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「ねぇ、アンタあの子の名前、言える?」  通路を歩く付き人の歩幅は大きい。懸命についていきながら、私はギクッと上がりそうになる肩を堪えた。  もちろん、調書で書かれていた見合い相手の名前は覚えている。  アトクルィタイ=モーリ=ヒポカンタス様。  だけど、それを文字で書くのと発音するのは別だ。 「……ヒポカンタス様、ですよね?」  かろうじて言いやすい家名を口にすると、付き人は深々ため息を吐く。 「アンタねぇ……『人間』て呼ばれて嬉しい人なんている?」 「え?」 「最後のは種族名。人魚にも色んな種類がいるの。ヒポカンタスはその中のひとつ。だから今後もあの子と仲良くしていく気なら、アトクルィタイと呼んでやってちょうだい。まぁ、陸では発音しにくいのかもしれないけど」  鼻で笑われた……わね。「こっち」と階段を下りていく大きな背中の後ろを歩いていると、彼は言った。 「アタシも自己紹介していなかったわねぇ。アタシはマルスコーイ=プリリーク=ピコドゥルス。アトクルィタイの教育係ってトコね」  教育係。なるほど。どうりで王子を呼び捨てにしたり、態度が大きいわけね。大きすぎる気もするけれど。  薄暗い階段を先に下りている付き人改教育係が振り返れば、視線の高さが一致する。緑色の瞳に射抜かれ、私は一瞬息を呑んだ。すごく顔が綺麗だった。私と同年代だろう。子供にはない、大人の気迫。だけど肌がすごく綺麗で、きっと化粧をとれば誰もが見惚れる男性なのかもしれない。  そんな彼がにっこりと笑い、私の顔を片手で掴んだ。むぎゅっと頬が潰れる。 「さて、レッスン。アタシの名前を呼んでみましょうか」 「ふぇっしゅん?」 「練習よ。マルスコーイ。アトクルィタイより簡単でしょ?」  いやいや、こんなに顔を掴まれて喋るどころじゃないんですけど⁉ 口もろくに開けないですし。手袋をされているから不快感は若干軽減されているけど……それでも結構痛いわ。 「ほふぇほはらひふぇふははい」 「ウフフ~。なんて言っているかわからないわぁ。滑稽なツラねぇ、陸のお嬢様」  満面の笑みで私を侮辱して、彼は向き直り階段を下り始める。毛足の長いコートがはためいていた。 「もうすぐ着くわ。アタシは別にこの婚約がどうなろうと構わないんだけど……一生懸命頑張ってるあの子を泣かせたら、許さないから」  美人だからこそ、獰猛な視線に圧倒され。  私は覚悟を決めて、ついていくしかない。  だって、悟るしかないじゃない――私は試されているのだと。  着いた先は、海の中のようだった。  私はもちろん、ジュエリア王国の国民は海に入ったことがない。海に面した国にあるにも関わらず。なぜなら、海は危険だと教えられてきたからだ。海の中には魔物がいるから。歌に誘われ、私たちは食べられてしまうから。  だからずっと見ていただけ。崖を削る波は怖いのだと、遠くから見下ろしていただけ。絵本の中のその光景に、恐怖を抱いていただけ。  だけど私の目の前に広がる光景は、絵本の中の光景とそっくりで、それ以上に綺麗だった。  明かりもなく真っ暗な空間の前一面に、大きな水槽があるようだ。その中にたくさん生えている棒状のものが淡い光を放ち、彼をぼんやりと映し出していた。  水の中に漂う、人間のような人間でないもの。絵本で見た魔物の姿。  全身が黄金色に染まり、一つに括られた同色の髪が水の中でふよふよ浮いていた。何より異なるのは、彼の下半身。膝を抱えているような体勢なのに、足が二本あるわけではない。まさに魚の半身。艷やかなひとかたまりの半身を半分に折り、尾ひれに顔を埋めている。 「どお? あれがあの子の本来の姿。気持ち悪い?」 「綺麗だと思います」  考える前に、本心が溢れた。  だって、本当に見惚れてしまったから。暗闇の中に佇む黄金。だけど彼の表情が儚くて、まるでそこは空想小説の中のワンシーンだ。  ぼんやりと見つめる私の隣で、くつくつと笑う声がした。そしてマルスコーイと名乗った彼がカツカツ歩を進めると、水槽のガンッと叩く。その音と揺れた床に、私は我に返った。 「聞いたぁ、アトクルィタイ! 陸のお嬢様がアンタに一目惚れしたってさぁ! 良かったじゃないの。だからさっさと上がって来なさいよぉ」  ひ、一目惚れ⁉ そんなことまで言った覚えはないけど⁉   うろたえていると、驚いたような顔で王子がこちらを見る。金色の瞳と目が合うやいなや、王子はするすると奥へ泳いで行ってしまった。 「まったくもー。あんなヘタレに育てた覚えはないんだけど……おや、まあ」  気が付けば、マルスコーイが私の顔を覗き込んでいた。 「アンタも可愛い顔しちゃって」 「ふぇっ⁉︎」  思わず漏れた令嬢らしからぬ自分の声に、私は慌てて口元を押さえる。水槽に反射する自分の顔ったら……。  そんな私を見て、マルスコーイはカラカラ笑った。 「ここからじゃ声も届きにくいと思うけど、水槽の上からだったら多少は通るはずよ。行ってみたら?」  その提案はありがたい。私は一礼して、言われた通り階段を上がる。さすがにこんな熱い間抜け顔をいつまでも見られたくないもの……。

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