東の空が白む。 全身を防護服で覆い、手に松明を持った人影が剥き出しの大地に足跡をつけていた。 ふと、立ち止まり遠くを見遣る。荒れたこの地から森に入る境よりも向こう。ずっとずっと向こうにあるそれはこの世界で最も存在感を放っていた。 「ああ、昨日は雨だったから『ルトゥタイ』がよく見える」 防護マスクの中で呟かれた声は少年のものであった。しかし、その声色はただ事実を口に出した、というだけで感動とはほど遠い。 ――ルトゥタイ。おそらく、世界の端からでも見えるであろうそれは巨大な物体だ。一見、木のような色合いだが植物ではない。その証拠に枝も葉も無く、柄と呼ばれる繊維質な極太の軸が一本伸びているだけである。そして、その柄が支えるのに見合った大きさの傘が広がっていた。日中でもそれの影となった地帯は夜のようになっているだろう。 そう、ルトゥタイとは世界を土壌とした超弩級のきのこである。 少年が生まれるよりもさらに長い年月を遡って存在するそれに、今更感慨深くなることもないというわけだ。 それよりも、と少年は足元へ視線を移した。地中から太めのひものような物体が膝ほどの高さまで生えている。傘はないが、これもきのこである。 「仲間を呼ぶ種類か。美味いのが来ると良いな」 今度は高揚感が混じった声であった。 腰に着けていた水筒型の容器を手に取り、くるくると振ってから蓋を開ける。自身に付着しないように注意しながら、きのこの上から粘性のある液体を垂らしていく。そして、仕上げとばかりに距離を取って松明の火を近づけた。すると、 「――ギイイイイイイイイ!」 着火した炎とともに、この世のものとは思えない断末魔の叫びが清々しい朝の空気を震わせる。 少年のゴーグルに炎の中で踊り狂うきのこが映っている。鳴き声は段々と弱まり、やがて動きも鈍ったそれは黒こげになりボロボロと崩れ去った。 松明を置き、きのこが生えていた根元に背負っていたシャベルを差し込む。昨日の雨で湿り気を帯びた土は柔らかく、難なく掘り返せた。 少年がシャベルを器用に使って掘り返した土を探っていくと、円筒型をした幼虫を見つける。その体には先ほどのきのこが生えていた痕跡があった。 「釣り餌まだあったかな……。まあ、いいや」 一瞬持ち帰ろうか悩んだ少年であったが、先ほどのように粘性のある液体をかけてから焼却する。最後に火が消えて炭となった幼虫を踏み潰し灰にした。 「――来たか」 少年が森の方へ目を遣る。何かがこちらに向かって来ていた。粒だったそれはどんどんと大きくなり、ハッキリ見える頃には少年の三倍ほどの体格を持つ四足の獣となっていた。頭に立派な二本の角があり、その背中には傘がある背の高いきのこが一本生えている。 その姿を捉えた少年は、シャベルの先をスライドさせた。カチッと固定された音が鳴って、シャベルは斧へと変形する。 そして、少年は両手で持った斧の刃を後ろに下げて駆け出す。勢い落とさずに向かってくる獣は唸り声を上げた。 衝突する瞬間、獣は引いた頭を振り上げて少年を角で抉ろうとした。だが、少年は地を蹴り上げると、獣の頭を跳び越えて首元へ。そこから獣の分厚い肉を蹴り上げ、眼前のきのこへ斧を振るう。刃は柄の根元辺りを捉え容易に切断した。 少年は華麗に地面へ着地する。背に生えていたきのこを切られた獣は転倒し、地面を滑って長い線を引いた。 ピクピクと痙攣する獣へ歩み寄り、少年は斧を振り上げる。 「さて、解体解体っと」 ※ 清澄な水が流れる川のほとりに、一軒の小屋が建っていた。煙突から白煙が立ちのぼっていなければ、人が住んでいるとは思えないほど廃れている。 その小屋の中で、少年は先ほど倒した獣の肉をかまどに入れて熱を通していた。防護服を脱ぎ、精悍な顔に汗を浮かべている。 肉をかまどから取り出し、一緒に持って帰ってきたきのこの一部を熱の通りやすい大きさに切り分ける。