──かくして彼らは運命の夜を迎える── 静かな夜だった。晴れ渡った空には満天の星が輝いていた。風はない。奇妙なほどに世界は静まり返っていた。 その日、夕食を終えたムート、エーレ、リヒト、ゾンネの四人は穏やかなひとときを過ごしていた。 黒髪の父親ムート、金色の髪の少年リヒト、銀色の髪の少年ゾンネ。彼らは床に広げられた「蒼月の島」の地図を見ながら 他愛無い会話をしている。 「ゾンネ、リヒト。この島はこうなっているんだよ」 「うわーすごい崖。これじゃどこにも行けないね」 地図を見るとこの島は険しい断崖絶壁に四方を囲まれていた。船を出す港も、そもそも上陸できそうな場所さえも見つからない。 「そうだな。この島はその上ずっと『常夜の結界』で覆われていて朝が来ることもない。月がなければ真っ暗闇だ」 「だから、危ないから外に出たらいけないんでしょう?」 ゾンネの問いにムートは頷く。 「だけど叶うならいつか他の世界を見てみたいって僕は思うよ。本に書かれている場所に実際に行ってみたいんだ」 はっきりと言い切ったリヒトに、ムートは微苦笑する。 「そうだな。世界は広い。もしもお前達がこの常夜の島を旅立つ時が来たら『風』に頼みなさい。この島をずっと見守り、父さんやお前達をずっと見守っている『風の瞳』に」 「うん、覚えておくよ、父さん」 いつかまだ見ぬ世界を見られる時が来るかも知れない。この島を出られるかもしれない──そんな期待に目を輝かせるリヒトとは対照的に、 「でも僕はこのままずっとここで平和に暮らせたらいいって思うよ。兄さんと父さんと。母さんとで」 ゾンネはリヒトの服の裾をきゅっと握りながらそう言った。 「そうね。そうできたら……いいわね」 楽しそうな3人を見つめて、夕食の片付けをしながらエーレは少し哀しそうに微笑んだ。 ── 時はほんの少し遡る。 「ソア、結界の様子がおかしいだと?」 「そうなんです。常夜維持の機能は問題ないのですけど、護りの結界の方が。それにこんな手紙が──」 闇色の髪と紫色の瞳を持つソアと呼ばれた青年はそう言うと手紙をムートに手渡す。(この頃のソアはまだ人の姿だった。厳密に言うと純血の人ではなく月の子供だったのだが) 「……これは!」 その手紙の文面にムートとエーレは息を呑んだ。 ──月の揺籃の長、ナハト様、貴方をようやく見つけ出しました。 私の大切な恋人を断罪した報いを貴方に差し上げましょう 赤銅色の月の昇る夜、貴方の全てを終わらせます── 「エーレ……これは……夜想曲<ノクターン>からの……」 エーレは静かに頷くがその表情は真っ青だった。 「ええ。昨年のことよ……月の揺籃の長として夜想曲<ノクターン>の恋人、狂詩曲<ラプソディア>を……断罪したの。彼女は血を──マナを求めて多くの人間を無差別に襲っていた。昼間はとても穏やかで優しい人だったの。だけど夜になると狂ってしまうのよ。おそらく夜想曲<ノクターン>にとっての彼女はとても優しくて綺麗でかけがえのない人だった。私が事実を告げても彼は信じようとしなかったの」 「……復讐か」 「どうすればいいの?わたしは夜想曲<ノクターン>の手にかかってもある意味では仕方がない。だけど貴方やリヒトやゾンネ達にもしものことがあったら!」 エーレは普段の彼女からは想像もつかないほどに取り乱していた。肩を震わせ、目に涙まで溜めて。 「大丈夫だ、エーレ。俺が護ってみせるから。ソアもいるしな」 「はい。こう見えても僕、槍を使えるんですよ」 ソアはそう言うとマナで形作られた槍を手にし、くるっと回してみせた。 「ありがとう……だけど最悪の可能性も想定はしておかないといけないわ。リヒトとゾンネだけが生き残った場合のことだけど──」 ── 月が天高く昇った真夜中。静寂を破るかのように運命の鐘は鳴った。 「やあ月が紅くて綺麗な晩だね。いかがお過ごしかな?ムート、そしてナハト様」 「……夜想曲<ノクターン>……」 赤銅色の月に照らされてまるで血の様な色に染まった薔薇が咲き乱れる庭に夜想曲<ノクターン>は静かにその姿を現した。 手に握られているのは大剣。緋色の瞳がただ冷たくふたりを睨みつけている。 「ナハト、貴様が私の恋人をその手にかけたことの償いをしてもらいにきたよ。まずはムート、貴様からだ。その後愛しい子供達を、そして最後に貴様を」 「……私は長として罪もない人々を襲うことを見過ごすわけにはいかなかった。貴方は認めたくないだけだろう。