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 目を覚ますと、ぼやけた視界の中に薄汚れた天井が映った。少し首を捻れば白いカーテンが掛かっているのが見える。ルカはゆっくりと体を起こした。  その際、ギシッと軋んだ音が響く。柔らかくもあり硬くもあるベッドから鳴ったものだ。  すると、カーテンの向こうから足音が近づいてくる。目覚めたばかり働いていない頭でも、ルカにはその歩くテンポで誰なのかすぐにわかった。  シャッと仕切られていたカーテンが開かれる。そこに立っていたのは、馴染みのある顔だが、馴染みのない服を着た女性であった。 「やあ、気分はどうだい?」  ベッドの脇に立ち、ヴィヴィは医者のように訊ねた。 「まあまあかな。ここはヤノシュさんの家か?」 「そうさ。ここに運ばなければキミは死んでいたかもしれない」  それから彼女は、ルカを助けるためにどれほど尽力したかを語る。  とても恩着せがましい内容であったが、こうして一命を取り留めた事実があるので黙って最後まで耳を貸した。 「感想は?」 「……ありがとうございます」  ぶすっとした顔つきで本心を口にする。  しかし、ルカが泣き喚いてひたすら感謝してくると思っていたヴィヴィは口を尖らせて不満げな表情を見せた。  そこへ、部屋の扉が開かれてひとりの老人が姿を見せる。 「おお、目を覚まされましたか。ご気分はいかがですか?」 「はい、どこも違和感がなく元気です。助けてくださりありがとうございます」  ヤノシュの問いかけに、ルカは礼儀正しく答えて頭を下げた。明らかに自分に見せた態度と違いヴィヴィの不満は募る。 「いえいえ、私は治療に必要な器具やきのこを提供しただけで……。ヴィヴィさんでなければそこまで綺麗に治せなかったでしょう」  その言葉でルカはやっと自分の体を目で確認する。  ドゥドゥとの戦闘の記憶が甦る。確かに胸を大きく斬られたはずだ。だが、その傷口がどこにも見当たらない。  視線を上げると、鼻を高くしているヴィヴィの顔が目に入った。  ルカはため息を吐く。 「……それで、俺の容態はどうなんですか、先生」 「ふむ」  先生と呼ばれて気を良くし、ヴィヴィはそれらしく顎に手を当てる。 「傷の方は見ての通りさ。しかし、キミが不安がっているのは胞子のことだろ? そちらも処置を施した。だから心配することは何ひとつない。……おそらく」 「おそらくって……。処置というのは何をしたんだ?」  小声で付け足された言葉に、患者である少年は眉をひそめた。  その問いにヴィヴィが言い淀んでいると、代わりにヤノシュが答える。 「私の薬とヴィヴィさんの血清を使いました。……実は、お二人が出て行かれた後、ノーラに実験を手伝ってもらったのですよ」 「実験?」 「皮膚に微量の胞子を付着させて反応を見るものです。ああ、もちろん危険がない範囲ですので。――結果、どれもノーラの体を土壌にして発芽することはありませんでした」 「ほう……」  ルカは老人が言わんすることが掴めず首を傾げる。ちらりとヴィヴィの方へ目を向けると、どこか思い詰めたような表情をしていた。 「つまり、ノーラもヴィヴィさんと同じように耐性を持ったのです。私の薬だけでは足りなかった部分を、ヴィヴィさんの血清が補ってくれた、と考えています。ですので、胞子を体内に取り込んでしまったルカさんを救うため、その両方を投与しました」 「なるほど……」  きのこの胞子に侵されていたノーラを、ヴィヴィの血清が救った。だから、同じように侵されてしまったかもしれない自分に使うのは納得できる。しかし、なぜ彼女の表情が曇っているのか、とルカは疑問に思う。 「……ヤノシュ、すまないが水を持ってきてくれないか。ルカに飲ませたい」 「そうですね、気が回らず申し訳ありません。少々汲んで来るのにお時間を頂きます」  普段のルカならヤノシュに面倒を掛けさせたくないと断わっただろう。  だが、そうしなかった。あからさまに人払いをするためにヴィヴィが言った方便だとわかったからだ。  ヤノシュにもそれが伝わったようで、すぐに戻って来れる用事を手間取るように返した。  バタンと扉が閉まり、再び二人だけの空間となる。 「それで、実際のところどうなんだ?」  ヴィヴィが話し出しやすいようにルカが訊ねた。  しばらく彼女はベッドのシーツを見ていた。しわがあるだけで何があるわけでもない。  そして、意を決したのか、ルカと目を合わせると重い口を開く。 「悩んでいることが三つある」 「結構あるな……。一つ目は?」 「先ほどヤノシュが言っていたことだが、おそらくボクの血清だけで事足りていたことだろう。だが、ノーラは薬も使っていた。条件を合わせるためにキミにも薬と血清の両方を使った」 「まあ、おかしくはないわな」 「ここからが本題なんだが……、キミやノーラが人間ではなくなってしまったんじゃないか、と危惧している」 「ん……?」  突拍子ない言葉に、少年らしい顔にしわが寄る。  その反応を予測していたヴィヴィは自分の左手を差し出した。 「これを見てくれ。どう思う?」 「どうって……、綺麗な手だとは思うけど……」  色白でさらりとした肌。それに細く長い指と非の打ち所がない。  だが、そんなことは聞いていないとばかりに彼女はピシャリと言う。 「相変わらずキミは鈍いな。ボクのこの左手がどうなっていたのか思い出せ」 「…………」  褒め損だ、と複雑な心境になりながらも、ルカは問いに対する答えを探す。  