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 朱拠が孫権に助言を終えて屋敷から出ようと歩いていると二人の少女と出会った。歳の頃は二人共7歳か8歳くらいだろう。誰だろう、と思っていると二人の少女の内、年長らしき方が口を開いた。 「ちょっと、貴方、誰?」  それはこっちの台詞だ、と思いながらも朱拠は口を開く。 「私の名前は朱拠だ。孫権様に仕える朱桓の従弟である」 「ふぅん。あんた本人はまだ父上に仕えている訳じゃないんだ?」 「父上……というと貴女らは孫権様の……」  朱拠がそう言うと年上の少女の方が口を開いた。 「わたしの名前は孫魯班! この娘が妹の孫魯育よ!」 「孫魯班……!」  朱拠はその名に驚いた。孫魯班。字は大虎。後の歴史家たちにより後漢の何太后、西普の賈南風と並び稀代の悪女として知られている人物である。  孫権の長男、孫登が死去した後の孫権の後継者争い、二宮の変において孫覇派に夫の全琮共々付き、対抗する孫和派の人間に対する讒言を孫権に与えまくり、多くの家臣たちを追放したり、死に追いやった悪女。  それが目の前にいる少女の未来の姿であった。最もこの時点では目の前の少女はそんなことは何もしていない。腹の中にこみ上げる思いをグッと堪えて、もう一人の方の少女を見る。  こちらの少女が孫魯育。字は小虎。後の自分の妻となる少女である。二人共、美少女だな、と朱拠は思った。孫権の長男・孫登はまだ生まれていないはずだ。そして、孫魯班と孫魯育の生年は不肖のはずだったが、やはり孫登より先に生まれていたのか、と思う。 「そうか。孫魯班様、それに孫魯育様。よろしく頼む」  朱拠がそう言うと孫魯班は腕を組み、ふんぞり返り、孫魯育は縮こまりながらも「孫魯育です……よろしく……」と小声で、挨拶をしてくる。  自分の名前は名乗らなければならないという程度の礼儀はこの幼さでも知っているのだろう。朱拠は将来の妻となる少女に微笑み掛けてみた。そうすると孫魯育はカッと赤くなって姉の影に隠れてしまう。 「ふん。まだ父上に仕えてもいない男がわざわざ父上の屋敷に来て何の用よ」 「少し孫権様に助言をしたところだ」  孫魯班は強気に朱拠に言葉を返してくる。一方で孫魯育は姉の影に隠れて、こちらの様子を興味深そうに伺いながらも初対面の男に対する怯えを見せる。  未来の妻のそんな姿に愛らしさを覚える。この娘が将来、自分の妻となるのだな……と思う。見た限り人見知りの激しそうな少女であるが、自分の妻になる頃にはそういった一面も治っているとよいのだが。 「ふんだ。父上に助言って、余計なこと吹き込まないでよ? 父上は今、曹操と戦う大事な時なんだから」  孫魯班があくまで上から目線で朱拠の言葉を浴びせる。お前がそれを言うのか、と朱拠は思った。孫権に讒言を吹き込みまくった孫魯班。お前にだけは言われたくないの思いを胸の中で堪えつつ、朱拠はなんとか笑みを作って「分かっておるよ」と言った。 「安心してほしい。貴女らの父上殿がこの江南の支配者としての地位を盤石なものにするための助言だ」 「ふぅん。アンタ、朱家の神童とか呼ばれているヤツでしょ?」 「恐れ多きながらそれは私のことだな」  こんな幼少の少女が相手をアンタやらヤツやら呼ばわりする。プライドの高い朱桓がそんなことをされれば怒り狂うこと間違い無しのことであったが、朱拠は笑ってやり過ごした。  なるほど。後の悪女だけのことはある。明らかに年上の相手を前にしても全く、遠慮することなくズバズバと言葉を言ってのける。感心しつつ同時に呆れる。まぁ、それを言えば14の身で孫権に今後の戦略上の方針を上納した自分も相当なものか、と思い、目の前の無礼な少女に何も言えなかった。 「神童なんて呼ばれていい気になってんじゃないの? その歳で父上に助言だなんて……」  孫魯班は睨み付けてくる。そんな孫魯班を止めたのは妹の孫魯育だった。 「ダメだよお姉ちゃん。朱拠様に失礼だよ」 「失礼も何も、わたしは当然のことを言っているだけよ。魯育は口を出さないで」 「でも……失礼なものは失礼だよ」  どうやら孫魯育の方には常識が身に付いているようだった。