魔女のお茶会
第二章③(おやすみ、燕さん)

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 きしり、きしり、と床が鳴った。  今夜は、華茂かもが床にタオルを敷いて寝る番だ。  異国のホテルの一室。華茂とつばめは初日にベッドをお互いに譲り合った結果、一日置きにベッドを使い合おうという約束にした。二つの部屋をとらなかったのには、わけがある。  魔女は基本的に貨幣を多くもっていない。元々、担当する地域のけがれをはらい、その分人間から衣食住の提供を受けるという暮らしを続けてきたのだ。華茂と燕は両替商で金銀をこの国の貨幣に交換したのだが、この国の人間からしたら、華茂たちのもっている貨幣は鋳造ちゅうぞうし直さないと使えない。だからおそらく、かなり不利なレートが適用されたはずだ。まあ、当たり前といえば当たり前か。  そこで華茂たちはなるべく節約することにした。ゆえにベッドは一つだけ。六畳ほどのこの部屋で、華茂たちは使命を果たすまで我慢をすると決めたのである。  だけど、同じベッドを一緒に使おう、とはどちらからも言い出さなかった。燕と同衾どうきんするなんて考えられない。この二百年以上、燕とは別々の部屋で眠ってきたのだ。いきなり隣同士で寝るという発想も出てこないし、仮にそうなったとしてもきっと、ドキドキして眠れるわけがない。  窓の向こうから、ウウー、とサイレンの音が聞こえた。 「ん、なんだろう」 「華茂、窓に近づいてはいけませんよ」 「大丈夫。ちょっと見るだけだから」  埃の溜まった木枠に指をかけ、外を眺め見る。  まだ、ウウー、と鳴っている。心の中を、少しずつ冷やしていくみたい。  段々近づいてくる甲高いサイレンは、赤いランプとともに市役所通りを走り抜けていった。どうやら急病人か怪我人を乗せた車から発せられた音だったらしい。ふう、とひと息を吐く。  このホテルにチェックインする時、華茂たちはフロントマンに「魔女か人間か」と訊かれた。このホテルが魔女狩りの片翼かたよくを担っているかどうかはわからない。ただし少なくとも、魔女狩りの影響が足下に忍び寄っていることは確実だった。  初めて肌で感じる、魔女狩りの存在。華茂たちは今、人間だということにしてホテルに滞在している。  竹筒を開け、ぬるい水を口に含む。特にやることはない。を落とし、ほとんど闇と化した部屋の中、華茂は二枚敷きのタオルに横たわることにした。わずかな光量を捉えられるよう闇に慣れてくれたこの目だけが、唯一の救いだと感じて。  固い床。かび臭い、錆びたような匂い。  華茂が慣れ親しんだ畳は、もうどこにもない。 「燕さん、もう寝た?」  訊くと、布団のこすれる音がした。 「まだ起きていますよ。どうしましたか?」 「ううん。レティシアさんのこと、思い出しちゃって」 「……うん。なんだか、難しそうでしたね」 「これから、どうしよう」  またあの駄菓子屋『ミスカーム』に通う、というのはためらわれる。アルエはあそこで平和に暮らしているようだったし、無理に説得してもよい結果が得られるとは思えないし。 「場所を変えてみませんか?」  ベッドの端まで身を寄せた燕と、目が合った。 「三週間後に商店街のお祭りがあるらしいのです。そこで、もう一度話をしてみるとか」 「大丈夫かなぁ……」 「わかりません。ですが、華茂も知っているでしょう。この町に、魔女狩りの気配があるっていうこと」  なるほど、そういうことか。  お祭りとなれば、ただ単に奉事や出店を楽しむ人だけでなく、政治思想を主張する人たちが一定数現れる。魔女狩りの正当性を声高に叫ぶ集団がいてもおかしくはない。そういった状況で『今は魔女同士が争っている場合ではない』と説明すれば、もしかしたら。  ただ、それは一縷いちるの望みに過ぎない。アルエがこの先ずっと説得に応じないという未来だってありえるのだ。むしろそちらの可能性の方が高い。  この先、どうなるのだろう。  華茂が二百年かけて貯めた金銀の類いも、このままいけば二、三ヶ月で尽きる。ライラは、リーフスとハーバルの対立を解消するには何十年とかかるかもしれないと言っていた。