JR久留米駅を降り、エスカレーターでバス停まで降りる。バスに乗り込む前に近くのケンタッキーに寄り、和風チキンカツサンドを一つ腹に入れて店を出た。道端ではギターを担いだ青年が何とも分からぬ曲を奏で、それに耳を傾ける者もいない。 バスに揺られながら、私は目を瞑った。昨夜はまともに眠れず、お腹が満たされ、なおかつ朝から移動を続けただけあって睡眠欲は限界を迎えていた。瞼の裏に映る光景は夢だったが、今朝の追体験でもあった。 「休みたい?馬鹿じゃないの」 電話で急に休みを取りたいなどと連絡するとは何事だ、とにかく会社に来いと上司に怒鳴られ、そんな余裕などないがしかし少しでも早く実家へ戻るためには波風立てないのが一番だと判断した私は、いつもより一時間早く会社に顔を出した。出社していたのは上司と不川、それに社長の三人だけ。 上司はいつもの調子で怒りに任せた物言いを続ける。 「大体さ、派遣のくせに休みが欲しいとか調子乗り過ぎ。土日があるだけありがたいんだよ?他所よりはるかに優しい扱いしてるって分かんない?つか当日に言うのもどうなの」 「家族が、危ないかもしれないんです」 「だーかーら!君の家の事情なんか知ったこっちゃないっての!誰か死んだ?生きてりゃいつか死ぬさ、そんなことでいちいち仕事止めてらんないの。ほんっと、社会を分かってないよね。ちゃんと頭使って喋れよ。そういうの何ていうか知ってる?脳死だよ脳死、ゆとりはこれだから」 事態が事態だけに、私も頭に血が上る。いいさ、私だってこれ以上パワハラ上司の下で働くのは願い下げだ。そう食ってかかろうとした時、不川が私達の間に割り込んだ。 何、と怒鳴る上司には目もくれず、不川は私の手から休暇願を受け取り、そのまま社長室へと向かった。部屋に入ってしばらく、徐に出てきた彼は私にピースサインを向ける。 「今日明日明後日と計三日、休んでいいって。社長の許可は下りた、派遣元にも話しておく」 「不川君、君勝手に」 「勝手に、じゃないです」 顔を真っ赤にして怒り心頭な上司に対し、彼は恐れず歩み寄る。 「たかが一年ちょっと働いただけの新人が、他人の進捗状況なんて把握してるわけがないと思ってました?あなたが何でも前倒しにしたがるから、彼女は納期がずっと先の仕事を残業してまでやらされている。どうせ昇進のためでしょうけど。普段の粗暴な振る舞いも含め、あなたの勤務態度は前々から社長に進言してあったんですよ」 上司は身を竦め、もごもごと言い訳を始める。黒田さんのためを思ってとか何とか。不川は更に上司を追い詰め、椅子に座らせる。自分より立場が上の者を、今まで見せたことのない威圧感でもって見下ろし、ふと私に目線をやるとウィンクしてみせた。 ――以上が、休暇を取るまでの騒動である。それからすぐに空港へと向かい、空を飛んでバスに乗って、いよいよ目的地に辿り着く。 降りたバス停から徒歩五分、何の変哲もない一軒家がそこにはある。駐車場にbBが一台、何も生えていない花壇と何も入っていない駐輪場。まだ私や智が小さい頃は二人の自転車がそこにあったし、花壇には雑草や学校の授業で種を貰って育てたホウセンカ、マリーゴールドが伸びていた。ただそれも私が大学生になる頃にはすっかり枯れ切って、自転車も錆びて捨ててしまった。 三年ぶりの我が家は以前と変わらず、私は今抱えている疑問が全て何かの間違いであったのではないか、という錯覚に襲われた。でもそんなわけがない。智を介して紛れもない古場の声を聴いた、そこには隠されたメッセージがあった。私の思い違いや早とちりで片づけるには、謎が残り過ぎている。 意を決し、私はドアノブに手をかけた。鍵はかかっておらず、そのまま踏み入って玄関を覗く。すぐ右手の棚には家族の写真が飾ってあって、しかし電気がついていないせいで父の、母の、私や智の顔が不気味に見える。 