年上の人間を相手にするに当って、当然のことを姉に言ってのける。最も、それを聞き入れる程、我が弱い姉ではないようだったが。 「アンタ、それなりに軍政に詳しいみたいだけど、父上が今、曹操と戦っているのは知っているわよね?」 「ああ、無論だ」 「勝てると思う?」  孫魯班はそう言って、真っ直ぐに朱拠を見た。その言葉に朱拠は少なからず驚きを覚えるも、後に稀代の悪女と言われる少女も、父親が戦に勝てるかどうかの心配くらいはするか、と思い直す。  父と曹操との戦。そのことが孫魯班・孫魯育の姉妹は気になっている様子だった。孫魯育も言う。 「父上は絶対に勝つ、って言っておりました。ですが、本当に父上は勝てるのでしょうか? 曹操軍の戦力は80万と聞きます」 「それに対してこっちの周瑜が率いている軍はせいぜい3万かそこいらでしょう? 本当に勝てるの?」  周瑜と呼び捨てか、と孫魯班の強気に呆れを覚えつつも朱拠は笑みを浮かべて、「ああ、勝てるさ」と告げた。 「曹操軍80万などは曹操の喧伝に過ぎない。実態は20万かそこいらだろう。それも水上の戦いには不慣れな兵士ばかりだ。それに対して周瑜都督の軍は水上での戦いに長けている。そう簡単に曹操軍に長江を越えさせはしないだろう。それに曹操軍には疫病も蔓延して士気も低いと聞く。十分、周瑜都督ならば打ち破れる相手だ」 「そうなんだ……」 「そうですか……」  孫魯班・孫魯育の姉妹はあからさまに安堵した様子を見せる。この二人の年齢を考えれば、戦のことなど語って聞かせる者などいなかったであろうから朱拠から話を聞けたのはこの二人にとっても嬉しい偶然だろう。朱拠は二人を安心させるように続ける。 「大丈夫。貴女らの父上殿は勝てるさ。そして、天下に勇躍するんだ」  朱拠の言葉に孫魯班は笑みを浮かべた。 「そうよね! 父上は虎の血を引いてる者! ここで曹操軍をぶちのめして一気に天下に飛躍する時よね!」 「父上なら大丈夫なんですね……」  孫魯班は強気に言い切り、孫魯育も姉ほど強気ではなかったが、安堵した様子を見せる。孫魯班は朱拠を見て、言った。 「アンタ、年は若いみたいだけどなかなかの慧眼の持ち主じゃない。見直したわよ」  年が若いと言っても今の君よりはよっぽど年上なんだけどな……と朱拠は苦笑いする思いを覚える。 「まぁ、アンタが父上に仕えるのなら今度会うこともあるでしょうけど、よろしくね」 「朱拠様よろしくお願いします」  孫魯班・孫魯育の姉妹がそう言い、朱拠も頷く。そこに「孫魯班様! 孫魯育様!」と二人を呼ぶ声。見ると世話係らしき女性が慌てて、こちらに駆け寄ってきているところだった。 「お二人とも、勝手に出歩いて!」 「ふんだ。いいじゃない、別に」 「ご、ごめんなさい」  孫魯班は強気に返すが孫魯育は小さくなって謝る。そうして世話係の女性は朱拠の方を見た。 「お二人の面倒を見てもらって申し訳ありません!」 「いえ、構いませんよ。孫権様のご息女とあれば、今後もお会いすることもあるでしょうし、こうして初対面を済ませれたのも光栄です」 「ふん。少しは自分の立場が分かっているみたいじゃない」 「孫魯班様!」  孫魯班が腕を組んで言うと、世話係が声を荒らげる。別にそれを気にする朱拠ではなかったが、世話係は慌てて、重ねて頭を下げて、二人を連れてどこかへと去って行った。 「それじゃあね」 「朱拠様。それではこれで失礼します」  孫魯班と孫魯育はそう挨拶して、去って行く。それにしても孫魯班と孫魯育か。  自分で口にしたことではあるが、将来、会うことも多いであろう二人だ。孫魯班はこの歳から後の悪女として傍若無人に振る舞う片鱗を見せていたのだな、と思う一方、気の弱そうな孫魯育のことも気になる。  史実の通りであれば孫魯育は自分の妻になるはずの女性だ。気の弱い少女の姿を脳裏に思い起こしながら、とりあえず美人にはなるだろうな、と思う。  それは孫魯班にしても同じだ。二人共、美人に成長することだろう。将来の悪女と、将来の妻。次に会う時があればどんな会話をすることやら、と思いながら、朱拠は孫権の屋敷を後にするのであった。

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