリリーは弓で消し飛ばす。心に戸惑いがある今、華茂は中途半端な魔法を撃ってしまった。なにをしている。なにを焦っているんだ。 「な、なんだあんた?」  弥助が拳を構えながら訊く。 「人間……ども、め」  リリーが弓を、ゆっくりとかかげる。  ――いけないっ!!  華茂の回し蹴りが、リリーの空いた脇腹に接近。だがリリーは後方宙返りでこれをかわす。華茂の心臓が、激しく脈打つ。 「そういえばあなたはリーフス。人間の味方でございますものね」  リリーの唇が三日月状に変化したと思ったら、たちまちに白い歯が全て現れた。 「ぶち殺して差し上げましょう!!」  よもやリリーのものとは思えない、荒い言葉。その本気度を感じとった華茂は弥助たちの前に立ち塞がる。大丈夫だ。今の自分ならやれる。来い、リリー。  しかしリリーの次の行動は、華茂の予想を容易に裏切ってくれた。  リリーは崖の上から身を躍らせると、こちらの方を凝視ぎょうししながらうつ伏せになって飛び去っていく。なぜ、攻撃を仕掛けてこないのか……?  やがてリリーは川の浅瀬へと降り立った。雷雲の瞬きが水面に反射し、それはまるで黄と金の舞踏のようでもあった。  サッ――。  リリーが、バイオリンに弓を当てる。 「哀れな皆様に、せめて鎮魂歌レクイエムを――」  キイッ、とひと音が響き。  すぐにもの哀しいメロディが山中を支配した。 「うがあッ!!」  弥助だった。弥助は自分の身を抱くようにして地面に転がる。 「熱い!!」 「ぎゃあぁああぁ!!」  ほかのみんなも同じだ。これは間違いなく……リリーの黒魔法『青銅のSleeplessスリープレスNightナイト』。みんなの身体の中で今、血液の温度がどんどん上昇しているのだ。  すぐに悲鳴はやんだ。  苦悶の表情を浮かべる弥助たち。もう、悲鳴を出す余力もなくなっている。  どうする――。  選択肢は、一つしか、なかった。 「やめろぉおおおぉぉぉぉぉおおぉぉぉぉぉ――――――――――ッッッ!!!!!!」  華茂も崖から飛んだ。  目指すは当然、リリー。飛行の勢いを乗せて、炎の拳をくらわせるしかない!!  すると、なぜだ。  リリーが演奏をやめた。それは、華茂が突貫とっかんを開始した直後のことだった。 「来ましたわね。ティーナの、最後の弟子」  リリーはわらっている。それは明らかに、こちらの失態を捉えたような笑み。 「あなたが人間を護るために向かってくることは予想してございました。そして空中では身動きがとれないことも。あなたはまだ、飛行技術すらおぼつかない。あなたが滝壺から飛んできた時、あたしは確信したのでございますよ――」  リリーの手から、バイオリンと弓が消える。  必然、自由になった両手の五指を、華茂の方へと向けた。 『五臓六腑ごぞうろっぷ間欠泉ジャクリアン!! 十殺じゅっさつッッ!!!!』  全ての指先から、砂の竜巻が発射。それらは華茂を目がけて螺旋らせんを描く。しかし華茂の身体は自由が利かない。回避できない。ただ、リリーの計略へと飛びこむのみ。  だけど、怖くなんて、なかった。  不思議だ。  自分がやれるだけのことをやる。そう決めたら、怖くなくなるなんて。  まったく、不思議なことだった。 (ハートさ、ハート)  もう一度聞こえた。遠くに横たわるイアの姿が――次第に透明になり――最後の言葉を残して――無と――化した。……それでも。  華茂は、腹を、くくったのだ。  ロンと化した、拳。  振り抜いた。それが全てだった。唇の内側に激しい風が突き刺さる。目は、閉じない。  華茂は、砂弾を止めたのではない。  砂弾を、遠方へとはじいたのでもない。  華茂は砂弾を――撃ち返したのである。  ありとあらゆる砂が、炎を纏い、炎弾マグマとなってかつての主人に襲いかかる。 「ひっ」  そんな間抜けな言葉が、大魔女リリーの終着駅だった。  ゴオッ、ズウゥゥゥゥゥ――――――――――ンン!!!!!!  死神と化した炎弾は、リリーの腹部をぶち破った。  リリーは大きく目を見開いたまま膝から崩れ……ついに……消滅した。  ザガッ!! と、強烈な着地。華茂はイアの姿を探す。しかしどれだけ眼球を反復させても、あのクールな笑みは見つからない。 「イア師匠ぉぉぉっっ!!」  咆哮ほうこうした。山の木々を吹き飛ばすくらいに。  だけど。  すぐに、別の気配を感じた。  燕の横に誰かがいる。U字型のかせから逃れた燕の隣に、誰かが。  ――敵か?  華茂は疾走を開始する。しかし相手は手のひらをこちらに向けるだけだった。もう片方の手からは青い光。その光が、燕の身体を鮮やかに照らしていた。 「はいはいはい。待った待った!」  華茂は急ブレーキ。かかとでガガガガ!! と地面を削る。  すると桃色髪の魔女らしき相手は、いたずらそうな目をして「ワン!!」と犬のまねをした。いきなりのことだったので、華茂の肩はびくついてしまう。ふわりとした桃髪の魔女は、「にひひひひひ」と笑むのみ。なに、この人……。  天上の黒雲は静かに、ただ静かに。  桶から水が抜けるように、その重さをなくしていく。  そして彼女は自分の名前をライラ=ハーゲンだと名乗った後、目で誘いながら言った。 「さぁ、お茶会の時間だぜ」と。

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