紅筆
紅筆(べにふで)

作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

 もの言わぬは腹ふくるると言う。  今の私は東京府を離れ東北の片田舎に引っ込んだ。当時の知り合いもここには来ない。  言わずにはいられないが言ってしまう勇気もない。だからここに書いておくことにする。  いつか誰かが見つけたら、その時の手にゆだねよう。  少し前に亡くなった先生のことなのだが、私にはいまだに本当がどこにあるのかわからないのだ。  その頃、私は美術学校を卒業したばかりで、谷中やなかうぐいすよろしくぴいちくさえずるだけの小僧だった。  これからは画家として生きていく。美術の研究をするのだ。そう息巻いてはいたものの、ひとり野を行くなど無名の私にはなかなか厳しい。  内心ないしん、途方にくれていた私を見かねたのか、少しは才を見つけてくれたのか、とある教授が初音町はつねちょうにある美術院にお誘いくださった。  この美術院というところは描いた絵を売った金で運営される。なんと、月給ももらえるのだ。  教授の前では神妙に頭を下げていた私だったが、実は小躍こおどりしながらその話に飛びついていた。  美術院はとにかく絵画三昧ざんまいで毎日が絵を描くことで過ぎていく。  運営の方針は確かにそうなのだが、それよりも気鋭の先生方の絵を間近で見られる。それが本当に嬉しく勉強になった。  昼は絵を描き、夜は画談義がだんぎ。  諸先生方に連れられて街に繰り出すことは、まるで売れっ子の絵描きのような気分になれた。 「絵を描くというのはだな!」  そう言って始まる画論の凄み。白熱の議論は深夜に及ぶ。  真面目に聞き入っていると、 「あんなものは話半分に聞いておけ」  などと言うかたもおられ、それが元でまた掴み合いの喧嘩けんかにまでなる。  そんな刺激の多い日々だった。  中でも、とりわけ私たちの気に入りの店というのがあって、そこは女将おかみからして美人で気が強く、芸者も気風きっぷのよさが売りとくる。こちらが戯言ざれごとを言おうものなら、十にも百にもなって返ってくるのだ。  その芸者とのやり取りもまた楽しみで、俺は誰それと仲がいいだの、僕はこの娘が気に入りだの、さんざ言い合っていたものだった。  そんな中にあって、その先生は「誰がいい」などと言うでもなく、しゃくをされれば黙って受けている。  そういう人だった。  静かではあったが決して臆病おくびょうなどということはなく、むしろ誰よりも内に情熱を秘めていたのではないかと思う。  それは描く絵にも現れていて、どこかしら寂寞せきばくとした表情が、かえって見る人の情緒を引き出す。  そういう絵を描く人だった。  芸者たちは、人知れず熱量を持つ先生の性格たちを、敏感に感じ取っていたのだろう。入れ替わり立ち替わりその先生の隣にはべるのだ。 「なんでお前の隣ばかりなんだ」  周りから文句を言われようと何処どこ吹く風。 「別に頼んでいるわけじゃない」  そう言って酒盃さかづきを干す。 「それは自慢なのかね?」  皮肉や刺し言葉にも動ぜず黙って酒を流し込むさま痛快つうかいで、私もあんな風に言ってみたいと羨ましく思ったりもした。  その日は小春日和こはるびよりのうららかな日曜だったのを覚えている。  初めて絵が売れて、足が地に着かないようなふわふわとした気持ちで歩いていた、その時のことだったから。 「先生?」  思いもかけない場所で出会って驚いた。  たまたま私の絵を買ってくださった方がお医者で、郊外に療養所を建てておられたのだ。ご挨拶に伺ったのだが、そういったことでもなければこんな何もない所に行き来することはないだろう。 「やあ、こんな所へどうしたんだ」 「先生こそ。もしかしてご家族に具合の悪い方が?」  いや、と言ったきり、先生は駅に向かってさっさと歩き出した。  私もその後を追う。  