オッド・レポート~古場職員の報告書~
報告書その1『引き継ぎ・前編』

作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

 ――黒田くろださん。午前に頼んだ書類の修正終わった?あとどれくらい?ああそう、じゃあ今日はそれが終わるまで残ってもらえる?そのペースだとたぶん日付変わるし、オフィス出るの君が最後になるだろうから、終わったら戸締まりして警備室に鍵預けて帰ってね。電気も消し忘れないように。じゃ、ぼくら飲み会あるんでお先に失礼。お疲れ様でした――。 「くたばれ」  と不満が声となって漏れ出たのが午前一時ちょうどのこと。社内にはもう誰も残っておらず、節電のため電灯も最小限に抑えられていてとても薄暗い。出社して八時間、定時から更に八時間、ずっとパソコンとにらめっこをしていたおかげで異様に目が乾く。エナジードリンクとコーヒーを代わる代わる飲んでいたら、カフェインの取り過ぎで気持ち悪くなってしまった。  正社員様は良いよな、と独り言ちる。定時で帰れるし飲み会にも行けるし、手間のかかる仕事は私のような派遣社員に任せればいい。とはいえ派遣というものは、自前で賄いきれない労働力を求めて雇われるものだから仕方ない。それにしても私の上司は最悪だった。特に今日は朝から飲み会のことで頭がいっぱいだったらしく、ろくに働かず煙草休憩ばかり、他所の部署の派遣社員は飲み会に参加できるよう調整してもらっていたのに、私には何もなかった。唯一、いつも怒鳴り散らしているのが上機嫌なおかげで終始ニコニコ笑っていたのは救いか。  金曜の夜に仕上げたってどうせ土日は出勤してこないのだから、持ち帰るなり休日出勤なりさせてくれればいいのに、そこは派遣元が許さない。余計な分は働くな、というのが彼らの言い分であり、おかげさまでこの残業もゼロ円サービスとなっている。上司もそれが分かっているから無茶な量の仕事を押しつけてくる。マクドナルドだってタダで買えるのは笑顔だけだっていうのに、ひどい話だ。  散々心の中で愚痴った所でひと段落つき、私は出来上がった書類の山を上司のデスクにどかんと置いた。早々と荷物をまとめ、自身のデスクに積み上げられたアルミ缶を自販機横のゴミ箱に放り込んでいく。パソコンと照明を落とし、窓の施錠を確認した後オフィスを出た。  巨大なビルの中には私が働く会社とは別に、多くの関連会社が各階で仕事に励んでいる。自社は十三階、エレベーターは必須だ。降りている途中一度六階で止まり、同じく残業に勤しんでいたと思われるスーツ姿の男性が乗り込んできた。夜遅くまでお疲れ様です、と互いに労い合う。こき使われる立場にある者同士のくたびれた優しさがそこにはあった。  一階の警備室に立ち寄ってオフィスの鍵を預けると、裏口からビルを出た。ひゅう、ひゅうと寒波が肌を刺し、コートの隙間から潜り込んで体温を奪っていく。私はネックウォーマーを整え、歩き出した。  土日は休み。その事実に思わず頬が緩む。別に大したことはしないしどうせ家でごろごろするだけなのだが、それが何より嬉しい。仕事にやりがいを感じない類の人間は大抵そういうものだと思う。可能であれば無限にだらけていたい。  こんな夜遅い時間になっても、帰路にあるやよい軒は温かく私を出迎えてくれる。接客は極めて適当だがそれでいい、誰だって頑張りすぎないのが一番だ。  味噌かつ煮定食。遅い夜ご飯だ。閑散とした店内で、一人黙々と味噌かつを頬張るオフィスレディ。なんと哀しい光景だろうか、親が見たら泣くかもしれない――と、そこで私は箸を止め、スマートフォンを取り出した。そういえば妹から連絡が入っていた。 『暇な時電話して!声聞きたい!』  LINEの〆には不細工なウサギが小躍りしているスタンプ。こういうのが若者の間では流行っているのだろうか、と我ながらじじ臭いことを思う。流行には疎い方だ。 ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯  半ば倒れるようにアパートへと帰宅し、そのまま玄関で眠りこけて数時間。起きた時には喉が乾燥してるし鼻水は止まらないしで散々な始末だった。