「お父さん、お母さん。帰ったよ。智、いるんでしょ?」 夕刻。父母の帰りは早い、智も確か帰宅部だったはず――それなのに、人の気配が感じられない。 代わりに、家に足を踏み入れた時からぞわぞわと全身の皮膚を撫でる感覚。霊感というやつなのか、それともシックスセンスか。どちらにせよ、良くないものに近づいている気がする。 一階のリビングには明らかに生活感が欠如していた。食器乾燥機には皿が一枚も入っていない。コンロは埃を被っている。冷蔵庫などは電源がついておらず、中身も空っぽだった。 「お姉ちゃん」 私はその場で飛び上がる。智の声が、電話越しに散々聞いた彼女の声が二階から響き渡る。 「おかえり、本当に帰って来るとは思わなかったな。三年も戻ってこないんだもん」 「お父さんとお母さんは」 「お姉ちゃんさ、あたしと違って頭良いよね。だったらもう分かってるんじゃない?」 「いつ?」 「一年半くらい前かな。邪魔になってつい」 恐怖心が憎悪に取って代わる。邪魔になってつい、などという物言いが気に食わず、私は足音を鳴らして階段を上り、彼女の部屋に怒鳴り込む。 「智!あんた、」 言葉は途切れ、目前の光景にただ目を奪われる。ごくりと飲み込んだ唾が、異常なまでの冷たさを伴って喉を伝う。 それは部屋と呼んでいいのか、赤と黒のマーブル色の肉片が壁に床に天井に張りつき、その隙間を血管が縫い結んでいる。どくん、と部屋全体が脈打ち、その鼓動は私が踏み込んでから段々と速さを増していった。 部屋の中心に浮かぶ二つの眼球が、ぎょろりと私を見据えた。 「綺麗になったね、お姉ちゃん。うん、大人の女性って感じ。前のボーイッシュな恰好も好きだったけど、今もすごく素敵」 「――智」 分かるんだ、と彼女は笑う。どこでどう声を発しているのかは不明だが、とにかく彼女は滑稽そうに笑う。 「何がどうして、そうなったの」 人じゃない。古場が出張ったのはそういうわけだ。彼女はもう、人間ではない何かになってしまっていた。 「行方不明になった人って」 「あたしが殺した。お姉ちゃんには『彼氏』ってことで逐一報告してたけど」 「何で!?どうしてそんな、智!!」 妹が文字通りの人でなしと成り果てていた。そんな現実離れした真実より、何より、私は彼女が人を殺したという事実を受け入れられなかった。行方不明者約三十名、それに父母、そして古場。皆が、彼女に殺された。 私は涙をこらえられなかった――信じたくなかった。 ここまでの道中、考えなかったわけじゃない。流石に人間を辞めていたのは想像だにしなかったが、彼女が失踪事件に関わっているという可能性。古場も私との会話からその可能性に行き当たり、そして実家を訪れたのだろう。あるいは彼は既に知っていたのかも――父と母、智すら行方不明者に含まれていたのかもしれない。それなのに両親が、妹が実家にいると言い張った私の矛盾に、事件の手掛かりに辿り着いてしまった。 泣きじゃくる私に対し、智は少し困ったように告げる。 「お姉ちゃんが、恋しかったんだ」 ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯ 三年前。お姉ちゃんが大学を卒業して、就職先も決まって家を出た日。覚えてる? 「――――」 あたしはまだ中学生。自分で住む場所も決められない、自立してないただの子供。だからお姉ちゃんを止める資格も理由も、何も持ってなかった。でも本当は離れたくなかったんだ。 「私は、離れたかった」 そう。だって一緒にいるべきじゃないから。 あたし達は結ばれない。共に生きることは親が、世間が、常識が許さない。だからかな、お姉ちゃんはそれまでうんとあたしを愛してくれた。あたしの想いを汲んでくれた。でもそれが期間限定だって分かってたよ。