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 建安8年|(西暦203年)。孫策の死から三年、官渡の戦いから三年、朱拠の父の死から三年。曹操と天下を巡って争った袁紹が病没した次の年である。朱桓は自宅の屋敷に戻ると朱拠が側にいないことを確認し、妻に声をかけた。 「朱拠は少し賢すぎるな」  ハタから聞けば単なる従弟溺愛の身内自慢が、と思われかねない言葉ではあるが、朱桓の妻も朱拠の年齢に似合わぬ聡明さは聞き及んでいたので慎重に頷いた。  朱拠は年を重ねるに従って幼さに似合わぬ叡智の片鱗を見せ始め、呉郡では早くも朱家に神童が生まれた、ともっぱらの噂になっている。 「朱拠ぼっちゃまは聡明でいらっしゃいますね」 「聡明すぎる。三年前、官渡の戦いで曹操が勝利した後、曹操が南下を掛けてくるのでは……と心配した俺にあいつなんて言ったと思う?」  朱桓はそう言って妻を見る。妻はなんと返せばいいのか、沈黙を返す。やがて朱桓は続けた。 「官渡の戦いに大勝しても袁家の勢力は未だ健在。曹操と言えど完全に討ち滅ぼすには七年はかかるだろう……と言ったんだぞ? まだ6歳の子供が、だぞ?」  そして、その朱拠の言葉通り、曹操は袁家の勢力を討ち滅ぼすのに苦戦している。袁紹が没したと聞くし、聞いた話によれば袁紹の息子たちは跡目争いをして分裂していると聞く。おそらく曹操はそこに漬け込み、袁家を滅ぼすだろう……とこれもつい先日、朱拠が言った言葉だ。9歳の子供の言う言葉ではない。 「それにあいつの言う通り、孫策の跡を継いだ孫権は我が朱家に協力を持ちかけてきただろう? 孫家はいずれ我々を頼る。これもあいつの言った通りの事態だ」  孫策が暗殺され、その跡を継いだ孫権は早々と朱家に協力のアプローチをかけてきた。生憎、朱家も父を亡くした立場だ。今は喪に服している。すぐには応じられないと返すと、ならば喪が明けてから再度、協力を仰ぎに伺う、と使者は言った。  朱拠の父の死から三年だ。今年には喪が明けている。遠からず、孫権は朱家に再び、協力を仰ぎに来るだろう。 「孫家と協力なさるのですか?」  朱桓の妻が朱桓に問い掛ける。朱桓は悩んだそぶりを見せた。 「正直な話、迷っている。だが、我々の他の呉の四姓、顧家、張家、陸家は孫呉政権に既に喰い込んでいる。陸家は聡明と言われる陸遜殿が孫権に対して臣下の礼を取ったという話だ」  陸家と孫家の間には対立があった。陸家の陸康を孫家の孫策は袁術配下時代、袁術の命令とはいえ、殺したも同然なのだ。そのことであった孫家と陸家のしがらみも陸績と陸遜が孫権の臣下になることで解消されたと言えるだろう。  既に他の呉の四姓たちは孫家に協力する意向を示している。となれば朱家としても孫家を軽んじることなどできなかった。 「朱拠ぼっちゃまはそのことに関してはなんと?」  訊ねながら朱桓の妻は朱桓の杯に酒を注ぐ。朱桓は答えようか、答えまいか、少し逡巡した挙句、言った。 「孫権に、呉に全面的に協力しよう、と言ったよ。孫権は今は呉郡の主にして揚州の覇者だ。その孫権と協力関係を築くことは朱家の将来のためにもなる、とな……。臣下の礼を取って仕えよう、と」 「なるほど。旦那様はそのお言葉を信用なさるおつもりで……」 「最初は孫家風情に頭を下げられるか! と激怒したが……後になって冷静に考えてみれば朱拠の言っている言葉の方が正しい気がしてくる。孫家は呉郡で多発した反乱の鎮圧に手一杯のようだが、それでも確実に反乱を潰し、基盤を作り上げている。今年には孫家の大殿、孫堅の仇である黄祖の討伐にも軍を出したと聞く。そこに与するのは決して悪いことではないと……朱拠の言う通りだと思っている……」  朱桓はそう言うと注がれた酒を一気に飲み干した。激しい気性で知られた朱桓である。孫家に与するべきという朱拠の言葉に対して最初は激怒して返してしまったのも当然のことであろう。  