いつもはシャワーで済ませるところをわざわざ湯船にお湯を張り、肩まで浸かって体をほぐす。ほかほかと湯気を上げながらリビングのソファに腰を下ろしたのが正午。貴重な休日の半日が終わってしまった。  電話をかけると呼び出し音が鳴る間もなく、聞き慣れた声が。 「もしもしお姉ちゃん元気?それともお疲れ?」 「お疲れ。切っていい?」 「駄目!お姉ちゃん滅多に電話かけてこないんだもん、もっと姉妹仲良くコミュニケーションしようよ」  はいはい、と雑に流す。確かに私から電話をかけることはないが、妹からの電話は週一くらいのペースでかかってくる、物は言いようだ。  いわゆる社会人になって三年目の私と、まだ高校二年生の妹、とも。二十五歳と十七歳なので年の差は八つ、そこそこ離れているが仲はすこぶる良好だ。最後に顔を合わせたのはそれこそ三年前、大学卒業兼就職祝いに家族で蟹を食べに行ったのが最後だ。あそこで一生分の蟹を食べたな、なんて言うと、 「もう食べたくない?」 「いや、また食べたい」 「えへへ、実はパパが会社の人から貰った冷凍の蟹が余ってるんだ。そっち送ろっか?」 「マジ?ありがとう」 「相当な量あるから覚悟してよ」 「余り物の処分ってわけね」  違うよう、と笑いながら否定する智。嘘がつけない性格だ。  父も母もそれなりにいい歳になった、胃袋も同じく嘘をつけない。最後に会った三年前の時点で、昔と比べて見るからに食べる量が減っていた。本人達は子供にたくさん食べて欲しいからと自分の蟹を分けてくれたが、私もそういう機微に気づける年齢になってしまったのだ。これが大人になるってことなんだ、と無邪気に蟹を頬張る智を見ながらそう思った。 「ねえ、お姉ちゃん」 「何?お小遣いならあげない」 「違うってば。先週さ、話したじゃん」  私は記憶を辿り、彼女が取り上げようとしている話題に思い至る。 「新しい彼氏?一か月続いてるんだよね、智にしては」 「別れちゃった」  私は通話を切ろうとする。智はそれを察してか、 「ごめん!せっかくお姉ちゃんにも色々聞いてもらったのに、でも、何か、その、好きだって伝えても素っ気ないし、本当に向こうはあたしのこと好きなんだろうかって考えちゃったらモヤモヤが止まんなくて、それで」 「それで?」  とても言いづらそうに、叱られている子供のように智は言う。 「追及したら、もうお前とはやってられないって」  私は大きくため息をつく。そうなるだろうとは思っていた。  私と比べてはるかに快活で陽気な彼女はしかし、こと恋愛に関して持ち前の明るさが活かされることは全くなく、言ってよければ愛が重かった。浮気はしてないか、他の女に、下手すれば男に気移りしてはいないかと始終疑い、嫌になるくらい問い詰める。  本当に自分が好きなのか。彼女は自身に向けられた愛情を、素直に受け取ることが出来ずにいた。そんなわけで幾度となく破局を繰り返し、まだピチピチの十代でありながら元カレの人数は把握しているだけで三十人にも及ぶ。揃いも揃って一か月以上関係が続いていないというのだから、それでも諦めず恋愛街道を往く智には最早呆れを通り越して笑いがこみ上げてくる。 「もう恋愛向いてないんじゃない?」 「お姉ちゃんには言われたくないんですけど!」 「私はそういうの諦めてるし、一緒に独身ライフ楽しもう。それなら応援する」 「何で諦めるかな?お姉ちゃんを好きな人、案外身近にいるかもよ」  無い無い、と笑いながら言い切ってみせる。智は納得していないのか、ひどく憤慨した様子だ。 「いいもん、あたし諦めないから」 「へえへえ、せいぜい諦めないでもらって――」  ピンポン、とインターホンが鳴る。電話越しにも聞こえたらしく「じゃあまた電話するね」と智は電話を切ってしまった。私は腰を上げ、玄関のドアを開けた。チェーンをかけたまま、わずかに開いた隙間からにゅっと男が顔を出す。 「やや、どうもどうも」  男はぺこりと頭を下げる。スーツの上にロングコート、手に持った分厚いクリアファイルから訪問販売だと判断したわたしは何も言わず扉を閉めようとした。ところが男は足先を扉の隙間に差し込み、閉めさせまいとする。 