中都市から郊外へ抜けたというのは、景色の変遷により明らかだった。 チャーミの眼下に広がる、大規模な田園地帯。その間を一本の河川が流れている。チャーミはその川に針路を当てて飛ぶ。淡い雲が粘性をもって頬を濡らした。耳元では、奔流のごとき風が唸りを上げている。 少し前まで『点』だった空軍の姿は、やがてはっきりと視認できるようになった。二段に組んだ主翼の下方には、やけにでかい前脚。奴らは確実にチャーミを捕捉しながら飛行を続けている。 点から粒へ。粒から、親指大へ――。 戦闘機との会敵は速い。ここから秒を数えることなく視界の大部分を占有してくるはず。見えた、と思ったらもう眼前。これが空戦のシークエンスだ。 しかし八機の戦闘機は後傾した瞬間、すうっと上空へ消えた。 …………ん。 そうだった。そうそう、そうだった。わね。 チャーミは飛びながら、全身の神経を集中させる。今から三を数えよう。一、二――、 (名も知らぬ、名も知らぬ。名前を覚えてすれ違った。だけどそれは昨夜のこと。今日はおまえの名を知らぬ。教えておくれ。おまえが去っても覚えていられるように――) チャーミは80度の角度をつけて上昇。雲が、雲が、ずんずんと厚みを増していく。 ――三。 ズダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダババババババババババババババババババババババババババババババババババダキュンダキュンダダダダダダダダダダダダチュウンダダダダダダダダダダダダダダダダダダ――――――――――――――――!!!!!!!! 『アーハハハハハ!!!! チャックル滞留債権ッ!!!!』 すれ/ 違い/ 一瞬、カッ! と落雷のような空白が生じる。 超高速で急降下してきた戦闘機とチャーミが必然の邂逅。チャーミを狙った機銃掃射は遙か雲の奥へ、塵と化す。すれ違う瞬間、パイロットたちがぎょっとした目でこちらを見ていた。привет. И до свидания.彼らの勇敢な人生に五指で敬礼。 その指を、開花のように広げてやると――、 八機全ての主翼が爆発、炎上した。チャーミお得意の連続爆弾。こんなものでよければ、飛びながらでも余裕だ。 よろっと傾き、たちまちに鉄くずと変わる戦闘機たち。各機の尾翼に描かれた階級章を見て、チャーミは『あの日』のことを思い出した。 そう。 あれは、チャーミがハーバルに加わる少し前のことだった。 あの日あの時の光景を、チャーミは生涯忘れることはないだろう。 チャーミは自らが担当する国の西側で穢れを祓い、遙か遠方となる東側へ移動する途中だった。 しかし穢れを祓うため魔力を消耗した後だ。長く飛び続けるというのも疲れるため、どこかで一休みをしようと考えた。人間たちに会うと些細なことで頼られるかもしれない。そこでチャーミは無人であろう、針葉樹林のど真ん中へと下りることにした。 羽毛のような厚雪に着地する。幸いなことに、降る雪はなかった。仰ぎ見ると、大きな月が出ていた。カラマツに絡まった雪に月光が反射し、おとぎの国のような輝きが辺り一面を照らしていた。ぴかぴかと、長い三角の光が眩しかった。 寒さには慣れている。ハーブティーでも淹れてひと休みしようか。 そんなことを考えてローブの雪を払っていると、少し離れたところに人間の気配を感じた。人数は四人くらい。この付近に集落はないはずだし、どういうことだろう。 もしかしたら緊急の困りごとかもしれない。遭難者、という可能性もある。チャーミはぐずる身体に命令を言い渡し、低空飛行で現場へと移動した。 凍土に、ところどころ積もる小さな雪嶺。斜面をなすその一つにチャーミは身を隠し、四人の状況を確認した。 四人は全員男たちだった。別段疲れている様子もないし、近くには車も停めてある。なにか秘密の話し合いだろうか。とりあえず遭難ではなさそうだということでひと安心していると、三人の男たちが一人に対して怒声を発し始めた。そして逃げ出す一人の男。その男の頭蓋を、 ピストルの弾が、貫通した。 「ひい…………っ!!」 声を出してしまった。それがよくなかった。ピストルを握った男がチャーミの存在に気がついたようで大きく手を上げた。スコップを持った男とともに、チャーミの隠れる場所へと走ってくる。 逃げなければ、逃げなければ。 逃げなければ、逃げなければ。――だが、膝がいうことをきかない。 チャーミは雪の上を這った。四つん這いになってだらしなく、雪に爪を立てながら。 バッ――――チュウン。 チャーミから4メートルほど離れた場所で、一発の弾丸が雪を穿つ。雪煙が舞い起こる。 そこでチャーミはようやく飛べた。鼓動が落ち着くことをただ願いながら、のろのろと、のろのろと回避を行った。途中、弾丸で撃ち抜かれる想像を何度もした。追いつかれて、ローブごと引きずり倒されるという想像も。 しかしチャーミはなんとか逃げきった。月は相変わらず明るかった。まるで、知らんぷりを決めこんだように。あるいは、何者かの愚かさをあざ笑うかのように。 あれは。 後日わかったことだが、あの場所は『殺人の現場』として使用されていた。車で人間を連れてきて、けして誰も訪れないあの場所で殺人を行っていたのだ。