疾風は春の祖となるも そのひと吹きに春あらじ 珂雪は冬の祖となるも そのひとひらに冬あらじ―― 「どうしたの、ぼーっとして」 そう声をかけられて、燕はハッとわれにかえった。 目の前には一台の円卓。琺瑯のカップからは、静かな湯気が立ち上っている。 「早くどうぞ。貴女の心のように、冷めちゃわないうちにね」 向かいに座っている魔女の悪態が、燕の胸に突き刺さる。少し背筋を伸ばして神妙にすると、向かいの魔女はシニカルに微笑んだ。 「フフッ、冗談。だってよそ見ばかりしているんだもの、貴女」 たしかに言われるとおりかもしれない。 燕はつい、絶景に目を奪われてしまっていたのだから。 ここは――『魔女のお茶会』 惑星アニンの上空100キロに浮かぶ空中庭園だ。 このお茶会のために設けられた複数のテーブルは一様に、白く巨大なボードの上に乗っている。その様子はちょうど、結婚式の披露宴会場に似ていた。 眼下に望むは、そのほとんどがシアンブルー。遙かなる彼方が、星特有の緩やかな曲がりを見せる。ざわ、ざわと揺らめく海の鼓動。ふと斜め上を眺めると、二つの月も視野におさまった。 青碧色のリーフスと、泥炭がごとく茶に燻ったハーバル。 アニンの供をするこの衛星たちが、ゆっくりと手を振るように虚空を漂っていた。 「ごめんなさい……えっと……」 燕は謝罪をしながら、さっき教えてもらったはずの相手の名前を探ってみる。 「胡蘭麗。ちゃんと覚えてね、零式燕さん」 ……そうだった。蘭麗さん。 彼女は絹のような黒髪を頭の上で縛っている。眼鏡の奥には銀に煌めく瞳。見た目は少女みたいにあどけない。だけどたしか256歳と聞いたから、自分より少し年上の人だ。 「あ、おいしい」 蘭麗の持ってきてくれたお茶で喉を湿らせ、燕は思わずもらした。 淡黄色からは想像もつかない、香ばしさ。ほっぺたの内側がギュウと絞られていくみたい。舌を泡立たせる。ほっこりとした温かみを身体に落とす。 「気に入ってくれた? 水仙茶っていうのよ」 「はい。なんだかさっぱりしますね」 「でも、水仙ってじつは毒なのよね」 ゴクン、と喉音を一つ。もう半分くらい飲んでしまったけれど……。 「毒を飲ませるわけないじゃない。どうも貴女には注意深い思考が足りないようね」 蘭麗は苦笑して、お茶請けのお菓子を籠から出した。表面に鮮やかな紋様が描かれたこのお菓子、たしか名前は月餅といったような。 蘭麗という魔女は少し、厳しそうな雰囲気を纏っている。だけどこうやってお菓子をくれるからには、強く嫌われているわけではなさそうだ。 「いただきますね」 燕は松の実入りの餡を胃におさめ、満足げな息を一つ。 そんな燕の様子を、蘭麗が興味深そうに凝視していた。 「あなたとは、初めてお茶を飲むわね」 「そうですね。蘭麗さんはどんなところを担当されているのですか?」 「水害が厳しいところよ。毎年決まった場所に雨が降らないから、雨量の計算が立たないの。人間の治水工事だけではお手上げよ」 「ということは、蘭麗さんの属性は『水』なのですね」 「ええ。人間のために、水量をコントロールしてあげているの」 「だけど、どうやって雨が降る場所を調べていらっしゃるのですか?」 燕が訊くと、蘭麗は袖口からカードの束をシュッと出した。 「占い。魔法じゃないけどね、決断する時にはいつもこれを使っているのよ」 それから燕は、自分が担当している地域の情報を話した。 燕の担当する地域は四季豊かな国であるが、地震が頻発していること。中には震度7を数える巨大なものもある。これは今始まった話ではなく、この地域が古来より有している脆弱さなのだ。