秋祭りの雑踏の中を彼女は歩いていた。 亜麻色の髪が海風に舞う。 水色のカーディガンが躍る。 彼女は上だけを見て歩いていた。 私こと立花隆一は、妹の深雪と親友の舘林保を引き連れて彼女を追いかけていた。 道行く全ての人が彼女に見惚れ、互いにぶつかり合い、焼きそば、たこ焼き、りんご飴、、、あらゆるものが飛び交った。 「兄ちゃん!早くしないと!行っちゃうよ!」 「そんなことは分かっている。保よ。俺の顔に張り付いた綿あめをとってくれ」 「あん?全くしょうがねえな、、、手がべとべとだぜ。うぉ!おっちゃん、前見て歩けよ!」 彼女が歩いた後は、文字通りのお祭り騒ぎであった。 そんな乱痴気をものともせず、彼女は鼻歌交じりに上だけを見て歩いて行く。 それが四年振りの鈴木桜子であった。 桜子は我々の幼馴染である。 陶器のように白い肌。 ビードロのように透きとおる声。 涼しげな切れ長の目元。 我が道を行く軽やかな生き様、歩き様、、、 当然のように私は惚れた。 中二の秋、桜子は東京に引っ越すことになった。 別れの朝、好きと言う決意をした。 当然のように私は言い出せなかった。 だから想いを伝える代わりに私は「メールアドレス、教えてくれないか」と言ったのである。 それに対して、桜子は言った。 「私、ケータイは持ってないの。連絡取りたいなら手紙を頂戴。そっちのほうが好きだから」 それ以来、私は考えてきた。 彼女に手紙を出すべきか、出さざるべきか。 出すべき手紙とは年賀状か、暑中見舞いか、ラブレターか。 はたまた、恋文なのか。 そもそも、ラブレターと恋文の違いとは何か。 アポリアである。 無為に過ごした四年間を振り返り私が懊悩煩悶する間に、彼女はお祭り情緒などどこ吹く風でモダンジャズを流し続ける喫茶店「キャラバン」の角を曲がり、父親が運転する車に乗り込んでいた。 喧騒の中を滑っていく車を、我々は呆然と見送る。 平素の私であればここで諦めていただろう。 分不相応なことをして恥をかくくらいなら、路傍の石ころのようにむっつりと黙っていたほうが良い。 そのほうが希望も残るというものである。 だけれども、体裁だとか自今以後の一切だとか、そんなことがどうでもよくなるくらい今日の桜子は魅力的であった。 笑わば笑え。 他人に何と言われようと、今日、私は桜子に想いを伝えるのだ! 私は駆け出していた。 「兄ちゃん!車、県道に行ったよ!」 「走れ、隆一!」 桜子の生み出す狂騒に中てられた、深雪と保の熱い声が響く。 金魚の屋台を引き倒し、カップルたちの罵声を浴び、酔漢たちを飛び越えて、私は駆けた。 小学生の列に突っ込んで色とりどりのかき氷をぶちまけられ、射的の景品と間違えられてコルク製の銃弾を浴びた。 入り組んだ住宅街の路地を抜けて、数多のご家庭の中庭を突っ切った。 そうして、徐々にお祭りの喧騒が遠くなっても、私は走り続けた。 息は切れ切れで、足は鉛のように重くなった。 それでも、私は走った。 だが、漁港が見えた時、ついに私は立ち止まった。 もう、走れない。 間に合わない。 諦めるなら、今である。 隆一、お前はよくやった。 自分を褒めよう。 だが、本当にそれでいいのか。 はるか遠いものにこそ手を伸ばすべきではないのか。 秋晴れの下、海上花火用の漁船が停泊しているのが見える。 そうだ、水路を使おう。 諦めるには早すぎる。 私は活力を取り戻し、一番古ぼけた漁船に飛び乗った。 舳先で眠りこけている熟練の漁師、権藤さんを蹴り起こす。 「痛え!何しやがる!」権藤さんが濁声でどなる。 「恋愛的緊急事態だ。船を出せ!」私は言った。 権藤さんは目を丸くしたが、すぐにエンジンに向かう。 「そうか!ならば、行くぞ!若人よ!」 ぶろろろろ、と、唸るエンジン。 漁船は穏やかな川面を切り裂いて進む。 「よし、追いつける」 そう私が確信した時、ポツリ、と、雨粒が鼻先にあたった。 私は思い出した。 本当に美しいものを前にすれば、神様だって狂喜乱舞し、嵐のひとつも起こすのである。 そこに物語が生まれる。 晴天俄に掻き曇り、大粒の雨が降り出す。 大風が吹く。 川面は今までにないほど荒れに荒れた。 私たちの小舟は木の葉のように波に揉まれる。 このままでは桜子に追いつくことはできまい。 「ちくしょう!」私は言った。 直接でなくてもいい。 せめて気持ちだけでも伝えたい。 その時、巨大な白い旗が目に留まった。 花火を打ち上げる際の合図に使うものだ。 これにメッセージを書く。 船に括り付ける。 運が良ければ、桜子の目に留まる。 それだけでいい。 私は桜子への想いを書きつけた。 しかし無情にも、遡ろうとする推力と押し流そうとする水流が拮抗する。 漁船はもはや一寸たりとも桜子の元へ向かおうとはしない。 「もうだめだ、隆一!流されちまう!」権藤さんが叫んだ。 「ちくしょう!」 私はやっけっぱちになり、恋文を天に投げやった。 そうして、私の滂沱の涙は、海に流れていった。
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