スコップを持った男もいたことから、殺したらすぐに埋めていたのだろう。蘭麗は「政治思想が違ったから、殺したのでしょうね」と言っていた。 人間は……。 人間という生き物は、あれだけの数で栄えておきながら、ただ『考えが違う』というだけで殺すのだ。いやもちろん話し合いを行う者もいるだろう。しかし最終手段として、どうしようもない奴は武力の行使でこの世から抹消する――。 そしてその矛先は今、魔女に対して向けられている。 魔女狩り、だ。 魔女とは相容れないと感じる人間が、日を追うごとに増えてきている。だったらこの先、魔女はどうなってしまうのだろう。人間の進化する武器に撃ち抜かれてしまうのだろうか。あの日倒れた、名もなき男のように。そして無実の罪で生きたまま燃やされた、チャーミの師――メイサのように。 そこでチャーミは、意識を現在に戻した。 傾いた戦闘機の行き先は、重力の餌食。さぁ、大地へと口づけをなさい。 ……が。 落ちない。 戦闘機が落ちない。もう錐もみ状態になっていてもおかしくないのに、まだ空軍の戦闘機はふらふらと宙を飛んでいる。 「なるほど。来たのね。……華茂、燕」 チャーミは無表情を崩さず、戦闘機の前方に目をやる。 「んぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎ!!!!」 華茂が両手を広げ、その魔力で戦闘機の落下を止めていた。 コクピットのパイロットは、ゆっくりとゴーグルを外す。 「お前も……魔女か」 「う、うん。ごめんねごめんね。でも、落ちないから……安心してね」 「俺たちは、助かるのか?」 「絶対……んぎぎぎぎぎ!! 助けるよ! だから、魔女を嫌いにならないで」 するとパイロットは、小さく十字を切った。 「嫌いにならないよ。無事に帰れたら、食事にでも行こう」 「え、それナンパですか!?」 「うぬぼれちゃいけない、お嬢さん。だが、食事代は俺がもつぜ」 微笑を交わし合う、華茂とパイロット。他のパイロットたちも震える指を絡ませ、華茂に祈りを捧げているようだった。 …………。 …………茶番だ。 誰かを傷つけないとか、誰かを護るとか。そんな言葉に価値はない。飽和を起こした言葉に心を震わせるほど、伊達な時間を過ごしてきたわけではないのだ。 「あなた、そこまでです」 下方から、すうっと線を延ばすように燕が姿を現した。 なるほど、華茂に墜落を防がせ、燕はこちらの攻撃へと回ったか。――いい、戦法だ。華茂の魔力はそこそこだが、いってもたかがしれたもの。もし華茂がチャーミの攻撃役を担ったとしたら、彼女は数秒で泡と化していただろう。 「無力化させていただきます」 「いきがらないで。己の。限界の。予習をしないなんて――」 「「はあっ!!」」 ともに息を合わせて跳ね上る。細かい氷がチャーミを狙う。チャーミは数発の炎弾で応酬。青と紅が二重螺旋を描いて上昇していく。だが決定機には至らない。チャーミは一点のみに注意を払っておけばよいのだ。それは、燕の岩弾。さっき町で見たあの岩にはなかなかの威力があった。しかしこうやって細かい攻撃を繋いでおけば、燕は大岩を現出させることができない。 燕と視線がぶつかる。 ……いや、けして視線は離さない。離した時こそ、死の来訪。それは燕の方もよくわかっているようだ。 ガッ ガガッ!! ジュウウ……ジュオオオオ……!!!! 氷と炎と、雲と風と摩擦が入り交じり、二人のなす竜巻は化学変化の坩堝を創作する。だが止めない。止めない止めない止めない。手数を止めることなく密雲の上空へと達し――、 「怠惰だわ」 横蹴り。 それは、燕の脇腹へと突き刺さる。 燕は片目を険しく閉じたまま、ふらりと空を舞った。 追撃が不可能になったことを確認し、チャーミは進むべき方向へと飛翔を再開させる。目的地はアルエの住んでいる町。あの片田舎の町を、一路目指す。 「こらこらこらこら!」 横から声が聞こえたと思ったら、マロンだった。 「おめー、どこ行くんだよー。レティシアはもう見つかんなさそうだし、せめてあいつらぶっ倒したらいいのにー」 「ふふ」 そうか。マロンは気づいてなかったのか。 「アルエは。いたわ。華茂と燕から。うまく聞き出せてね」 「えっ、そうなの!?」 「君がニーウと呼んでいた。魔女よ。彼女こそが。アルエ」 「ま、ままままままままま……マジでかよっ!? ……でもさ、そしたら戻った方がよくね?」 「いいの。あの子の町に。行かなければ。あの子はハーバルになって。くれないわ」 「そう、なの? まぁ、よくわからないからついていくけど!」 チャーミは小さく息を吸いこみ、マロンと横並びで飛ぶ。 そしてやはり、思い出す。 あの日、あの時。 真に怖かったのは、人間なんかじゃない。 それは、死が迫った時、逃げてしまったあの頃の自分自身だ。 目の前の事実を信じられなかった自分。 自分を信じられなかった、自分。 だけどチャーミはもう、幼かった自分とは永訣を交わしたのだ。 ――見えてくる。 ああ、見えてきた。アルエの町だ。 さて、仕事の詰めを始めるとしようか。
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