「待っていてくだされ、若殿! それがしが、きっとお役目を果たしてみせましょうぞ!」 それは天正三年(一五七五年)五月十四日深夜のことだった。 鳥居強右衛門は、三河国長篠の山中を、明かりもなしで一人走っていた。主君である若殿・奥平貞昌の文を、徳川家康に届けんがため、無謀を承知でひた走っていた。 奥平家は、元々武田家に仕える一豪族にすぎなかった。 しかし、武田信玄が没したと知るや、即座に徳川側へと寝返った。 当時、武田家の支配力は他を圧倒していたため、家康はこの寝返りを高く評価した。 その結果、貞昌には家康の息女・亀姫が正室として嫁ぎ、加えて、対武田家の最重要拠点・長篠城まで任されることとなった。 だが、この離反に激怒する者がいた。それは他でもない、信玄の後を継いだ武田勝頼であった。 ゆえに武田家一万五千の大兵力が、長篠城へ攻め込んでくる事態となった。 対する奥平軍は五〇〇。到底、勝てる戦ではない。 されど、貞昌は諦めなかった。 「家康様はきっと救援に来る。同盟者の織田殿とてしかり。我らはここを死守し、援軍を待とうぞ!」 この叱咤が効いてか、奥平軍は三〇倍の兵を相手にして、互角の戦いを行った。 が、兵力差は如何ともしがたく、開戦から七日目にして、城内にも厭戦気分が漂い始めていた。 そこで貞昌は、軍議を開き、家臣たちに問いかけた。 「誰ぞ、余の文を家康様に届けてくれる者はおらぬか? この文を見れば、きっと家康様は援軍を出してくれよう。いや、すでに援軍は出ておるやもしれん。それを確かめてきてくれる者はおらぬか?」 武田軍一万五千の兵に囲まれている城を抜け出す? 馬鹿なことを! そんな無謀ができようか! 誰もがそう思った。 しかし、一人だけ、そんな無謀な役目に名乗り出る者がいた。 それは家臣の末席に座る、足軽の鳥居強右衛門であった。 「それがし、水練には、いささか自信があります。糞尿を排出する不浄口より崖下の寒狭川へと降り、素潜りにて渓流を下れば、あるいは抜け出せるやもしれませぬ」 それは十中の八九も勝ち目のない賭けだったが、強右衛門はその賭けに勝った。見事、武田軍の包囲を突破し、翌十五日の早朝には、長篠城が見渡せる雁峰峠の山頂から、抜け出しに成功したことを証明する狼煙を上げてみせたのだった。 この狼煙を見た奥平軍は沸き立った。 「強右衛門がやりよった! 後は援軍到着まで持ちこたえるだけぞ!」 貞昌の号令の下、奥平軍は一層奮起した。 だが、時間が経てば経つほど、戦況が不利となるは目に見えていた。だから強右衛門は狼煙を上げるや、またも駆けに駆けた。 健脚でもあった強右衛門は、それこそ死に物狂いで走った。 この戦いに勝てば、若殿は家康様からさらに信用され、奥平家の行く末も安泰となろう。さすればわしも出世がかない、女房子どもを楽にしてやれる。 真っすぐな忠義心に、嘘偽りない欲得を上乗せして走った結果、強右衛門の努力はしかと報われた。十五日深夜、強右衛門は無事、家康の居る岡崎城にたどり着いたのだった。 岡崎城には、奥平家の先代当主・貞能が人質として留め置かれていた。そこでまずは強右衛門の身分を証明するため、面通しが行われた。 強右衛門の姿を見た貞能は、驚きに眼を剥かないではいられなかった。 「強右衛門ではないか! 貞昌は、みなは無事なのか!」 「はっ! なんとか篭城し、持ちこたえております。これが証拠の御文にございます!」 「なるほど。たしかに無事のようじゃな。しかし文には、明日をも知れぬ命ともあるが……」 「はい。援軍なくば、一両日にも危ういことになろうかと。ここは家康様に一刻も早い援軍をお願いせねばなりますまい!」 「あい、わかった。おぬしもこい!」 長篠が落城すれば、岡崎城も武田軍とは目と鼻の先。 