「何ですか、警察呼びますよ」 「あ、わわっ、違います違います。どうか自分の話を聞いて下さい。ついでに言うと押し売り訪問とか放送局の契約とかでもないので、そんなに警戒しないで」 「だったらこの足どけて」 「どけたらもう開けてくれないでしょ。自分はこういうものです」  隙間から差し出された名刺を見やる。勤め先とその住所、それに名前は『古場こば』。これだけでは何者なのか依然として定かではない。 「何の用ですか」 「黒田 すみさん、でよろしかったですよね。少しお話を伺いたく参りました」  あなたのご実家について。 ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯  古場と名乗ったその男は、およそ信じられないことではあるが、異常現象、心霊現象、超常現象の解決を生業としているらしかった。どう考えたって胡散臭いのだが、まあ少し口をきけばすぐボロを出してやれ水晶だの壺だの売り付けてくるに違いない。と意地悪な気持ちも働き、話をすることにした。念の為、扉のチェーンはかけたままだ。 「自分が働く『事務所』は幽霊とか化け物とか、この世界には『存在しない』とされているものを徹底究明し、その脅威を無力化するために存在します。もちろんお化けなんていない、どうせ口八丁の詐欺紛いに決まってる、と身構えるのは当然のこと。ですがどうか今だけは、そういうものが在る前提で話を聞いて下さい」  失礼、と彼は足を引っ込めた。私も扉を閉めたりせず、彼の言葉に耳を傾ける。 「黒田さんが以前お住まいになっていた久留米市、そのご実家の近くで住民の失踪事件が多発しております。ご存知でしたか?」  私は首を横に振る。そんな話は智から一度だって聞いた覚えがない。身近でそんな事件が起こっていたのなら、お喋り好きな彼女が話題に上げないはずはないのだ。 「『事務所』が受けた報告によれば、ここ数年で約三十名が足取りを消しています。いずれもあなたがいた街で、忽然と消息を絶っている――ええ、ええ、分かります。もちろんこの聞き込みはあなただけではなく、あなたのように故郷を離れて暮らす方々をしらみつぶしに伺っている最中です。何かご存知でないかと」 「直接行って住民に聞き込んで回った方が早いのでは」 「最終的にはそうするつもりです。が、下手に足を踏み入れたが最後、自分も行方知れずになってしまう可能性は捨てられません。事実、捜査に乗り出した警官も行方不明になりました。そこで自分の『事務所』にお鉢が回ってきたのです。これは異常だと」  成る程、と私は頷く。状況は分かった、しかし知らないものは答えようがないし、現在進行形で実家にいる妹からもそれらしい話題は上がらなかった。その話をすると、古場は興味深そうに「妹」と繰り返した。 「妹さんはご実家に?」 「両親と一緒に暮らしています」 「最近、連絡は取られました?」 「あなたが訪ねる直前まで電話してましたよ」  そうですか。古場は納得したように目を瞑り、次いでありがとうございましたと頭を下げた。結局何が聞きたかったのだろうと疑問に思いつつ、彼を見送り扉を閉める。  ――そういえば、少し引っ掛かることがあった。あの古場という男、話を切り出す際に『あなたのご実家について』と言っていた。あなたの生まれ故郷、という言い回しではなく、ピンポイントで私の実家を指していた。  まるでそこが、事件の中心だとでもいうように。 ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯  訳の分からない来客から数日、私はいつも通り会社にいた。まだ火曜日、地獄の平日五日間は始まったばかりだというのに、上司の機嫌は悪い方向に最高潮だった。 「黒田君さあ、言われたことばかりやればいいってわけじゃないんだよ。頭使ってる?脳みそ腐ってんじゃないの?」 「申し訳ございません」 「ったく女ってのは、謝れば許してもらえるんだから人生楽で良いよね。そんなんだからその年で独り身なんじゃないの」  そういう上司は四十後半で独身。この間まで婚活サイトで出会った女性と婚約したとか何とか一人で大騒ぎしてたくせに、自身のDVが原因でご破算になったのは社内の誰もが知っていることだ。