自分の愛した存在が『罪人』だとな」 月の揺籃の長として、断罪者として大鎌を手にして彼の前に立つエーレはもうエーレではない。彼女はこの時にエーレという名前を永久に喪った。それは愛する人と子どもたちにだけ教えていた彼女の本当の名前。暖かい幸せな時間が今、終わりを告げた。 「……何だろう……胸がざわざわして落ち着かないんだ……」 「兄さん……僕もだよ。何だか怖い……あの村の時と同じ」 「ぐわあああああ!」 その時、悲鳴が聞こえた。床に何かが落ちた音。そして何かが床に倒れる音。 「……父さん!?」 不安になって飛び出そうとするゾンネをリヒトの手が掴む。 「駄目だよ!……父さん達もソアもきっと感じていたんだ……何か不吉な予感を。だから僕らをこの地下室に」 「わかってる……だけど……だけど……何も出来ないの?僕たち何もできないの!?」 ゾンネは悔しさを滲ませながら続ける。 「護られていることしかできないの?前も今回も……そんなの……」 リヒトはそんな弟をそっと抱きしめる。 足音が少しずつ近付いてくる。この地下室に辿り着かれればもう逃げ場はない。 「大丈夫だよ。ゾンネだけはこの剣──ウェスペルを使って守ってあげるから。もし僕に何かあったら絶対に逃げてね?」 リヒトはそう言うとウェスペルを抜き放つ。父親の使っていた剣。暁と夜の狭間、夕闇の名を持つ剣。この地下室で何故か父親から手渡されたものだった。今ならばわかる。父は恐らく自分が生き延びられないと知っていたのだと。だから恐らく父親はもう── 「ここだね。ずいぶん探したよ……」 次の瞬間、そう低い声がして地下室の扉が碎け散った。 「っ……」 「兄さん!」 リヒトは自らの体を覆いかぶさるようにしてゾンネを爆風やドアの破片から護った。碎けた木の破片がところどころ肌を薄く裂いている。幸いそれほど深い傷はない。 「君たちがリヒトとゾンネか。綺麗な子どもたちだ……」 夜想曲<ノクターン>は血に染まった服を纏い、静かにふたりの前にその姿を現した。そして舐め回すように彼らを見つめる。 「ふむ……悪くなさそうだ。ふたりとも綺麗だしマナも美味しそうだな……」 そう言って伸ばした彼の腕を、リヒトの振るったウェスペルが薄く裂いた。 「僕らに触るな!」 「……なるほど。震えてまで僕に立ち向かうのか。ますます気に入ったよ。リヒト、君は弟が大事かい?」 「当たり前だ!ゾンネは……僕のただひとりの大事な弟だから!」 リヒトはそうきっぱりと言い切る。細い体を恐怖で震わせながらも、真っ直ぐに夜想曲<ノクターン>を睨みつけながら。 「じゃあ取引をしないかい?はっきり言うよ。君たちでは僕には勝てない。ほら」 夜想曲<ノクターン>はそう言って先程傷があった場所を見せる。そこは何事もなかったかのように傷ひとつなかった。 「……嘘……」 「嘘ではないよ。僕たち『月の子ども』にはこういう能力があるんだ。マナによる再生能力がね。その上僕は純血のヴァンパイアだからその力はハーフよりずっと強いんだよ?」 勝ち誇ったような彼の言葉にリヒトとゾンネは肩を落とすことしかできなかった。 本来ウェスペルは「月の子ども」に致命傷を負わせることができる特殊な剣だが、まだ契約を交わしていないリヒトはその力を引き出すことはできない。 力の差は歴然だった。ならば─── 「取引の内容を教えてください。……悔しいけれど今の僕では貴方には勝てないようです」 「兄さん!」 「そうだね。僕のものになれ、リヒト。そうすれば弟だけは見逃してあげよう」 「な……」 告げられた内容に思わずリヒトは言葉を失った。そしてゾンネも。 「君たちはその方面には疎そうだから言い方を変えよう。リヒト、僕に君のマナを与えろ。ゾンネ安心しろ。兄さんは死にはしい。『月の子ども』にはなるけどな」 「……本当にゾンネを助けてくれるんですね」 リヒトは少し考えた後、そう静かに口を開いた。 「ああ。約束しよう。……おいで」 「……駄目だよ……兄さん……駄目……僕らはその力を……宿しては駄目なんだ!だって僕らは──」 ゾンネの制止を無視して、リヒトは夜想曲<ノクターン>の前へ歩いて行く。後ろを振り返ることもないままに。 「……取引成立だ」 夜想曲<ノクターン>はそう言うとリヒトの体を強く引き寄せ、唇を重ねた。 「……っ……あ……」 その瞬間リヒトの体の奥が熱くなった。流れ込むマナの奔流で頭が割れるように痛み、もはや立っていることも出来ない。 意識が飛びそうになるのを必死でこらえようとするが、彼は気を失って力なくその場に崩れ落ちた。 「マナの反発……代償反応だと?