この事実を誰よりもわかっている家康は、貞昌の文に目を通すとともに、貞能からの目通りの願いも即座に受け入れた。 貞能に連れられた強右衛門は、自分よりはるか上の身分である家康と会うことに心躍らせた。非常の事態とはいえ、少し前までは考えられないことだったのだから、当然といえば当然のこと。 だが、目通りの場に通された先では、予想よりもさらに上の光景を拝むことになるのだった。 そこに家康とともにいたのは、いまや天下に号令をなそうとする織田信長、その人であった。 「ほう。そちが鳥居強右衛門か。よい面構えをしておるわ」 「恐悦至極に存じます」 「援軍のことも案ずるでない。わしが四万の兵を率いてやってきたからには、もう安心じゃ」 「四万ですと!」 「うむ。鉄砲も三千ほど持ってきておる。武田軍など、物の数ではないわ」 「…………!」 強右衛門は絶句するしかなかった。 天下の武田軍とて、鉄砲は三〇〇あるかないか。それだけ貴重な武器を、信長様は三千も持参してくれたという。 これで長篠城は、奥平家はご安泰だ……! 感激のあまり、強右衛門の頬には自然と涙が伝っていた。 「して、明日にもここを出立するゆえ、そちも共に参るがよい」 しかし、信長のこのありがたい申し出を、強右衛門は袖で涙をぬぐうや、即座に断った。 「いえ、それがしは一足早う、みんなの元に戻りとうございます」 これには信長も驚いたが、同席していた家康も貞能も驚かないではいられなかった。 「いま単身戻るは、死にに行くようなものぞ」 「家康様の仰るとおり、ここは共に戻るがよかろう。まずは明日までしっかり身を休めることじゃ」 が、強右衛門は頑として譲らなかった。 「たしかに今一人戻るは、危険であろうかと存じます。しかし、援軍の出立あると知らば、若殿たちの士気も俄然違ったものとなりましょう。援軍到着までに落城せぬよう、ここは一層の奮起を促すが肝要かと」 「じゃがのう……」 「先代様。なにも城内まで戻らずとも、それがしが狼煙を上げた場にて、再度合図の狼煙を上げればいいだけなのです。だから、なにとぞそれがしの我がままを許してくだされ!」 強右衛門の申し様、もっともなことであった。 ゆえに信長は強右衛門の申し出を受け入れることにした。 「よかろう。そちの好きにするがよい」 「ははっ、ありがたき幸せに存じます」 「ただし、勝手に死ぬるは許さぬぞ」 「は?」 「しかと恩賞、楽しみにしておれ」 「ははーっ!」 強右衛門はまたしても走った。 この戦いが終われば、信長様御自ら恩賞を下されるという。 がんばったかいがあった! 命を賭けたかいがあった! 疲労困憊となりながらも、強右衛門は内心、小躍りせずにはいられなかった。 城を出る前、「脱出成功の狼煙は一つ。その後、援軍なかりせば、またも狼煙を一つ。援軍ありせば狼煙を二つ」と決めていた。 後は狼煙を二つ上げるだけ。それだけでわしは恩賞に預かることができる。出世も思いのままじゃ! しかし、五月十六日のこの日、狼煙が上がることはなかった。先日上がった狼煙で奥平軍が沸き立ったことをいぶかしんだ武田軍が、あたりをしきりと警戒していたのだ。 強右衛門は武田軍に捕らわれの身となってしまった。 そして強右衛門の口から四万もの援軍がきていることを知った武田勝頼は、ある提案を持ちかけたのだった。 「のう、そちほどの武士を殺すには忍びない。わしに仕えてみぬか?」 「それがしは奥平家の者なれば、そのような申し出は御免こうむりたい」 「だが、ここで命果つれば、そちの妻子も悲しもう。どうじゃ? ここでひと働きしてみぬか?」 ピクリ。 どんな提案も頑として撥ねつけようとしていた強右衛門ではあったが、咄嗟、反応しないではいられなかった。 「それがしに、なにをせよと?」 「援軍は来ぬと、長篠城に向けて言うだけでよい。