私は構えた。 手にするバットは京都の職人に作らせた特別性。 このバットで私は多くの虹を描いてきた。 戦後の荒廃とした日本に希望を当てる一打を生み出した。 勇球必打。 それがこの一打の名前だ。 たかが野球、されど野球、野球を通して明日を生きる喜びになればと……。 ただひたすらに打ち続けたのだ。 「赤田。バットのヘッドが下がっているぞ」 「は、はい!」 私は現役を引退し、プロ野球界に残りコーチを務めた。 優秀な若手選手に打撃指導し、一人でも多くの虹を描く希望の光に育つようにと……。 それが私のプロ野球の恩返しと思ってきたが……。 ――裏金は7億円! ドラフトの闇! ――女性スキャンダル発覚! スター選手の裏の顔! ――野球賭博発覚! 無期の失格処分を下す! 長く野球界に携わると見てしまう、闇の部分。 こんなはずではなかった……。 私は高潔な職業野球人を、職業野球界にしたい。 そうすることで辛く生きる人々に、生きる希望と活力、夢を与えたかった。 そのために粉骨砕身、己の全てを捧げてきた――。 『ニュースをお知らせします。元プロ野球選手の空下浩さんが死去。空下さんは大学卒業後、メガデインズに入団し――』 私は心の中にわだかまりを残して死んだ。 人生が終わった。そう思ったのだが……。 「っ!」 不思議な空間で目覚めた。 薄暗く冷たい空間……。 これが黄泉の世界か、私はそう思った。 「目覚めたか。伝説の勇者、空下浩よ」 私の目の前には黒い光の塊があった。 誰なんだ? それに私のことを勇者だと? この空下浩は職業野球人、つまりはプロ野球選手だ。 「お前は何者だ」 「神だよ」 「か、神!?」 「ふふっ……神は神でも『邪神』と、口の悪い神々から言われているがね」 邪神。 その黒い塊は自らを揶揄したかのように言ったのだ。 私は恐ろしくなった。 「そ、その邪神が、私に何の用だ!」 「私と一緒に『革命』を起こそう」 「か、革命!?」 「腐りきった野球界に革命を起こすのさ――」 黒い塊は人の形を作り始めた。 「私は野球好きな神。現代の腐りきったプロ野球に辟易としていた」 人……大きな黒い影は人の形を作り出した。 それも男……『黒い男』になった。 黒い目出し帽に、全身が黒の服装だった。 黒い男にニタリと笑いかけた。 「一緒に戻そう! 君が活躍していた職業野球の時代に!!」 黒い勧誘だった。 悪魔のささやき、というものはこういうものなのだろう。 「高潔なる野球をNPBに再びッ!」 私の魂――心は大きく揺さぶられた。 そして、私は自分の体の異変に気が付いたのだ。 体中に怪我をしたかのように包帯が巻かれていることを……。 「今日からお前は、マスターマミーのヒロと名乗るがよい!」 私は人間ではなくなっていた。 転生というものらしい。 それも、マミーの上位種であるマスターマミーになっていた。 そう、私の体は『あんでっど』なる魔物の体になっていたのだ。 「悪の体を持ちて! 光の心を持つ! 再び虹を描け!」 「御意……」 魔物に転生した私は再びバットを握った。 ただ青空のもと、白球を純粋に追いかけ、人々に夢と希望を与えるあの時代……。 全ては高潔で誇り高い『職業野球の時代』を取り戻すために。 ☆★☆ カウントはツーストライク、ツーボール。 僕は鳥羽さんへのミットへと速球を投げ込む。 「はっ!」 外角低めの四隅を意識。 狙いはバッチリだ。 打たれたとしても長打にはなりにくい。 ――カツーン! 打たれた。 逆方向へと持っていかれる。 「まずい……!」 特大の飛球だ。 弧を描くような滞空時間の長い打球……。 同点か!? そんな嫌予感が頭を過る。 「ファール!」 しかし、打球はポールの横を切った。 結果はファールだ。 『惜しい! ファールです!』 『マンダム――ポールの数cm外側だったな』 僕はヒロに粘られていた。 投じる球数はさっきの含め10球。 変化球も織り交ぜながら投げているが三振がとれない。 何故だ? そう思っているとヒロが話しかけてきた。 「何故、打ち取れないか不思議そうな顔をしているな」 ヒロは古びたバットの先端を僕に向けた。 「底力が違うのだよ!」 「底力……」 「金と名誉だけを追い求め! 「明日もあるから」と今日の勝負を捨て! 合理性などという言葉に酔いしれた、腐りきった現代野球人とは――」 ヒロはバットを構え直すとこう言った。 「我々、職業野球人とは違う!」 「違う?」 「異世界の勇者には理解出来まい……我々、職業野球人は野球道を純粋に極めようと! 人々に活力を与える芸にしようと! 金剛石を輝かせようと! 我々は奮闘努力してきた――だが現代野球人は忘れてしまった!」 ヒロが包帯から覗かせる目が鋭くなった。 「金も名誉もない! 純粋なる〝球道無限〟を追い求める時代に戻す!」 「球道無限……」 僕は気圧された。 この世界の勇者だった男の姿がそこにあった。 魔物の姿に転生したが、まごうことなき気高い精神があった。 「ここで負けるはわけにはいかん!」 この打席のヒロは風格がより一層高まっていた。 心臓の鼓動が高鳴る。 僕の勇気が揺らぐ……打ち取れるのか? この男を……。 『いけないなぁ』 幽体の村雨さんが僕に話しかけた。 「村雨さん?」 『弱気になっているね。何を投げても打たれそうだと』 「そ、それは……」 『弱気は最大の敵だよ。ここまで来て、そんな弱気でどうする』 村雨さんはライトスタンドを指差した。 そこにはマリアム達を始めとする光の応援団がいる。 『生きている人が時代を作るんだよ。今日を生きる人々のためにプレイする……それが現代野球人の果たす役割だ』 「村雨さん……」 僕は深く頷いた。 「はい」 村雨さんは優しく笑った。 『よろしい。では、アランちゃんに伝授しよう』 すると、村雨さんがどこからかボールを取り出した。 うっすらと見えることから、周りの人達も見えない存在だろう。 何かの変化球の握りを見せてくれた。 中指を縫い目の内側にかけ、親指も縫い目にかけている。 『これは私が生前得意としていた変化球――ドロップだ』 「ドロップ?」 『変化球の一種だよ。この必殺球で数々の大リーガーを打ち倒したものさ』 村雨さんは腕の振りを見せて実演してくれた。 『手首は90度にしてリリース、次に中指と親指でボールを強く弾くんだ。投げる瞬間は、直球と同じ腕の振りで、振った後は手をベルトまで引くこと忘れちゃいけないよ』 「……出来るんでしょうか」 僕の問いに、村雨さんは事もなげに答えた。 『出来るさ、君は人々に希望と夢を与える勇者。勇者だけの虹を見せてやれ』 「僕だけの……」 『本物の虹を見せてあげなさい。空下のくすんだ虹よりも、美しく力強い虹をね』 僕はピッチャープレートを踏んだ。
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