馬鹿な……リヒトは人間ではないのか?」 夜想曲<ノクターン>は困惑した表情で気を失ったままのリヒトを見つめる。これでは今後の色々な計画が台無しではないか。 「だから言ったのに!僕たちは光の精霊と人とのハーフなんだ……僕たちの持ってるルリシアナのマナとお前のイーシェのマナは正反対なんだよ!」 ゾンネはそう言い捨てると、リヒトに駆け寄り、その体を抱き起こす。 「大丈夫だよ兄さん……今度は僕が助けてあげる。半分こしようね……」 そして同じように唇をそっと重ねた。黒い光がリヒトの体から溢れ出し、ゾンネの体へと吸い込まれて行く。 「……っ!」 リヒトと同じように激しい代償反応が彼を襲い、彼もまた同じように気を失いその場に倒れた。その腕にまるで守るかのように気を失った兄を抱きかかえたままで。彼の銀色の髪は夜のような漆黒へとその色を変えていた。 「……」 夜想曲<ノクターン>は気を失ったふたりを前にして言葉を失っていた。 今ならば気を失っているふたりを好きなように弄び、いたぶることもできる。しかし手も足も動かなかった。 「……ああ、お前もそうだったよな……狂詩曲<ラプソディア>。最期は正気を取り戻して僕を庇って」 きっと、認めたくないだけだった。愛しい人が罪人である事実を。ただ目を背け続けていただけだった。もっと早くに向き合っていれば彼女を止めることが出来ていたのだろうか。愛しているからこそ止めてやらねばならなかったのに。 「……そうだね。もう終わりにしよう……」 誰に言うでもなく夜想曲<ノクターン>はそう口にして地下室に踵を返す。 ちょうどその時満身創痍ながらもナハトが地下室に姿を現した。傍らには碧色の瞳の青年の姿も見える。 「……夜想曲<ノクターン>どうしてここに……まさかあのふたりを……」 「……リート。貴方は地下室の中へ早く!」 「わかった!」 リートと呼ばれた青年はナハトを残してそのまま地下室へと駆けて行く。 「……ナハト様。僕はどこで間違えたんでしょうね……」 夜想曲<ノクターン>は疲れ果てたようにそう呟くと降参するようにナハトの前に立った。 「わからない。私も……どこで間違えてしまったのか……だけど私は長としての断罪を行うのみ。グーテ・ナハト」 ナハトが鎌を一閃する。夜想曲<ノクターン>はその場に崩れ落ちる。 しばらくすると人の姿を失い、ただの灰になって風に流されて行った。 ── 「どう?リート。精霊の貴方から見てふたりは」 「そうですね……命に別状はなさそうです。ふたりともイーシェのマナの注入を受けてますけど、元々持ってるルリシアナのマナと反発した結果 、イーシェはシェレカスになってますね。ただ元の属性と真反対になってます」 「真反対に?」 「ソウルエームで最近わかったことなんですけど、精霊や人がマナを操る──いわゆる魔法が使えるのは体内に媒介としての石素があるかららしいんです。例えば俺は風の瞳なんで「ダイアモンド」、イージスは「オパール」、マリアは「パール」、フェリットは「ルビー」というように。もちろん人によって含有率は変わるので魔法の強さには個人差があるらしいんですけど」 「それはわかった。でも何でそんな話を?」 「それは、このふたりにも関わる話だからですよ。元々このふたりの石素は「ペリドット」です。ルリシアナの属性と親和性を持つ石素。けど今はそれに「ジェット」……シェレカスの属性との親和性を持つ石素が加わってます。ギリギリでふたつの石素がバランスを保ってる感じですね。何らかの理由でどちらかの石素が増えると身体や精神に何かが起こる可能性があるんです」 その言葉にナハトは言葉を失う。 (……リヒト、ゾンネ……ごめんなさい。私は止められなかった。貴方達の未来を歪めてしまった……) 「だけど方法はあります。『アダマス』の石素。それは全てに打ち勝つと言います。その石素を宿せれば代償を消せるらしいんです。今ディアン様やグロア様が必死で研究を進めてます。その石素の正体と、それを人工的に宿す『融石魔術』。だから諦めないでください。俺も『風の瞳』としてこの島でその時が来るまでリヒトを守り続けます。コウモリとなったソアと共に」 リートはナハトを勇気づけるように言った。 「そうだな。嘆いていても仕方がない。ゾンネは私が預かろう。……いずれ大きな運命が動き出すその時まで」 周囲が暗転し、部屋の景色が最初に見たものに戻る。 誰ひとりとして口を開く者はいない。 静寂だけが小さな部屋を支配していた。
コメントはまだありません