しかし、情勢はたしかに孫家に所属する方が良いと告げいてる。孫家風情が、という思いは未だ、朱桓の中にある。だが、その孫家は確かに呉郡の、揚州の覇者としての立場を少しずつ確実なものにしている。  高名な名士である周瑜が孫家に忠臣として仕え、その持てる力の全てを振るって孫家の呉郡の支配を盤石なものにしようとしているとも聞く。今ここで孫家に歯向かって反逆者として討伐されたり、中立を保っているよりは、相手が来るのを待つのではなく、こちらから臣下の礼をしに行った方がいいとさえ思えてくる。こちらから顔を出すべきだ、というのも朱拠のアドバイスだった。 「朱拠の言う通り……か」  その時はやはり激怒した朱桓であるが、徐々に従弟の先見の明を認めざるを得ない。孫権は父の仇である黄祖の討伐に軍を向けた後、山越の反乱が活発になったため豫章に戻っていると聞く。  ならば、豫章にこちらから出向くべきか……しかし、朱桓にもプライドがあった。なかなか認められないでいると、朱桓は杯を置き、立ち上がる。 「どちらへ?」 「朱拠のところだ。あいつの意見も訊いてくる」  それが質問ではなく、ほとんど確認に近い行為ではあると理解しつつも朱桓が自分の気性をなだめるのには必要な儀式だった。朱桓は朱拠の部屋を訪れた。 「これは従兄、僕に何か用ですか?」  部屋で朱拠は兵法書を読んでいたようだ。相変わらず9歳の子供とはとても思えない立ち振舞いの従弟に内心、気後れするものを覚えながら、朱桓は言った。 「貴公の父上の喪も明けた」 「そうですね」 「お前の言う通り、孫呉に仕えようかと思う」  そう言うと朱拠は表情を輝かせた。 「それはよい判断だと思います。今や孫権殿は幕府も開かれ、将軍に任命された身。今、孫権殿のもとに行けば従兄は厚遇されることは間違いないでしょう」 「そうか。そのことで訊きたいのだが……」  朱桓は深刻な表情で言う。その表情に朱拠も喜びを一旦、消し、真面目な表情で頷く。 「やはり孫権のもとへの仕官はこちらから向かうべきだろうか?」  朱桓の言葉に朱拠は少し考え込み、その末に言った。 「そうですね。孫権殿に我々の意思を誤解なく伝えるためにはあちらから使者が来るのを待つのではなく、こちらから向かうべきでしょう」 「やはりそうか。分かった。悩んでいたがお前のその言葉で決断がついた」 「そんな……僕なんかの言葉で……」  朱拠は謙遜して見せる。そんな朱拠に朱桓は言葉を続けた。 「仕官の折にはお前も連れて行こうと思う」  これには朱拠は驚いた。朱拠はまだ9歳の子供だ。20を超えている従兄ならともかく、朱拠のような子供が仕官の場に行くなど前代未聞だ。驚いている朱拠に朱桓は続ける。 「お前は朱家が生んだ宝だ。才気煥発にして聡明。将来にも大いに期待している。そんな神童を呉の主にも紹介しようというのだ。何も驚くことも遠慮することもない」 「そうですか……分かりました、従兄」  朱桓の言葉に朱拠も頷いた。朱桓は早速手続きの準備に入ろうとした。 「孫権のもとへ行くのは早い方がいいな。いや孫権殿……殿、とこれからは呼ぶようにしなければな」 「はい従兄。ですが、最初は下手に出るのが吉かと。その方が孫権殿も我々朱家を頼ってくれるようになるでしょう。孫権殿は今は領内で勃発している山越の反乱にかかりきりです。その対処も任されると考えていいかと」 「うむ、分かった。異民族の討伐も漢民族の人間としては望むところだ。それにしても、お前の意見はいつも的を射ているな」 「そんな……褒められる程のことではありませんよ」  朱桓の言葉に朱拠は照れ臭そうにする。これで朱桓の腹は決まった。朱桓が朱拠を連れて孫権のもとに目通りするのはそれから日があまり開かない内のことになった。

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