先生もあまり話されるかたではないのだが、私も憧れの方と同行する緊張でしばらくは黙って歩いていた。  と、先生は不意に立ち止まった。  気になるものがあったのだろう。画帳と鉛筆を取り出してさらさらと描いていく。 「先生はいつもこのようなところで写生をなさっているのですか」  思い切って話しかけてみる。 「……この辺りの草木そうもくの生きる様子がいいんだ」  言われて辺りを眺めてみると、確かに景色が生き生きと色づく。 「本当だ。こういう景色もなかなか味があっていいですね」  私の言葉に先生は苦い顔をする。なにか気にさわることを言ってしまったのだろうか。 「いや、ここのことを知られたくないだけだ」  一緒にここで描いてみたい、などと思った心を見透かしたように言われた。  参ったな、先生はおひとりで絵を描きたいのか。そう言われては残念だが引き下がらざるを得ない。 「誰にも言わないでくれるかな。特にあの人たち……」  さらりと二、三人、名前を上げられた。その方々とは仲がいいと聞いたのだが秘密なのか。 「家の者にも言わないでくれるかい。遠出をしたなんて心配をかけたくない。君の胸だけに収めておいてくれ」  もう一度先生は私に口止めをして、ぞくりとするような目を向けてきた。  なぜそんな探るような目をするんだろうか。そんな怖い目をしなくても先生のためなら誰にも言いはしないのに。秘密の共有という愉悦。それは私にとって何にも勝るというのに。 「い、言いません。誰にも」  張りついた喉を湿らせ、やっとのことで小さく言った。  すいと目を逸らした先生はいつもの静かな物腰で、先程の気配はもうどこにもない。  それなのに、 「さて帰ろうか」  柔らかいその声にもなんとなく寒気を感じてしまい、私はもう黙って後ろをついていくだけだった。  そんなことがあってから、しばらくの時が過ぎた。  それは季節の変わり目、気温の差がこたえる頃。私たちは例の行きつけの店から馴染みの芸者の訃報ふほうを受け取った。 「最近、具合がよくないとは聞いていたが。残念だな」 「ああ……亡くなったのか」 「贔屓ひいきの子がいなくなるのは悲しいねえ」  そう言って目を閉じ、誰からともなく皆で焼香しょうこうさせてもらおうということになった。  女将も目をかけていただったからと今日だけは店を閉めている。 「どうか皆さんであの子を送ってくださいな」  通夜つや振る舞いを口にし彼女を語る。  三味線を弾く細い手。儚い顔立ちの、そこだけ紅い唇。勝ち気な口調と、しっとりとあでやかな唄声。物腰ものごしから見える芯の強さ。  語る皆の口からひとりの芸者の姿が浮かぶ。  ふと、描いてみたいと思った。彼女はどこか先生と似ている。  我知らず先生の席へと目が向いた。  いない? どこへ行かれたのだ。喉に小骨が引っかかったように声が止まる。苛々と心が騒ぐ。  私はこらえきれず部屋を出た。 「ありがとうございました」  廊下の先から聞こえてきた女将のささやき声。  それがどことなくつやめいていて心臓が跳ねた。 「いや……」  それに先生が応える。  素っ気ない声にただならぬ気配を感じて、私はそっと廊下の隅に身を隠した。 「先生にお医者を紹介していただいたから、最期の頃はずいぶんと穏やかに過ごせたようなんですよ」 「それは本人とお医者様の力でしょう。僕はなにもしてませんよ」  あっ、と思った。  あの小春日和の郊外での出会いはそういうことだったのか。見舞いにでも行かれた帰りだったのだろう。 「たまには、わたしの感謝も黙って受け取ってくださいな」  先生は、うん、とだけ言ってまた席に戻られたようだった。 「身も心もあのをまるごとさらっていって、わたしにはそれだけなのね。ほんと憎い人」  呟いた女将も、ぱたぱたと戻っていく。  なんだって?  私は頭が真っ白になってその場に立ち尽くした。  ため息まじりに呟かれた女将の言葉を掴みかねる。  