それだけで恩賞をとらせようし、我が武田家で召抱えもしよう。どうじゃな?」 「……わかりました。仰せに従いましょう」 言いながら、城内の朋輩らの顔を思い浮かべた強右衛門。心中で密かに、『すまん、これもまた乱世ゆえ』と謝罪の弁を述べないではいられなかった。 翌十七日、強右衛門は武田軍の将兵に連れられて、長篠城の前へと進み出た。 強右衛門の姿を見た奥平家の者たちは、口々に強右衛門へと呼びかけた。 「おぬし、武田軍に捕らわれてしもうたのか!」 「なにか言い残すことあらば、書き残してやろうぞ!」 「さあ、遠慮なく申せ!」 戦友たちの言葉に、強右衛門は泣き出したい衝動に駆られた。 しかし、その衝動を押さえ込み、強右衛門は大きく口を開いた。 「各々方、よく聞かれい! 援軍は……!」 「援軍は?」 「援軍はすぐそこまで来ております。織田・徳川の援軍四万が、鉄砲隊三千を率いて、やってきておりますぞ!」 奥平軍は沸きに沸き立った。 武田勝頼は怒りに怒った。 「貴様、約定を違えよったな!」 「それがしは奥平家の者。武田家のために働くことなど、到底でき申さぬわ」 「命が惜しゅうはないのか!」 「命を惜しんでは、かような役目に名乗り出はしますまいて」 豪胆に笑いながらも、強右衛門は口中で密かに、『すまん、これもまた乱世ゆえ』と、無事に生きて帰れぬことを自らの家族に再び謝らないではいられなかった。これもすべて、朋輩らの顔を思い浮かべたその刹那、彼らを裏切れぬと思い至ったがゆえのことだった。 「こやつを磔にしてしまえっ!」 そして、幾人もの武田軍将兵が強右衛門へと躍りかかった。蹴倒され、殴りつけられた挙句、下帯一つの半裸とされ、奥平家の面々の目の前で磔にされた。 だが、強右衛門は最期の最期まで、奥平家の一党に奮起を促してみせた。 「援軍は一両日にも到着するゆえ、皆々様は降ることなく、鋭意奮戦してくだされ。それがし、武田家の冥府の案内として、先駆けし申す!」 「ええいっ! 望みどおり、さっさと殺してしまえっ!」 武田勝頼の号令によって、強右衛門は両胸を槍で突かれることとなった。 ただ、その死の間際、武田軍から強右衛門の前へと一歩進み出る者がいた。 「拙者、武田家家臣・落合左平次と申す者にござる。強右衛門殿こそは近年稀なる真の武士とお見受け申した。願わくばその忠義心にあやからんがため、御身の最期の姿を書き写して、我が旗指物としたいと存ずるが、よろしいか!」 強右衛門はその言葉を冥土へのなによりの手向けとして、ただにやりとだけ笑ってみせた。 かくして、この強右衛門の死は、奥平軍をより一層鼓舞することとなった。 武田軍は奥平軍の三〇倍の兵力でもって、援軍到着前に長篠城を落とそうと奮闘した。が、二日間、長篠城が持ちこたえたため、織田・徳川の援軍四万と正面から戦う羽目となってしまった。 武田の誇る精鋭騎馬隊は、織田の鉄砲隊の前に、散々に打ち破られることとなった。これが後の世にいう、『長篠の戦い』であった。 以降、奥平家は徳川家から親類扱いされ、譜代大名として幕末まで生き残った。 貞昌の末子・忠明に至っては、家康の養子となり、松平姓を与えられた上、奥平松平家を興すまでになった。 そして強右衛門から数えて十三代目の子孫・鳥居商次は奥平松平家の家老となるなど、代々、藩の重臣として丁重に扱われたという。 なお、鳥居家では先祖の忠勇にあやかって、代々当主は通称として「強右衛門」を名乗った。 主家・奥平松平家の武蔵国忍藩への転封には、当然、鳥居家も付き従った。そのため歴代の鳥居強右衛門は、今も埼玉県行田市の桃林寺の墓地で静かに眠っている。
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