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 朱家に神童が生まれた。その噂は朱拠が成長するに従い、徐々にささやかれ出したことだった。  朱家の神童、まだ6歳にも満たない内から書物を読み解き、文書を書き、8歳にもなると乗馬を覚え、騎射も得意としている。天下の趨勢に詳しく、官渡の戦いの後の曹操の行動を読み取り、地元、呉郡での孫権の行動をも読み取り、的確な予想を次々に的中させている。これを神童と呼ばずになんと呼ぶか。そんな噂が呉郡の間に広まりつつあった。  建安8年|(西暦203年)。朱拠は自分がそんな風に言われていることを知りつつ、まぁ、当たり前だよな、と思った。  天下の趨勢を読み取るというのも自分には未来の知識が三国志の知識があるのだ。どのように天下が動き、誰がどう行動するかを当てることなど簡単すぎることだった。  武勇に関しては朱拠が自らの努力で身に付けたものである。曹操の息子の曹丕は朱拠のように前世の記憶もないのに6歳で書物を読み解き文書を書き、8歳で騎射を得意としたというのだから、前世の記憶がある朱拠としてはこれに負ける訳にはいかなかった。7歳になった折に乗馬の練習を始め、曹丕同様、8歳には騎射すら可能とするだけの腕前を身に付けていた。  他、剣術や槍術の稽古も受け、これも朱拠には才能があったのだろう。元々、朱拠という武将は本来の歴史においても武芸には長けていたと言われる武将だ。「今の」朱拠も苦もなく武芸を身に付けることができた。  そして、暇さえあれば兵法書を読み解き、兵法を身に付ける。未来の知識を持っている朱拠からすればこの時代の兵法などと……と最初は軽んじていたものだが、なかなかどうして、孫子の兵法書などはためになることが沢山あった。それだけに朱家の力で集められた書物の類を片っ端から読み解き、頭に入れる。そんな行動も朱拠が神童と噂される元となった。  そうして、今日も今日とて武芸の訓練を終え、屋敷に戻り、兵法書を読んでいると従兄の朱桓が朱拠の下を訪れた。朱拠の父の喪も明けた今、朱桓は孫権の下に仕官しようと考えているのだと言う。  これを朱拠は大いに喜んだ。朱桓が孫権に仕えるのは歴史に記録されていることとはいえ、そうだろうと思っているのと、実際に本人の口から言われるのでは大きく違う。この後、朱桓は若き猛将としての頭角を現し、孫権の下の有力武将の一人となり、呉の四姓、朱家も孫家と協力体制になり呉郡を治めていくことになる。  既に他の四姓、顧家、張家、陸家が孫家と協調体制に入っているとの情報は朱拠とて耳にしている。これで呉の四姓全てが孫家を主として仰ぎ、共に呉郡を治めていくことになる。  後に待つであろう赤壁の戦いや呉王朝の建国を前にしても、それは必要なことだと言えた。だが、朱拠にとって少し計算違いというか、予測できない事態もあった。  朱桓は孫権の下に目通りする際、朱拠も連れて行くと言ったのだ。成人している朱桓はともかく、自分はまだ9歳の子供である。そんな子供を連れて行くなど例がないことだが、朱桓は朱家の宝と言われる朱拠を孫権にも紹介するつもりのようだった。  最初は渋った朱拠だったが、後の自分の主、孫権と早めに対面し、信頼関係を築いておくのも悪くはないか、と思い、それを了承した。  それからしばらくの後、朱拠は朱桓に連れられて孫権がいるという豫章を訪れていた。屋敷の門番に朱家の者である、と朱桓は告げ、恐縮した様子の門番に案内され宮殿の中に入る。  そうして、歩いていると一人の男と出会った。30代から40代であろうか? 中年と言っていい年代の男だったが、中年と言い切るのもこの男にはふさわしくない気がした。眼光は鋭く、その顔たちには瑞々しさがある。  男の中にある才気があふれ出ているような風貌の男だった。男は朱桓と朱拠を見ると、口を開いた。 「ここは孫権様の屋敷だぞ? このような子供を連れて貴公は何の用だ?」  無礼な物言いに朱桓がムッと顔を歪める。朱拠も最初は得体の知れない自分たちを警戒しての言葉かと思った。しかし、それがこの男の素の一面であるとすぐに気付かされることになった。 「今や孫権様は揚州の覇者。取り入りたい者が次々に来ている。孫権様は大層忙しい。大した用事がないのなら早急に引き返すがよかろう」  そんなことを男は言う。もしや、と朱拠はこの男の名に心当たりがあった。 「随分と無礼な男だな。名はなんという?」 「他人に名を訊ねるのに自分は名乗らないとは礼儀がなっていない男だ」 「ぐ……」  朱桓が爆発一歩手前といった感じで歯噛みする。