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 朱拠が従兄である朱桓と共に孫権の屋敷の中庭を歩いていると中庭の開けた空間で馬が駆けていた。馬だけでは無論なく、その上には人間が乗っている。まだ若い青年と言っていい男だった。  年の頃で言えば朱桓よりも若いだろう。その青年は胸元を大きくはだけ出しており、服を乱雑に着崩している。どうやら騎射の訓練をやっているようだった。馬の上から目標のカカシめがけて弓矢を放つ。それは見事命中した。なかなかの腕前だ。朱拠が感心していると青年は馬を動かしこちらにやって来た。 「お見事ですね」  朱拠は思わず言った。青年はなんで子供がこんなところに……? という目で朱拠を見る。 「お主たちは朱家の者か?」  青年はそう言う。朱桓が前に出て「いかにも」と頷く。そうすると青年は上機嫌に笑った。 「そうか、そうか! 朱家の人間がついにやって来てくれたか! いやいや、待っていたぞ!」  豪快奔放に笑う青年。この年頃の青年にして、この物言い。もしや……? その思いは朱桓も同じだったようで「失礼ですが……」と朱桓が切り出す。 「貴公は呉郡の長、孫権殿でございますか?」 「いかにも。わしが孫権。虎の血を継ぐ者にしてこの江東の覇者、孫権仲謀だ」  孫権を名乗った青年は笑った。馬上からの挨拶で失礼に当たるのだが、孫権は人当たりの良さを感じさせる笑みを浮かべており、奔放な物言いもあり、あまり失礼という感じはしない。朱桓が挨拶をした。 「これはこれは。貴殿が孫権殿でござったか。私の名は朱桓。字は休穆と申す者。朱家を代表して孫家の下に馳せ参じました」 「うむ。待ちわびておったぞ」  両腕を前に差し出し、右手を丸めて左手で包み込む拱手のポーズを取り、朱桓が名乗る。孫権は満足気に頷いた。そして、孫権は朱拠に視線を移す。 「それで、そちらの若君はどなたかな? まさかその年で我々に与するつもりはないであろう?」 「はっ、この者は私の従弟に当たり、名を朱拠、字は子範と申します。身内自慢と受け取られるかもしれませんが、朱拠は大層優秀で孫権殿にお目通り願えないかと思い、この通り、連れて参りました」 「ほう……朱拠と言うと、朱家に生まれた神童と噂の……」  孫権はそう言うと観察するように朱拠を見る。そんな時、その場に新たな声が響き渡った。 「孫権殿! 朱家の方々がお見えになっておられるのですぞ! そんなところで騎射などやってないでこちらにいらしてください!」  そう言って、屋敷の方から初老の男が息を切らせてやって来る。「面倒なヤツが来た」と孫権は眉根をしかめる。そうして、孫権が既に朱拠たちと出会っているのを見ると初老の男は唖然とした顔になる。 「おお、もうお会いしておいででしたか。朱家の方々、よくおいでになりました。自分は張昭と申す者。孫権殿の補佐をさせていただいております」 「貴公が二張と名高い張昭殿でしたか。私は朱桓と申します」 「朱拠です」  張昭、と言うと孫権のブレインとして有名な孫呉の重鎮だ。この時代、孫権勢力の武官の筆頭が周瑜なら、文官の筆頭は張昭になる。  張温とは同じ張姓だが、張昭は張紘共々、北から戦禍を避けて移住してきたグループの人間であり、呉の四姓と直接の関係はない。虞翻に続き、孫権、そして、張昭。大物が次々と出てくるな、と朱拠が思っていると、張昭は孫権に諫言する。 「孫権殿! 朱家の方々が挨拶に来られたというのに馬上にいるなど失礼ですぞ! すぐに部屋に戻り、正式に名乗り直すのです」 「一度名乗った以上、名乗り直す必要などなかろう。全く。張昭はうるさいな」 「孫権殿のためを思ってのお言葉です!」  そのやり取りだけで後世に記録されている通りの孫権と張昭の関係は伺えた。時には奔放ですらある孫権とそれに対し、遠慮なく直言を言う張昭。孫権は張昭を目の上のたんこぶと感じつつも、その発言の正しさは理解しているのか無下に扱うこともない。孫権は馬から降りると側仕えの人間に馬を預け、「それでは部屋まで行こう」と歩き出した。それに張昭が続き、朱拠と朱桓も続く。  そうして、改めて部屋に通される。部屋には孫権と張昭の他に二人の人間がいた。一人は屈強そうな武人で、もう一人はまだ30代くらいであろう文官らしき男だ。だが、こちらも一筋縄ではいかない凄みを感じさせる。  孫権は部屋の奥に行き、座ることはなく立ったまま、「それでは改めて名乗ろう」と口を開いた。胸元を大きく晒してはだけていた服もしっかり着直している。 「わしの名は孫権。孫仲謀。江東の虎、孫文台、そして、江東の小覇王、孫伯符の血を継ぐ者じゃ」  孫権がそう名乗ると周囲の雰囲気が一段と引き締まった気配がした。孫堅、孫策から受け継いだ勢力をまとめ上げる孫呉の三代目君主。  朱拠が前世で見た資料では場合によっては父と兄の七光と軽んじられることも多い孫権であるが、今、目の前に立つ男からはたしかな覇者の雰囲気が放たれていて、なるほど、後に皇帝にまで上り詰める人物は伊達ではない、ということを感じさせる。朱拠は思わず息が詰まる思いを味わった。 「周泰……字は幼平……」  屈強そうな武人がそう名乗る。孫権の側に控える武人。もしやとは思っていたが、やはりこの男が周泰のようだった。史実に名を残した通り見るからに強そうな雰囲気を発している。それに続きもう一人の文官らしき男が口を開いた。 「俺の名は魯粛子敬。よろしく頼む、朱家の方々」  男がそう名乗ったので朱拠は驚く。この男が魯粛……。  魯粛というと演義における周瑜と諸葛亮の板挟みになり苦悩する冴えない中間管理職のようなイメージを持たれがちではあるが、実際の魯粛は天下を狙う戦略を常に唱え続けた野心溢れる男である。  赤壁の戦い前の降伏か抗戦かと揺れる孫呉において徹底した抗戦論を唱え、孫権を自分は家柄がいいから曹操に降伏しても厚遇されるが孫権はそうはいかない、という脅しで脅してまで抗戦に踏み切らせた男だ。  尚、実際にはその話は魯粛の大いなるハッタリである。曹操は降伏してきた劉表の息子たちを厚遇している。孫権も降伏すれば厚遇されるはずだった。  魯粛という男を語るエピソードはそれだけではなくこの男。漢朝の皇帝が未だ健在だというのに孫権に対し、江南を制し、皇帝を名乗れ、とまで言ってのけたのだ。清流派の張昭などが聞けば憤怒ものではない。大胆不敵な物言いである。  この男が魯粛か。なるほど、たしかに。一筋縄では行かない雰囲気を放っている。孫権に対して一度は名乗った朱拠と朱桓であるが、周泰、魯粛と新たな面子が加わったので改めて名乗り直す。朱拠の名を聞いた魯粛は「ほう」と反応した。 「貴殿が朱家に生まれた神童という朱拠殿か。懐かしいな。俺も子供の頃は魯家に狂児が生まれたなどと言われたものだ」 「……ですが、いかに神童と言えど、この場に連れてくるのはどうかと。この場は朱桓殿が孫権殿の配下になる儀でござろう?」  張昭がもっともな意見を言って、朱桓を睨む。朱桓は少しムッとしたようだが、ひるまずに続ける。 「魯粛殿がおっしゃった通り、朱拠は朱家に生まれた宝です。今はまだ幼いですが、才気に富み、いずれは孫権殿にも仕える身。今の内からお目通りいただきたいと思い無作法は承知で連れて参りました」 「はっはっはっ、よいではないか、張昭。朱家の神童。いずれわしの配下になるというのならその時が楽しみでならん」  孫権は笑って、そんなことを言う。どうやら朱拠を連れて来た礼儀知らずを責める気はないようだった。 「それでは、朱桓殿。ここに来たということは朱家は孫権殿に、孫家に仕える気、と見てよいのだな?」  魯粛が鋭くそう言い放つ。仕える、と強調して言った。実態は協力関係とはいえ、名目上は朱家は孫家の下に付く形になる。それを分かっているな? という確認であった。 「無論です、魯粛殿。我ら朱家一同、孫家に仕えさせていただきたいと思います」 「うむ。歓迎するぞ、朱桓殿!」  孫権は機嫌良さそうに笑う。どうやら朱家が孫家に仕えるというところまではうまく行ったようだな、と朱拠は内心胸を撫で下ろす。  まぁ、史実がそうなのだからそうなって当然なのだが、ここで両家が仲違いなどされては困るところだった。そんなことを思っていると朱拠は視線を感じた。孫権が朱拠を見ている。相手を見定める目だった。本当にこの子供は朱家の神童か。それを視線から感じる。孫権は口を開いた。 「それで朱拠殿。朱家の神童と呼ばれている証をわしは見たい」  孫権はそんなことを言う。朱桓が驚いた顔になるが、張昭、魯粛も朱拠に視線を向けてくる。周泰だけは武人ゆえにそういうことに興味はないのか反応がなかったが。周囲の視線を集める中、朱拠は口を開いた。 「そうですね孫権殿。それでは天下の趨勢について話をしましょう」  朱拠はそうして語りだすのであった。

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