確か、蜘蛛の体液、おそらく毒によって感覚が無くなったと言っていた。それでも弓を引いたりとしていたが、 「あっ、傷がない」  ブルゴーが油断した隙を突いて触手を飛ばしてきた。自分を守るためにヴィヴィは左手を盾にしてくれたのだ。思い出したルカは改めて華奢な手を見る。 「でも、お前もここで治療したんだろ? 俺の胸に傷跡がないぐらいだし特段おかしなことじゃない」  あっけらかんとする少年に、なにもわかっていないな、とヴィヴィは首を振った。それに少しムッとした顔を見せる。 「じゃあ、どういうことだよ」 「キミが眠っていたと言っても精々丸一日だ。人の体に穴が開いてそうそう治るものか。……メルを守った時の傷もそうだ。いくら浅くても治るのが早すぎた」  ケレットでブルゴーを撃退した後、触手に背中を刺された傷は平気だ、と彼女は言っていた。  そこまで言われてやっとルカも察する。しかし、 「あのドゥドゥとかいう男が言っていたことを気にしているのか? 真偽のほどはわからないけど、お前が気にすることは――」 「ボクは人を食べていた」  それから互いに口をつぐんだ。  張り詰めた空気の中で視線が交わされていたが、ヴィヴィの切れ長の目が閉じられ顔が俯いた。 「……記憶が戻ったのか?」  その問いに首が振られる。今度は茶化すようにではなく、怒られている子供が意思表示をするかのように。 「なら、やっぱり気にすることじゃない」 「……そんなわけにはいかないだろ。ボクがラドカーンの助手だったということはほぼ証明されている。実験体にされて人の体ではなくなったことも納得できる。ドゥドゥが去った頃には貫かれた左手が再生していたんだ。あと、蜘蛛の毒のことも覚えているだろう? キミは噛まれたというのになんの症状も表れなかった。そして、ボクやブルゴーには効いた。森の中で死んでいた獣もそうだ。あの毒はきのこの影響を受けた者にしか効かないんだよ」  自らの退路を断つようにヴィヴィは言葉を並べていく。 「あの男が言ったことは真実だった。それなのに人を食べていたことだけ嘘なわけないだろ!」  感情を露わにした声が部屋に響き渡った。あのヴィヴィがここまで取り乱すとは、そこまで思い悩んでいたということだろう。 「……それが二つ目の悩みだな。それがどう一つ目に繋がるんだ?」  ルカは審議を進めるように促した。  顔を上げたヴィヴィは、得体の知れない自身に対する怯えと、唯一悩みを打ち明けれる相手が冷たい、という不満が入り混じった表情をしていた。 「キミは……、意地悪だ……」 「普段のお前に言ってやれ」  不服を唱える彼女を一蹴し、ルカはベッドから足を下ろして腰掛けるように座りなおす。 「で、どうなんだ?」 「そんな化け物から作られたものを摂取したんだ。キミらの体にもっと甚大な変化を与えているかもしれない。胞子を受け付けなくなることなんて、ただの副作用なのかも……」  悔やむように吐露するその声は震えているようにも聞こえた。  自分を人以外の生物と認めなければならない。  ルカやノーラの人としての本質を自分が変えてしまったかもしれない。  そのような思いが渦巻き堪えきれなくなってしまったようだ。  ルカはゆっくりと立ち上がると、眠っていた間に固まってしまった体をほぐすために伸びをした。  そして、呆れたように問いかける。 「はあ、考えても見ろ。俺の傷はどうやって治ったんだ?」 「それは、ボクがきのこを調合して……」 「だろ? ブルゴーやドゥドゥ、一緒にしたくはないけど、お前も自力で怪我を治していた。でも俺はそうじゃない。実験をするまでもなく答えが出たわけだ」 「うーん」 「なんだその反応は!」  納得がいかないとでも言いたげにヴィヴィは腕を組んで頭をひねる。  ただ、理屈がわからなかったわけではない。ルカにうまく丸み込まれたようで面白くなかったのだ。  確かにそう考えると、ルカは人として正常と言えよう。  明らかに目に見えていることに気づかなかったことを悔やんだ。言い換えれば、それほどヴィヴィの心は追い詰められていたということにもなる。 「まったく」と鼻息を鳴らして少年は言葉を続ける。 「それと、人を食べていたかなんてわかったもんか。助手をしていたことや理性がなかったことは見たり聞いてたりしたものだろうけど、その理性を得た方法に関しては推測だ。お前はそんな覚えないんだろう?」 「ああ……、一番古い記憶は大きな荷台に乗って移動していたような……。今思えばあれは行商隊だったのかもしれない……。あとは、わからない」  脳内にある薄ぼけた風景を口にしたが、他人事のようでヴィヴィ自身にはあまり実感がなかった。  だが、それで十分、と少年は言う。 「その人たちに連れられて遠く離れた俺の所まで来たんだろう。弓とかも譲ってもらったと考えれば合点がいく」 「……希望的観測が過ぎやしないか」 「良いんだよ。何事も前向きが良いってこの旅で学んだ」  その分苦労したということだが、漏れ出そうな言葉をぐっと飲み込んで椅子に座った。目の前にあった試験管を手に取り、 「それで三つ目は?」  未だ頭をひねっている旅の相棒に問いかけた。 「ふむ、あの男を倒す方法のことだけど……、ボクの方でなんとかしておくよ」  そう答えて少年に歩み寄り、子供から危ないものを離すように試験管を取り上げた。 「なんとかって、どうするんだ――」  浮いた手を下ろし目線を上げる。  すると、いつものように涼しげな彼女の顔が間近にあった。

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