大体あたし未成年だもんね、夜のことは親にも内緒。 お姉ちゃんは本当に賢かった。それに思い切りも良かった。都会に出れば物理的に会いづらくなる、それがブラック企業ともなればなおさら。お正月も忙しそうにしてたね。 お姉ちゃん、昔話してくれたっけ。同性愛。異性ではなく、同性を好きになる人。お姉ちゃんはそんな自分の有り様を抑えつけて、これまでの愛情もきっぱり切り捨てて、家を出た。本当にすごい。あたしには、真似出来なかったな。 「私の、せい?」 違うよ。あたしはお姉ちゃんみたいになれなかった、ってだけ。お姉ちゃんを見習って、最初は本当に男性とお付き合いしてたんだよ。姉妹揃ってレズビアンだなんて、パパとママが何て言うか――でも違った、あたしは女性が好きとかじゃなくて、お姉ちゃんが好きだった。お姉ちゃんだけが全てだった。お姉ちゃん以外の人と手を繋いだ時、正直吐きそうになった。汚された気がした。殺さなきゃいけないと思った。 あたしの中の寂しさは紛れなかった。誰かそばにいてほしい、でもそれはお姉ちゃんでないと駄目。お姉ちゃんを呼び戻すわけにはいかない、お姉ちゃんにはお姉ちゃんの人生があり、覚悟があってあたしから離れていった。その気持ちを尊重したかった。だからあたしは他の人間で我慢して、我慢が効かなくなったら処分した。その内パパとママにも気づかれた。でも二人がいたところでこの孤独は晴れなかったから、殺すのに躊躇はなかった。 「人の思考じゃない」 うん、あたしは最初から人じゃなかったんだと思うよ。この異形は後からついてきた、本来のあたしに相応しい姿。心は最初から化け物だった。ママは一体何とセックスしてあたしを生んだんだろうね。あはは。 ――ごめん。泣かないで、お姉ちゃん。あたしは最初からこんなのだった。それでもお姉ちゃんは、あたしを愛してくれた。離れた後も仲睦まじい姉妹でいてくれた。週一の電話にもちゃんと出てくれた。それで満足できなかったあたしが悪いんだから。 「私が、もっと早く戻ってきていれば、あんたをちゃんと見ていれば。そもそも、離れるべきじゃなかった」 ――――。 「怖かったんだよ。周りからどう思われるのか、いくら時代がそういうものに配慮してると言っても、本心は違う。どこまで行っても同性愛は異常なこと、生命の営みに反すること。そういう意識を誰も拭えない。私だって、だからそれが怖くて、お父さんやお母さんにも言い出せなくて、私が勝手に智を捨てたんだ!」 お姉ちゃん。 「こんな情けないお姉ちゃんでごめんね、もう離れたりしないから、ずっとここにいるから。絶対放さないから」 嬉しい。あたしも、ずっと一緒にいるよ。 お姉ちゃんの心の中に。 「智?」 だから忘れないで。これから消えるのは桁違いの殺人を犯した、ただの怪物。 あなたの本当の妹、黒田 智はあなたの中で生きている。あなたを、黒田 墨を愛している。 それだけは、変わらない。 「駄目!待って、私も連れて行って!智!!」 ――そうだ。蟹、渡せなくてごめんね。あれ嘘なんだ。 ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯ 智の部屋は三年前に見た様相のまま、肉片も血管も眼球も見当たらなかった。 警察によると、リビングの床下から父と母の遺骨が見つかったという。だが行方不明者、並びに智の遺体は見つからなかった。 私は事情聴取を受けた後、両親を墓に入れ、自分のアパートに戻った。 あれから会社には行っていない。派遣元に退職届を送りつけ、鬼のようにかかってくる電話は全て無視していた。家に引きこもり、布団の中で一日を終える。まともに食事をしても全部吐いてしまったし、見るからに生気が失せていた。 そんな生活を続けること三週間、インターホンが鳴り響いた。