するとその時、玄関の戸が三回叩かれた。眉根を寄せた少年は手を止めて戸の方へゆっくりと向かう。 少年が人里離れたこの場所に住み着いて幾年か経つが、誰かが訪れるのはそう珍しいことではない。周りにこの小屋以外に何もないのだから、食料や寝床に困った旅人が助けを求めてくるのは自然なことだ。 だが、穏やかな旅人とは限らない。少年は棒切れを片手に警戒しながら戸を開いた。 「やあ、こんにちは」 にこやかな笑顔でそう挨拶したのは、透き通る白い肌に艶やかな銀の髪を持つ人物であった。背中には両端に滑車の付いた弓が担がれている。 歳は少年と同じぐらいと思われるが、中性的な顔立ちと肩に届かないほどの髪の長さなので、男性か女性か判別がつかない。 その美貌に一瞬目を奪われた少年であったが、すぐに我に返ると怒鳴り声を上げる。 「お前死ぬ気か! もう昼過ぎだぞ! 防護マスクはどうした!」 初対面でいきなり叱られ、きょとんとした顔を見せた彼、もしくは彼女は、「ああ」と察して笑顔に戻る。 「先日も同じことで怒られたよ。大丈夫、ここ一週間ほど何も着けずに出歩いているけど体に異常はない。ボクは胞子の宿主に向いていないようだ」 この世界はルトゥタイから放出された胞子や、そこから生まれたきのこの胞子が空気中を漂っていた。その胞子は人間を始め、様々な動物に宿り成長する。そして、成長したきのこの中には宿主の脳を支配する種がある。 今朝、少年が倒した獣がそうだ。幼虫に宿っていたきのこの断末魔を聞き、少年という敵を排除するよう獣を仕向けた。 もちろん脳を支配しない種類もたくさん存在するが、一度発芽したきのこは宿主から養分を吸い取って死に至らしめる場合もある。発芽する確率がそう高くないとは言え、できるだけ胞子と接触しないというのが常識だ。 そのため人類は屋外に出る際、防護服を身に纏って細心の注意を払っている。だが、この人物は防護マスクすらいらないと言ってのけるのだから、少年の眉間にしわが寄るのも仕方がなかった。 「とにかく中に入れ。戸を開けたままだと胞子が入ってくる」 「うん、いい人で良かったよ」 怪しい人物を少年は招き入れて戸を閉める。 「外から見たとおり、中もボロいね」 「……で、用は?」 室内を見渡した感想を述べられたが受け流し、手にしていた棒切れを使うこと無く壁に立てかけた。 「煙突から煙が出ていたから食事を作っていたんだろ? ご一緒したいと思ってね」 「まあ、構わないけど……、名前は?」 「名前? ……ああ、名前ね。ヴィヴィだ。キミは?」 「ルカ」 「うん、よろしく。ルカ」 互いに名乗り合うとヴィヴィは自分の家のように奥へと入り、ひとつしかない椅子に座ろうとした。それをルカが呼び止める。 「待て、体についた胞子を落としてこい。そこの裏口を出たら川があるから」 「めんどうだなあ。でもまあ、水浴びもしたいと思っていたんだ。肉はよく火を通しておいてくれ」 机の上に置かれた肉を見てそう言い残し、ヴィヴィは裏口の戸の向こうへと姿を消した。ルカはため息をひとつ吐いてから、夕食用に取っておいた肉をかまどに入れる。 それから、ヴィヴィ用の肉を調理し終えて付け合せのきのこにも熱を通した。それらを皿に盛り付けたのと同時に、裏口の戸が開かれる。 見計っていたとしか思えないタイミングに呆れながらそちらに目を向ける。すると、腕に服と弓を抱えた一糸纏わぬヴィヴィの姿があった。僅かながらある胸の膨らみと、ルカにあるモノがないようなので、抱いていた疑問がひとつ解決する。 「何か拭く物をもらえるかい? すっかり忘れていたよ」 「……ああ、そこの布を使ってくれ」 引き締まった体つきに、きめ細やかな白い肌はまるで造り物のようだ。一種の芸術作品とも言える。欲情という感情は無く、ルカは神々しさを感じていた。 しかし、動揺を見せるとこのヴィヴィという女性は遠慮なく突いてくるだろう。ルカは冷静に振舞い、ヴィヴィが服を着るまで目を逸らしていた。 食事を終えたヴィヴィが椅子に座って足を組み、向かい側で立ったまま肉を頬張るルカを眺めていた。居心地の悪くなったルカが肉を飲み込み口を開く。 「土地を追われたようには見えないけど、旅人?」 「旅人か。目的を持って己の足を動かしているという意味ではそうだね」 「目的って?」 「なんてことはないよ。ルトゥタイを目指しているのさ」 「理由は?」 「うーん、そうしないといけない気がするから」 「ふーん」 ルカはそう反応すると、最後の一切れを口に放り込んだ。その態度を不満に思ったヴィヴィが整った顔を僅かに歪ませる。 「聞いておいてその生返事は傷つくなあ」 「ここに訪ねて来る旅人はみんな同じだ。一度は行ってみたいんだとさ」 「そうかい。じゃあ、キミはなぜこんなぽつんとした所に住んでいるんだい?」 空になった二人分の皿を片付けながら、ルカがその問いに答える。 「住みやすいから。周りに木々がないおかげで、きのこが宿る動物はいない。毎日見回って、動物もきのこも顔を出したやつだけ駆除していればいい」 「ふーん」 先ほどのお返しとばかりにヴィヴィが気の抜けた返事をしたが、ルカに気にした様子はない。玄関の方へ行き、胞子を綺麗に洗い落とした防護服の状態の確認をする。それが終わると、シャベルにも斧にもなる武器の手入れを始めた。それをヴィヴィが頬杖をつき眺めるだけの時間がしばらく流れる。 あくびをするヴィヴィに、出て行かないのか、と疑問を投げ掛けようとしたその時、けたたましく玄関の戸が叩かれる。瞬時に二人はそれぞれの武器を手に取り身構えた。 ルカが戸にゆっくりと近寄る。その間も、ドン、ドン、という音は止まない。そして、ついには鍵と蝶番が壊れて戸が外れた。それと同時に何かが飛び込んでくる。 「助け……、助けて……」 それは防護服に身を包んだ人間であった。マスク越しに聞こえる声は男性のものである。 ヨタヨタと近づいてくる男性にルカが斧を向けて声を張り上げる。 「止まれ! 何があったか言え!」 「でかい鳥が……、男が……」 「鳥……、男……?」 要領を得ない言葉に、ルカは頭をひねる。 だが、そうしている間も男性は止まることなく、斧を構える少年に手を伸ばす。 「くっ!」 仕方なく男性を突き飛ばそうと体重を前に掛けた。 だが次の瞬間、男性の背が破裂したかと思うと緑色の触手が幾本も飛び出した。すぐさまそれらはルカに襲い掛かる。 「伏せろ!」 驚きのあまり思考が停止しかかったルカであったが、背中に飛んできたヴィヴィの声に反応して前に倒れ込む。その上をヴィヴィが放った矢が飛び、触手がルカに届くよりも早く男性の額に刺さる。その衝撃で触手ごと後方へと吹き飛び小屋の外を転がった。 駆け出しながら立ち上がったルカは、トドメを刺そうと斧の柄を力強く握る。そして、倒れた男性の背で蠢く触手に刃を振り下ろした。しかし、その刃は地面を抉る。 刃が当たる直前、男性の胸を破裂させた触手が地面を捉えて後方へ跳び退いたのだ。 「ルカ!」 名を呼ばれ振り返ると、胸に防護マスクが飛んできた。 ルカは、すかさずそれを頭から被って斧を前に構える。防護服は着ていないが、マスクをするだけでも胞子の危険性は遥かに違うので、渡してくれたヴィヴィに心の中で感謝を送った。 斧を持つ手に力が込められる。 端から見れば勇敢な立ち振る舞いをするルカだが、内心では怯んでいた。手が微かに震えていることに本人も気づいている。 目の前の男性はすでに絶命しているだろう。しかし、その体から無数に伸びる触手が大きな束となり巨大な生物を彷彿させた。きのこに寄生された様々な動物を狩ってきたが、このような異形の化け物と相対するのは初めてであった。 そう戦慄するルカの背中にヴィヴィの声が飛ぶ。 「ボクが致命傷を与える! キミは伸びてくる触手を切って道を開け!」 「――わかった!」 彼女の声に不安の色はなかった。 釣られるように恐怖が薄れていき、手の震えが止まる。武器の重みを確かめ、目の前の化け物を鋭く睨みつけた。 敵意を感じた触手が次々とルカを目掛けて向かってくる。それらを身を翻して避け、勢いを殺すことなく斧を振るい切断した。地面に落ちた切れ端は、のたうちまわった後に動かなくなった。 手ごたえを感じたルカであったが、休む間も与えないとばかりに新たな触手が向かってくる。 それからなんとか両手の指では足りないほどの数を断ち切ったところで考察する余裕が出てくる。 この化け物は何者なのだろうか。この世界の在り方として、男性にルトゥタイの胞子が宿った、と考えられる。だが、触手を生やし、なおかつ襲ってくる生物なんて見たことも聞いたこともない。ルカの持つ知識では、答えに辿り着くことはできそうにはなかった。 思考している間にも、正面から飛んできた触手をかわし、斧を振り下ろした。そこへ頭上から触手が襲い掛かる。数秒の意識を逸らしたことによる隙と、防護マスクで狭くなった視界外からの攻撃に反応が遅れた。避けきれないと判断したルカは左腕を犠牲に防ごうと構える。 顔を伏せ、ぎゅっと目を閉じて痛みに備えた。しかし、訪れるはずの衝撃は来ない。 不思議に思い顔を上げる。すると、矢が刺さった触手が地面でのたうちまわっていた。少年はすぐに理解する。ヴィヴィが矢を放ち触手を射抜いたのだ。決して太くはない、それでいて素早く動く触手を正確に射抜く能力に驚嘆してしまう。 九死に一生を得たルカだが、礼を言っている暇はなかった。次の触手が向かってくる。斧を振り上げ断ち切った。 「そろそろか」 ルカの奮闘を見守るヴィヴィが呟いた。触手はまだまだあるが、数は確実に減っている。今なら化け物の核となっている男性の遺体に矢が届きそうだ。 腰に携えた矢筒から鏃がない矢を手にし、反対側にぶら下げている小袋から山型の鏃を取り出した。それらを回転させて組み合わせる。 右手に持った弓にその矢をつがえる。左手で弦が引かれ滑車が回った。 狙いを定めて放つ瞬間、叫ぶ。 「後ろに思いっきり跳べ!」 反射的にルカが後ろに転がる勢いで地を蹴った。再び頭上から襲い掛かってきていた触手が地面に刺さる。 射掛けられた矢は一直線に飛び、伸びる触手の間をすり抜けて狙い通り男性の遺体に当たった。直後、高温の炎とともに爆発が起こる。容赦ない爆風がルカをさらに後方へと吹き飛ばし、川に落下させた。 「ぶはあ!」 水面から顔を出して立ち上がる。川はルカの腰辺りに水面があり、さほど深くない。防護マスクを脱ぎ、濡れた顔を手で拭って飛ばされてきた方を見遣る。巨大な触手の化け物の姿は見えなくなっていた。さらに、自分の家も見当たらない。 「あ、あれ……?」 変わり果てた景色に呆然としていると、腰に何かが当たる。見ると木の板であった。落ち着いて周りを見渡すと、大量の木片が川の流れに沿いながら浮かんでいる。 触手が現れた時とは別の感情で血の気が引くのをルカは感じた。 そこへ、やり切った表情のヴィヴィが川岸から声を掛ける。 「どうだい、ボクお手製の矢の威力は。褒めてくれ」 その楽しげな調子に比例するように、ルカの怒りは高まっていく。だが、助けられた事実がある以上、この女性にぶつけるわけにはいかない。 「バカ野郎ー!」 行き場のない怒りを声に乗せ、茜色に染まり始めた空に届かせることしかできなかった。
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