だが女将の声音こわねも言葉も、あれは情念おんなだ。  酒のせいか、ちりちりと胸が焼かれる。  酒と今の話で混乱する頭のまま、ふらふらと酒席に戻りかけた。 「きみ」 「……せ、先生」 「家の用事があるから今日はこれで帰るよ。皆によろしく言っておいてくれ」  目が怖い。  もしかして先生は私が聞いていたのを知っているのか。  誰にも言うな、ですね。わかっています、先生。  ああ、でもそれなら…… 「はい。あ、あの……」 「なにかな」  ぶつけられた言葉と視線。それを殺気のようにも感じて私は一気に酔いが醒めた。 「……お気をつけて」  うん、と言って先生は背を向ける。  その姿が見えなくなった途端、べたりとその場に座り込んだ。私は何を言おうとしたのだ。肩を抱いて身を震わせる。  今度はぐらりと酔いが回ってきて、胸に張り詰めていた怯えを吐き出さずにはいられなかった。 「なんだ、どこへ行ってた」 「かわやか?」 「あいつもいないな」  どこへ行ったと文句が出る。 「あ、先生でしたら家の用事で先に帰られるそうです」  酒が入っていることもあって文句はすぐに消え、先生のこともそのままになった。  ほっとして、私はだんだん自分の狼狽ぶりが可笑しく思えてきた。  やはり男女の関係になったなんてことはないさ。そうだ、先生に限ってあり得ない。先生は奥様を大事にされているし……  そう考えて苛々と酒盃をあおる。  ああ、落ち着かない。私の心に湧いてくるこの気持ちはなんなんだろう。  忘れてしまえ。  そうだ、そのほうがいい。こんな気持ちは忘れたほうがいい。  立て続けに流し込む酒の力で、ようやく忘れることができそうだと思った矢先。 「なあに、これ」  芸者のひとりが形見分けにもらったのだという小箱を開けていた。  なんだなんだと皆の注目が集まる。  中には鮮やかなべに。その小箱の中から一緒に入っていた紙を一枚取り出す。  開いてみると花一輪。 「これ、あいつの絵じゃねえか?」 「紅で描いたのか」 「花びらのとこ指で色つけたんですかね」 「……」  私には聞こえる。  場の全員の心が「どういうことだ」と叫んでいる。 「これ借りていってもいいだろうか」  あの先生と、とびきり仲が良い方が軽い調子で言う。 「あら、あたしはべにをもらったんだからそれは差し上げます」  芸者も軽くそれに返す。  その声を遠く聞きながら、私の心はまた混沌へと叩き落とされた。  やはりそういうことだったのか?  それなら今、言ってみたらどうだろう。言ったら先生はどうするだろう。あの澄ました綺麗な顔をぐちゃぐちゃにして謝るだろうか。  黙っていたら、秘密を知っている私をもっと画壇の高みへと押し上げてくれるだろうか。それとも……  後日、先生は皆に囲まれた。 「これに見覚えあるだろう」 「なんですか、それ」 「お前の絵だろう? あの芸者の紅で描いたものらしくてな。形見分けの小箱に入ってたんだそうだ」  先生は大げさなほどのため息を吐き出して顔を上げた。 「まさかとは思いますが僕が芸者といい仲になってそれを描いて渡したってことですか。そもそも僕の絵だっていう証拠はあるんですか。僕らの画風が似てるのは自覚してます? 似せようと思ったら誰でも描けますよ」  それから立て板に水と弁舌べんぜつを振るい他の先生方を論破すると、 「こんな絵があるから、そんな妄想に取り憑かれるんでしょう」  びりびりとそれを破り捨ててしまう。  窓からまき散らされたその紙は赤い花びらのように風に舞った。  先生が何かしたのか、あるいはしなかったのか。本当のところはわからない。  ただ、その端正な顔と肉付きの薄い体が庇護ひご欲をかき立てるのか、それとも素っ気ない態度から知らず溢れる情熱に惹かれるのか、たいそう女性に心を寄せられる人ではあった。

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません