転生したのは朱拠! 三国志孫呉伝・ドマイナー武将の奮闘記
第2話:朱拠の幼少期と小覇王の雄飛と暗殺

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 それからの朱拠の幼少期は江東で暴れまわる孫策の活躍と共にあった。  孫策は史実の通り快進撃を続け、劉繇、厳白虎、王朗と次々に敵を倒していく活躍が朱家にも伝わってきた。幼少の身ではあるが、精神は大人な朱拠には両親や従兄が話す会話からそれを読み取ることができた。  そして、建安2年|(西暦197年)。袁術は史実の通り、皇帝を名乗り、人心を失い、孫策も袁術から離れ、完全な独立勢力と化す。これから先、袁術は呂布共々、曹操・劉備らに散々に打ち破られる未来が待つことになる。そうして、すくすく成長していく朱拠。暇があれば兵法書を読み、勉学に努めた。  朱拠になってしまったことで最初はどうしたものかと思ったものの、考えてみれば呉の四姓の一つであり、将来は孫権の娘も娶れる身、最後の自殺の命令さえなければこの身分も悪くはないかもしれないと思い直したのだ。  勿論、せっかく三国志の、それも呉の武将に転生できたのだ。ただ史実をなぞるだけではなく、願わくば孫呉に天下を取らせることも意識し、自身の向上に努めた。まだ5歳にもなっていない子供が兵法書を読むということに最初は両親も従兄も、世話係のばあやも驚いたものの、徐々にそれが当然のものと見なされたようで皆は、そんな朱拠を褒めこそすれど、叱ることはなく、感心した様子で見ていた。  そして時は建安4年|(西暦199年)。朱拠が数え年で6歳になった時だった。 「朱拠、お前はどうしてそんなに兵法書が好きなんだ?」  17歳も年上の従兄、朱桓は既に数え年で23歳という年齢である。ここまで年の差が離れていては従兄弟というより親子の関係に近い。従兄は仕えるべき主が見つかればすぐにでも仕えたいと言いつつも未だ、その相手には巡り会えていないようだった。  朱拠にはこの先、従兄が孫権に仕え、猛将として活躍する未来を知っているものの、それを話すことはなく従兄の言葉に応じる。まだ孫策が死んでもいないのだ。 「従兄。今、天下は乱れ、泰平の世をもたらす救世主が求められております」 「お前がそれになろうというのか? 随分と大きくでたな」 「男児であればそのくらいの心意気を持っておくものです。江東を平定した孫策殿のように」  孫策。その名前に朱桓は少し眉をしかめた。 「江東の虎の後継者か。たしかに今、呉郡は孫策殿の手にある」 「従兄も孫策殿にお仕えしてはいかがでしょう?」 「しかしな。孫策殿は陸康殿の仇も同然だ。そう簡単に呉郡の主としては認められない」  廬江太守陸康。孫策がまだ袁術の配下にあった頃、袁術の命令で孫策は廬江を攻めた。孫策は見事、廬江を攻め落とし、その心労もあってか陸康は一年後に病没している。 「あの頃は孫策殿も袁術の配下にあったのですから拒否できなかったのでしょう。孫策殿も殺したくて殺した訳ではありません」  朱拠がそう言うとギョッとした目で朱桓は従弟を見る。6歳児にしては喋りすぎたか……朱拠はそう思い、口をつぐんだ。バツの悪い雰囲気が辺りに流れる。「まぁ、いい」と朱桓はそんな空気を払うように言った。 「孫家が本当に呉郡の長として相応しいのであれば、我ら朱家もそれに仕えることにはたしかにお前の言う通り、道理にかなっている」 「孫家なら大丈夫ですよ、従兄」 「だと良いのだがな……」  朱桓はそう言って眉をしかめる。朱家は呉の四姓と名高い江東の豪族だ。ならば江東を支配した孫策は挨拶に来るのが礼儀である。だが、孫策はいつまで経っても呉の四姓のもとを訪れることはなかった。 「孫策殿も挨拶にこんし、向こうがこちらに協力を仰がない以上、協力する義理もない」  朱桓は吐き捨てるようにそう言い切る。そう。孫家は江東を平定したが、その地方の豪族には未だ協力を仰がない。  朱拠の前世の記憶がたしかなら孫家が呉の四姓と協力体勢を取るようになったのは孫権の時代からだ。孫策は呉の豪族の支援を受ける気はないらしい。  