出る気力はなかったけれど、何だかよく分からない直感に突き動かされて、チェーンをかけたまま扉を開ける。 会社のロビーで会った、革ジャンの男が立っていた。 「よっ。お元気そうで何より」 「これが元気に見えるなら眼科に行って下さい」 「それだけ言えりゃ十分よ。この間はどうやら世話になったみたいだね。事件解決、お疲れさん」 私は扉を閉める。もう何も聞きたくない。あの事件のことも、話したくない。 そんな私の心境などお構いなしと、扉の向こうから所長は話を続ける。 「あー!最後まで聞いてってよ!黒田ちゃん、会社辞めたんだって?だったらうち来ない?妹さんの一件で古場くんいなくなっちゃったし、人手が足りないんだよね!」 「くたばれ」 「何!?何か言った!?とにかくさ、郵便受けに連絡先入れておくから考えてみてよ!黒田ちゃんみたいな目に遭っている人は他にも大勢いる!そういう人を救えるのは、超常現象を実際に見聞きして理解のある、それでいて観察眼に優れた人!俺は適任だと思うけどな!」 「――うるさい、うるさいうるさいうるさい!」 私は扉越しに怒鳴り散らす。扉に何度も拳を叩きつけ、 「お前に何が分かるって言うんだ!!いいから黙れよ!!」 また涙がこみ上げてきた。智を失い、両親を失い、その原因は自分にあった。他人の心配なんてしていられる状態じゃない。放っておいてくれ。 私は玄関に座り込み、ただひたすらに泣いた。泣くことしか出来なかった。前に進める気がしなかった。 暫しの沈黙の後、所長が呟く。 「起きてしまったことは変えられない。だったら、そこから何かを学び取ればいい。そうすれば全ての事象は肯定される、必要な出来事だったと」 足音が遠ざかっていく。私はまた、独りになった。 ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯ 所長の去り際の言葉に胸打たれたわけではない。それどころかあの偉そうな言い草になんか向かっ腹が立つ。精神状態だってまだ安定しない。精神科で貰った薬は手放せない始末だ。 だが、他の場所で働き始めたら、いつか智を忘れてしまうかもしれない。普通に恋愛して普通に結婚して、そういえばそんなこともあったなと自分を肯定してしまうかもしれない。 あの事件を肯定する気なんてさらさら無い。私は永遠に罪を背負って生きていく。 そのためには、常に超常現象に己の身を晒す必要がある。 おんぼろビルの一室にその『事務所』はあった。灰色の薄汚いカーペットに書類がぎっしり詰まった本棚、レポートだらけの机を整頓していた所長は、私の顔を見るやニヤリと笑みを浮かべる。 「ようこそ、我らが『事務所』へ。前もって話しておいた通り、今日から君には『古場』という偽名で仕事に当たってもらう」 「名前は使い回し?」 「あの事件を忘れたくないんだろ?だったら彼の名前を引き継いでもらおうじゃねえの。じゃあ早速だけど、これ」 所長に渡されたのは古めのノートパソコン。書式はもう入ってるから、と彼は言い、 「君が担当した事件。妹さんが引き起こした失踪事件の全容を報告書にまとめて提出。それが古場ちゃんの最初のお仕事だ」 ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯報告書その1『引き継ぎ』了 (所長の所感:初めての報告書提出、お疲れさん。これからどんどん似たような事件に遭遇すると思うけど、そのたびにレポートは提出してもらうのでヨロシク。あと気のせいかな、俺に対する印象手厳しくない?もっとこう、実際は頼りがいのあるダンディな感じだったでしょ。革ジャンもイカしてて――え、何その顔。ちょっと古場ちゃん??)
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