それゆえ燕は『土』の属性で地盤を固めなければならない。 魔女のお茶会は、こうやって魔女同士が担当する地域の情報を交換する場所だ。三十六日に一度、衛星のリーフスとハーバルがともに満月となる日に開かれている。日程の合う魔女だけが近くのお茶会に参加する。ここでは、誰と同席してもかまわない。 はるか昔の魔女たちが始めたものだったが、誰かが自ら治める土地の茶葉を持ち寄ったことで、いつしかこの会合は『お茶会』と呼ばれるようになった。 そして燕が話し終えたところで、蘭麗はぼんやりとした笑みを浮かべた。 「ところで貴女、人間の味方? 敵?」 「えっ……」 いきなり、なんだろう。あまりにも敏感な話題だ。 燕は深く息を吸って熟考。数年前に起こった『魔女狩り』という言葉を思い出す。 かつて魔女はその寿命の長さや魔法を使えるという特性より、人間たちから尊敬半分違和感半分といった感じで、それでも基本的には人間と良好な関係を築いていた。特に彼らの教えてくれる『料理』というものはすばらしかった。いつも人間は旨いものを考え出す。魔女にとってアイスクリームやハンバーグの登場はそれこそ、歴史的大事件であった。 しかしそんな人間たちはある事件をきっかけに、魔女に牙を剥きだした。 「うーん……」 悩み悩むも答えは出ない。もちろん狩られて嬉しいわけはないのだけど、人間たちとうまくやっていきたいというのが燕なりの本音だったのだ。 「もういいわ」 蘭麗は冷ややかな目でそっと言った。 「即答できない、という答えをもらえてあたしは充分よ」 「……ごめんなさい」 「気にしないで。さぁ、お茶の続きを楽しみましょ?」 難問はなんとか過ぎ去ってくれたらしい。 そして燕が便宜的な笑みを浮かべた、その時だった。 「たいへん、たいへん! みんな聞いて!!」 誰かの切羽詰まった声が、こけつまろびつ遠方より届く。 「リーフスとハーバルの逢魔掃討が始まっちゃったよう!!」 ガタン。燕は円卓に手をついて立ち上がる。先ほどの声は緊急に満ちており、すぐにあちこちからざわめきが押し寄せてきた。 ついに来るべき時が来てしまった――。 リーフスとハーバル。この惑星の衛星を模した名前は、魔女たちのグループをさす。リーフスは人間との共生を望むグループ、一方のハーバルは人間を淘汰しようと望んでいるグループだ。二派の激突はいつ起こってもおかしくはなかったが、燕はどこか一枚の薄膜を隔てたように状況を捉えていた。いつかいつかといいながら、結局なにも起こらない。きっと、そうなんだと。そして、そうあるべきなのだと。 しかしだ。 燕はここで、強大な魔力の激突を感じた。 肌で。髪で。瞼の奥で。 事態は間違いなく進行している。すぐにここに届くような影響ではない。おそらくは、アニンの裏側近く。七人のリーフスと六人のハーバルが互いの命を狙っている。 「これ、だめだよ!!」 「ごめんなさい、私帰ります!!」 「どいてよ……ちょっと! どいてっ!!」 巣穴をつつかれた蟻のように、各地の魔女がボードから飛び降りていく。目指すはそれぞれの担当する国だろう。燕も、すぐに状況を確認しに戻らねば。 あ……、そういえば蘭麗は? 「蘭麗さん、私……」 言って、見て。 自らの身体に、えもいわれぬ異常を覚えた。 銀のナイフが燕の手の甲を貫き、円卓に突き刺さっていた――。 「あ、えっ……?」 ひと呼吸を置いて――悲鳴を上げようとして――声を妨げる弁と化す、喉――来ない。痛みは、まだ来ない。 ただおぞましき異物感。あるはずのない骨が一本、増えたような。 来ないで……。 