これは大胆な孫策と慎重な孫権に明確な姿勢の違いの現れだろう。孫策は文官の登用は張昭や張紘など北からの移住者に頼り、配下の武将は周泰、蒋欽、呂蒙など、自らが見出した叩き上げの武将に頼った。  それに対して孫権の人材登用は叩き上げの人間を武将に取り立てることは引き続き行い、北からの移住者たちも取り込みつつも、積極的に地元の豪族を頼った。  そこが孫策と孫権が決定的に異なる点である。孫権は自らが切り拓いた訳でもない兄から受け継いだだけの呉の主として君臨するに当って積極的に呉の有力者たちの力を頼ったのだ。これは一長一短である。  この孫権の政策の影響で孫呉勢力は孫権が皇帝になる時期までなっても地元の豪族の意見を伺わないといけなわない地元豪族の寄り合い所帯の色が強くなってしまったし、赤壁の戦いでも必要以上に配下の意見を伺わないといけない要因にもなっている。  だが、この時点で孫権がどこまで考えているかは分からないが、孫策死後の孫権は地元豪族と協力する道を選んだ。 「孫家も我々の協力なしに呉を完全に治められるとは思っていないでしょう。今はこずともいずれ協力を仰ぎに来る時が来ますよ、従兄」 「……だといいのだがな」  お前は何故、そんなことが分かるのだ、という目で見られた。少し6歳児にしては喋りすぎたか。朱拠はそう反省したものの、朱桓はそれ以上言うことはなく、朱拠のもとから離れていった。  孫策存命時は彼は孫家の配下ではなかった。彼が孫家に忠誠を誓うようになるのは地元豪族の取り込みを孫権が始めた後になってからだが、その時期はそう遠くないと思えた。そう、孫策が刺客に暗殺される時間もすぐ側に迫ってきている。  孫策は死に、孫呉勢力は空中分解しかけるが、それを周瑜と張昭が止める。武官筆頭と文官筆頭のこの二人が率先して孫策に後継者として使命された孫権に臣下の礼を取ったことで他の武官も文官も孫権に臣下の礼を取るようになるのだ。そうして孫権が呉郡の支配を固める内に呉の四姓を始めとして呉の有力者たちも孫家の協力者としてなっていく。  その中には従兄、朱桓も勿論、含まれている。朱拠は兵法書を読みあさりながら思った。兵法を身につけるのもいいだろう。しかし、この混迷の時代にそれだけでは足りない。もう少し成長したら武芸の訓練も積むことにしよう。  良い武将を目指す者、天下に挑む者、文武両道でなければならない。そう思いながら勉学に励む日々を送っていると翌年、朱拠に大きなニュースが3つ入ってきた。  孫策暗殺、官渡の戦いでの曹操の勝利、そして、朱拠の父親の急死だ。父の急な死に朱家は混乱したものの、既に成人している朱桓の存在もあり混乱は収まっていった。  しかし、その後が大変である。時代は後漢末期・三国時代。この時代、中国を支配しているのは儒の教えだ。儒教の教えによると身内が死んだ場合はその一族の人間は三年間は喪に服することになる。朱桓はこれを守るつもりでいるようだった。そうなれば当然、孫策の後を継いだ孫権の勢力に入ることもできない。  従兄にはなるべく早く孫権勢力に加わって欲しいのだが、と思いつつも朱拠もまた喪に服することになるのだった。  官渡の戦いを制した曹操軍は史実通り、袁紹の息子たちによる跡目争いに漬け込み、袁家を滅亡させるべく動きを始める。一方、孫策を失った孫家も周瑜・張昭という二大巨頭が孫権を支え、孫権も支配地を巡回することで孫家ここにあり! を宣言する。  それでも孫策を失った江東の混乱は大きい。あちこちで山越を始めとする反乱分子たちが反乱を起こし、孫権勢力はしばらくその平定に尽力する羽目になる。  今、孫権の協力ができればいいのに、と歯噛みする朱拠であるがまだ10にも満たない子供、しかも、喪に服しているとなればできることは心の中でエールを送るくらいしかなかった。そうして建安5年|(西暦200年)の時は過ぎていき、時代は建安13年|(西暦208年)の天下分け目の一大決戦、赤壁の戦いに向けて確実に動き出すのであった。

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