お金が尽きたらライラに頼っていいのか? それともまた見知らぬ土地を移動しながら、その場その場で穢れを祓って対価を得るのか? しかし穢れを祓おうにも、それらの地域にはすでに担当の魔女がいるかもしれない。そもそも、ライラに与えられた一つ目の依頼すら満足にこなせるかどうかも不透明なのだ。  頬が、震えた。  それは湿度のせいだと信じたい。華茂の眼球に薄い膜ができた。視界の中に、ゆっくりと川が流れていく。三度ほど瞬きをすると、集められた水分は容易く華茂の目尻からこぼれ落ちた。 「華茂」 「うん?」  鼻を小さくすすり、左上を向く。そこにはベッドで半身を起こした燕の姿があった。 「おいで。一緒に寝ましょう」 「えっ」 「いいから。おいで」  どうして? と訊いてもよかった。  いや、本来は訊くべきだったのだ。それでも華茂の身体は自然と動いていた。ゆっくりと立ち上がる。下方に、両手を広げた燕の像が結ばれている。華茂は半ば倒れるようにしてベッドへと落ちこんだ。それを燕が、ぎゅう、と抱き締めてくれた。 「燕さん……」 「うん、うん。大丈夫大丈夫。大丈夫だからね」  抵抗はしなかった。  ただ目を閉じて、燕に身体の全てを委ねた。温かい。燕の匂いがする。燕の束ねた髪が耳に当たる。弾力に恵まれた胸が、華茂のこぶりな胸と触れ合い、つぶれる。どんどん涙が出てきた。先行き不明であることへの不安。今日、アルエに放ってしまった不用意な言葉。なにもできない自分。ただ、燕に慰められているだけの自分。 「わたし、どうしてこんななんだろう」 「どうしたのですか、華茂」  燕が静かに笑った。ような気がする。 「いつもそうだったよ。わたしはお料理もできない。片付けはへたくそ。家の修繕も全部燕さんに任せてばかりだった」 「なにを、今更。私が好きでやっていたことです。私はね、華茂がお料理をおいしそうに食べてくれて、毎日嬉しかったのですよ」  燕が華茂を抱く力が強くなる。華茂も強く抱き返す。こころなしか、脚も絡めた。 「ライラさんの依頼を軽々と受けてしまったのもわたし。レティシアさんにひどいことを言ったのもわたし。今、燕さんを悲しませているのも……わたしなんだ……っ」 「ふふ」  燕は、かつて一緒に桜を眺めた時のように笑った。 「華茂は忘れているようですね?」 「え?」 「誰がリリーさんから私を護ってくれたのですか? 誰が、あの伝説の魔女を打ち倒したのですか? そして誰が……」  一拍の間があって、 「私と一緒にいてくれているのですか?」  それから、もう。  言葉はなかった。  暗く、狭い部屋で。二人きりだった。これまでのどの時よりも、近く近く、身体を重ねた。心臓の音がリンクした。ぼろぼろぼろぼろ涙が出てきた。自分の人生を全てこの人に委ね、与えることができたらどんなに幸せだろう。  そっと、口づけてしまいたかった。  あなたのことが好きです、と告げてしまいたかった。  だけどそれらの希望はいずれも叶えられなかった。  燕はいつしか、小さな寝息を立てていたのだから。 「おやすみ、燕さん。ありがとうね」  華茂は燕からそっと身体を離し、再び窓の前に立つ。  窓のレバーを外し、少しだけ開けてみる。雨上がりの街路から、なま甘い香りが立ち上っていた。もう夏に入ったというのに、冷たい空気だ。空を見上げる。あ――、月。  もくもくとうごめく棚雲たなくもの間から、十六夜いざよいの月が半裸をのぞかせていた。  思えば。  遠くまで来てしまったような気がする。  長い時間が過ぎてしまったような気がする。  だけどあの月の光は、形は、かつて華茂が眺めたそれとよく似ている。  それは、今がまだ始まりにすぎないことへの、なによりもの証左しょうさだった。  ――そう。  わたしの進むべき道は、あの、月芒げつぼうのように――――。  三週間後が、次の勝負の時だ。  今日みたいなヘマはしない。必ずアルエを味方につけてみせる。……いや、まずは彼女と、きちんと向かい合って話をしてみたい。  華茂はベッドではなく、タオルの上へと転がった。  もう、さっきまでのような固さは感じない。  手を伸ばし、燕と柔らかく指を絡め、離す。 「おやすみ、燕さん」  もう一度だけ、ささやくように、言った。

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