来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た!! 口の中の唾がぬるくなっていく。膝に震えが到達。縫い目の細かい網をかぶせられたように視界が闇に侵食される。そして、揺らめく。 限りある映像の中で燕は見た。 手の甲からプツプツと、組織液の泡が立つ。遅れて赤がやって来る。ズキンズキンズキンズキン。鈍痛しかない。たちまち円卓には血溜まりが広がっていった。 「ああ、いやぁ……」 どうしよう。このまま手を引けば虫様筋は破壊される。だから動いてはならない。ただちには、動いてはならない。だけど、動けないということはつまり……。 「貴女、ハーバルにはなれなかったみたいね。残念だけどさよならだわ」 言って蘭麗は眼鏡を外した。 童顔には似合わない、妖しさに彩られた横長の目。どうしてさっきまで甘いお菓子をつまんでいた手のひらに、いやらしいぬるぬるが潜りこんでくるのだろうか。 逃げなきゃ。 ……逃げなきゃ。 『我が身委ねる母なる大地よ、葉擦れの声よ――』 自らの全てで念じる。どうか、間に合って。 「あら、詠唱ね。大技のようだわ」 蘭麗は動かない。腕組みをしたまま、燕の様子をじっと見つめている。 『森羅の生命を乗せて、集え』 燕は無事な方の手を挙げる。手のひらに、アニンから漆黒の粒が集まってくる。やがて粒子は尖った岩へと変化し、その切っ先を蘭麗へと向けた。 『峨々なる刃で、敵を貫け――――っっ!!』 飛閃。 ゴウウン、と空気を切り裂く大岩が、抜き付けの瞬撃を放った。 はたして岩は蘭麗の腹部へと直撃する。肉のひしゃげる音と同時に、蘭麗の身体が後方へとスライドした。その口端からたちまちに生じる、紅い華。 はあっ、はあっ……。 息も整わぬうちに、銀のナイフを手の甲から引き抜いた。ブシュッと血飛沫が上がり、燕の白衣装を死の色に染める。だけど、大丈夫。まだ意識は、保っていられている。 「ぐ、く……」 蘭麗の軋む声とともに、燕の思考も元に戻っていく。 「いい……ま、魔力だわ……。やっぱり、あたしの見立てに間違いはなかったのね」 ぺろりと、舌舐めずりをする蘭麗。 燕はとんでもないことをしてしまったと感じた。いくら咄嗟の反撃だったといえども、蘭麗という魔女の身体に大怪我を負わせてしまった。 だけど蘭麗は、うひひひひひ、と笑った。 そして同時に、 『龍が如く希望を押し流す水に告ぐ。敵の慧眼を、黒く塞げ――』 それは瞬き一つの間だった。 幻想の手。それは鉤爪のように尖った手。残像をのこす迅さで燕の豊かな胸部へと忍びこみ、心臓を掴取する。 「貴女の『罪悪感』を頂戴するわ。そして貴女はここであったことを全て忘れる」 燕はひとことも返すことができない。 ただ、荒ぶる呼気に申しつけを送るのみ。 内臓を――連れていかないで、と。 「貴女はこの戦争の鍵になる魔女。今封じこめた罪悪感は、あたしが最高のタイミングで解き放ってあげる」 忘れたくない。 忘れたくはない。 だけど。 「束の間の遊泳を楽しみなさい。あたしの意思で、貴女に自由を差し上げましょう」 目の前が黒ずむ。 愛しい人の笑顔を、想った。 最後に見た光景は――ただの一つ。 お茶会を開くためのボードの中心に設けられた柱石。 そこに刻まれた、古くから伝わる魔女の諺だけであった。 疾風は春の祖となるも そのひと吹きに春あらじ 珂雪は冬の祖となるも そのひとひらに冬あらじ―― 零式燕。空漠に、堕ちる。
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