「従兄、堪えて下さい」と朱拠は声をかけ、朱桓はなんとか怒りを収めたようだった。 「我が名は朱桓。字は休穆」 「ほう……朱桓と言うとあの呉の四姓の一人の……」 「さあ、名乗ったぞ。貴公も名乗ると良い」  男は自ら名乗った朱桓を観察するように見てその末に自身も名乗った。 「私の名は虞翻。字は仲翔だ。孫権様に仕える臣下の一人だ」  やはりそうか、と朱拠は思った。虞翻。才気溢れる優秀な文官であり、将兵を率いる手腕も持っている呉でも有数の賢人と称えられる男の名だ。  しかし、この男には欠点がある。人を人と思わず、兎にも角にも口が悪いのだ。口を開けば出て来るのは皮肉か罵倒。それは主君である孫権に対しても向けられるくらいなのだから、今のように初めて目にする相手を前にしては皮肉にブレーキなどかかるはずがない。むしろ、おとなしい方であると言えるだろう。 「貴殿が虞翻殿か。お噂はかねがね……」 「ふん。どうせロクな噂ではないのだろう。そのような噂に振り回されているようでは朱家も程度が知れるな」  徹底して皮肉を貫く虞翻に、朱桓が何も言えず黙り込む。必至で怒りを堪えていることが伺えた。朱拠はハラハラしながら、そんな二人のやり取りを見守る。 「孫権様が揚州の覇者になられて、呉の四姓は孫権様の下に擦り寄ってきた。一番遅かったのは貴公ら朱家の人間だな。周りが孫権様になびいたから自身も急いで行かないと、と焦ったか? だとすれば愚かなことだな。孫権様に忠臣と認められたいのであれば、もっと早くに来るべきだった」 「貴様……!」  朱桓が今にも爆発しかけているのを見て、朱拠は「従兄! 抑えて下さい!」と叫び、前に出た。そして、朱桓に代わり、虞翻と向き合う。 「虞翻殿、自分は朱拠と申す者であります! 字は子範です」 「朱拠……朱家に生まれた神童……などと言われている者か」 「恐れ多きながら、自分はたしかにそのように言われております」  虞翻の冷たい視線に構わず朱拠はそう返す。 「孫権様の下に馳せ参じるのが大いに遅れましたこと、私がお詫び致します。ですが、我々朱家としても孫権様、孫家の方々が本当に呉郡の支配者として相応しい人間か、見極める義務もありました。我らは呉の四姓。呉郡の中でも特に影響力の強い人間です。そのような人間が軽々と臣下に収まるようではならないのです」 「だが、他の四姓。張家の張温殿や顧家の顧雍殿、陸家の陸遜殿は早々と孫権様の下に馳せ参じたぞ?」 「同じ四姓と言えども、我らには我らの目で相手を主と仰ぐに相応しいかを見定める必要があります。それこそ、他の者たちが認めたから我々も主として認める、というのでは虞翻殿がおっしゃった通り、愚かな者に他ならないのではないでしょうか?」  虞翻は内心で舌を巻いていた。この朱拠という子供。見た限り、まだ10歳にもなっていないだろう。その子供が自分を相手にこれだけの答弁を振るうことができるとは……。虞翻は感心し、謝罪を言葉を述べた。 「なるほど、よく分かった。貴公らに対して無礼であった。謝罪する」  謝罪する、と言っているのに頭を下げる様子はない。まぁ、それが虞翻という人間か、と朱拠は思った。朱桓は得意げだ。 「朱家に生まれたという神童……所詮は噂と思っていたがどうやら事実のようだな」 「いえ、琥珀は腐ったゴミを吸わず、磁石は曲がった針を吸い付けないと言います。ここで我々と虞翻殿が出会えたのも虞翻殿の優秀さの現れでしょう」  その言葉に虞翻は目を丸くする。「琥珀は腐芥を取らず」という故事成語だ。虞翻が子供の頃に使ったというエピソードが残っている言葉だ。  その時は自分に挨拶に来なかった相手を皮肉るために使った言葉だが、今回、このように使うと虞翻もゴミなどではない優秀な傑物で、それゆえに我々は今日、巡り会えたのだろうという意味になる。虞翻は少し考え込んだ仕草の後、「なるほど」と頷く。 「朱拠殿は朱桓殿の従弟であったな。今回、孫権様に仕えるのは朱桓殿だけだが……これは先が楽しみな子供だ」  ひねくれ者の虞翻がここまで素直に他人を褒めるのは珍しい。従弟を褒められて先程までの怒りも収まったのか朱桓は上機嫌に「朱拠は優秀な従弟です」と笑う。 「朱桓殿にも先程は失礼申した。これから先、共に孫権様に仕える身として仲良くしてくれるとありがたい」 「無論です。虞翻殿。こちらも無礼を働き、失礼申した」  そう言い、虞翻と別れ、屋敷の中庭を進む。孫権が待っているのはこの先だった。

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