聞けば先週の飲み会ではその詳細を詰められて不機嫌になったらしく、途中で帰ってしまったらしい。その憂さ晴らしに昨日からやたらと目の敵にされている。  一時間に及ぶ罵声大会から解放され、自席に戻ったところで隣に座る男性社員から声をかけられた。一年前に入社した不川ふかわという子で、派遣の私と違い立派な正社員だがまだまだ新米、同じような境遇の下働いている。 「大丈夫?今日もまた一段と荒れてたね」 「どうせ婚約破棄の件でしょ。ただの八つ当たり」 「あの人、仕事だけは出来るからそれ以外で滅茶苦茶やってても大目に見てもらえるんだよな。でも性格合わせて結局マイナスって感じ」 「言えてる」  彼は鞄の中からそっと飴玉を差し出し、 「でも社長とかはその辺分かってるから、あの人が今のポジションから上に行くことはない。裏を返せば、黒田さんがここにいる限りはずっとサンドバック状態が続く。あまり酷いようなら、派遣元に言って他所の会社に移してもらった方がいいかも」 「ありがとう。我慢できなくなったらそうしてみる」  私はにこやかに微笑み、その飴を受け取った。  黙々とキーボードを叩き続け、たまにプリンタで書類を印刷し、それを取って自席に戻る。その繰り返しで半日が過ぎ、昼食にランチパックを頬張っている時だった。 「はい、株式会社マグネエンジニアリングです。お疲れ様です」  受付からの電話だ。貴重なお昼休憩に押しかけてくるとは、とんだ礼儀知らずもいたものだ。仕事の話は勤務時間中にする、常識だ。  と、その時、彼の視線がこちらに向いた。 「ええ、分かりました。ではロビーにてお待ち頂きますようご対応をお願いします、すぐに黒田を向かわせます。それでは」  受話器を下ろし、 「黒田さん、古場って人が一階に来てるって。知り合い?」  ぽかんと開いた口が塞がらない。あの怪しげな男が職場まで来ている?何故?  私は謎の焦燥感に駆られ、オフィスを飛び出した。盗み聞ぎしていたのだろう、部外者が会社に来るとは何事かと上司が喚き散らしていたが、無視してエレベーターに乗り込んだ。  一階ロビーに辿り着き、検問前の警備員に一礼する。それからぐるりと周囲を見渡すと、来客用のソファに腰かけ、こちらに手を振る人物があった。  しかし、その男は古場ではなかった。安っぽい皮ジャンを肩にかけ、うっすら生えたあご髭を指で撫でつつ、私が向かいのソファに座るや否や、口を開いた。 「ごめんね、古場くんが君と接触したのは知ってたから、彼の名前を使わせてもらった」 「あなた一体誰なんです?職場まで押しかけて、はっきり言って迷惑なんですけど」  んん、と彼は返答に困ったように項垂れ、 「仰る通りだ。まず自己紹介をすると、俺は古場くんが働いてる『事務所』の所長だ。仕事の性質上、名前は明かせない。彼の仕事内容は、もう聞いているとは思うが」 「超常現象の解決。にわかには信じがたいですが」 「信じる必要はない、知っていることが重要だ。古場くんは君の前に現れ、仕事についても説明した。さてその先なんだが、君、彼に何かした?」  彼の目つきが鋭さを帯びる。何かこちらを非難するようでもあり、私はその意図が分からず声を荒げる。 「何なんですか!いきなり家に来ては地元で人が消えてるだの何だの言って、今度は上の人間が何かしたかと責め立ててくる。そういう詐欺ですか?言っておきますけど私は――」 「古場くんが行方不明になった」  ――黒田さんが以前お住まいになっていた久留米市、そのご実家の近くで住民の失踪事件が多発しております。ご存知でしたか――。  思い出される彼の言葉。そして私は言ってしまった、直接行って住民に聞き込んで回った方が早いのでは、と。次に彼が取った行動は想像に難くない、しかし、それでは。 「古場さんも、巻き込まれた」  所長は私の表情を見るや、ばつが悪そうに眉間を指でかく。念の為の確認だった、君に責任は無いと言って。 「最後に彼と会った人間が君だった、黒田 墨ちゃん。彼が君に聞き込みを行った後、電話があったんだ。真実を確かめに久留米市へ向かうってね。俺は万が一に備えて複数人で取り組んだ方が良い、すぐ応援を手配すると言ったんだが、何だろうね、彼は既に確固たる手がかりを掴んでいたのかもしれない。先んじて確認しておきたい場所があると言って、それきりだ」 ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯  その日の夜、私はどこか鬱屈とした気持ちでアパートへと戻った。午後は十一時、まだ妹は起きているだろうか。彼女ならばあるいは、私が聞けていないだけで、何か知っているかもしれない。そんな期待を込めて、電話をかける。  プルル、と呼び出し音が一度鳴ってすぐ、智の声が聞こえる。 「はいはーい、あなたの愛しの智ちゃんですよ」 「智、今日はちょっと真剣な話がしたいんだけど」  いいよ、という彼女の口調は極めて軽い。私はため息をつき、 「最近さ、そっちで行方不明者が続出してるんだって?」 「んー、そんな話もあったかな。ニュースで見た気がする」 「何でそんな軽いの。智も気をつけてよ、他人事じゃないんだから」 「大丈夫大丈夫。それよりさ、あたしまた新しい彼氏が出来たんだよね」  早すぎだろ、と内心毒吐く。どうせまた一か月ともたないんだろうなと思い、うんざりした顔で彼女の話を聞き流す。 「すっごいスピリチュアルな人でね、なんていうのかな、幽霊とかモンスターとかに詳しいんだって。歳はお姉ちゃんより上みたいなんだけど、それもまた大人の貫禄っていうか」  一瞬、私の脳裏をよぎった人物。いやまさか――だが『彼』はおそらく久留米市に向かったはずで、そこで行方不明になった。 「ねえ、その人の名前ってまさか、古場、じゃないよね?」  背筋に悪寒が走る。こういう時に限って、私の悪い予感は当たる。  智の声が上ずり、どこか照れくさそうに続ける。 「えー!何で知ってるの?もしかしてお姉ちゃんの知り合い?やだどうしよう、運命感じちゃうかも」 「古場さんと、今度はいつ会うの?」 「今いるよ!何々、知り合いだったなら早く教えてよ。代わろうか?」  ――スマホを持つ手が震える。何かが、何かがおかしい。行方不明になったはずの人が私の妹と付き合ってる?こんな夜中に家にいる?何がどうなってるの?  電話の向こう側はしん、と静まり返っている。やがてごそごそと物音が聞こえ、 「黒田さん、ですか」  間違いなく、彼の声だった。  私は慎重に、取り乱さず疑問を伝える。 「あなたの『事務所』の所長が訪ねてきました。古場さんも行方不明になったと。今どこに?」 「ええ、ええ、妹さんの家にお邪魔しています。ああもう、引っ付くんじゃありません」 「無事、ですか?」 「『いいえ』、私の方からアプローチを。ですよね?」  うん、と楽しそうな返事が小さく木霊する。 「あなたは以前、『私の実家について』と言った。久留米市という土地ではなく、実家という言葉を選んだ。そこが、失踪事件の現場なんですか?」 「『はい』、妹さんの聡明さはあなたそっくりです。とても賢く、目の付け所が良い」 「――犯人は」 「自分はもう彼女にメロメロです。それはもう、ハートを射貫かれて『すぐにも死んでしまう』くらいには。今の自分は恋の虜囚として『生かされている』に過ぎません。この恋心は『あなた達の手に負えるものではありません』。もし自分に未練があったとしても、素直に『手を引いて下さい』」  要所要所で、彼が僅かに語気を強めた言葉があった。それらを反芻し、私は彼の置かれた状況を察する。  自分はもうすぐ死ぬ。今は生かされているだけ。私や所長がどうにかできるものではない。だから手を引け。 「もういいでしょ。あたしのお姉ちゃんに浮気しないで」  智、と声を張り上げる。彼女は何故平然としているのか、古場に何をした。湧き出る疑問はしかし、彼女の言葉をもって拒絶される。 「お姉ちゃんもさ、そんなにお話したいなら直接会いに来ればいいじゃん。久々に顔も見たいし」  ぶつっ、と電話の途切れる音。私はもう何が何だか分からず、混乱する頭を抱え、そのまま床に倒れ込んだ。 ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません