冠の男
第十二節 エルサレムにて

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 翌日、私は不安と法悦がないまぜになったような複雑な気持ちでエルサレムに入りました。その頃は正午ごろでしたので、水を汲む召使や娼婦の他は、皆家の中に居りましたが、私は目に留まった犬と暮らす人々や、物乞いをする人々に福音を告げ知らせました。弟子は昨夜倒れた私を心配して付きっ切りでしたが、私が木陰で休息するのを見て、井戸に行ってくるのでここで待つようにと言いました。 「いいですか、エルサレムにはお師匠様の事を良く思わない人も沢山いますので、此処を動かないでください。誰かから隠れようとして、誘き出されたりしないようにしてください。」  このようにきつく言って、弟子は井戸へ走りました。私が、町の木陰に立って、落ちていた棕櫚の葉で顔を仰いでいたところ、遠くから知った顔が近づいてくるのに気が付きました。私は非常に驚きましたし、彼も驚いていたようでしたが、私はそこを動きませんでした。私には分かったのです。彼は私に手を出すことは出来ない、主が守っていてくださっている、今もこうして、仁王立ちしておられる。だから、私は背筋を伸ばして、彼が近づいてくるのを待ちました。 「…驚きました、ラビ。お隠れにならない胆力は、流石我が主人の認めた御方です。」  彼は、私が兄弟子の事件の後、滅ぼす為に律法学者に借りた屈強な男の一人でした。ダマスコでの一件で、私の下から逸早く去り、律法学者に事の顛末を話した一人です。 「貴方が来たのが分かっていて、貴方が敵でないと知っていたなら、どうして私が逃げる必要がある。」  すると彼は、非常に驚いたような顔をしました。私は何気なく言ったのですが、どうやら彼には何か衝撃的なひと言だったようです。 「確かに、私は主人の下から追放され、今は誰にも仕えていません。しかしなればこそ、主人を乱し、私を路頭に迷わせた事に対して、今ここで私刑を下しても構わないと、私が考えるかもしれませんが。」 「今も昔も、私は心に聞こえる主の声に従っている。主の声が、お前の手で死ねと、命じればそうなるだろう。」  結局男は、そんな度胸もないので、私の足を踏みつけて荒々しく去って行きました。内心、私は空っぽの自分の中身を見透かされやしないかと、冷や冷やしていたので、ほっとしていました。一体どこまで水を汲みに行ったのだろうと、私は指を玩びながら溜息をついたのです。暑いというよりも、こんな風に昔の男たちがまた来て、私は毎度毎度耐えられる気がしなかったのです。  しかし、余りに唐突に、その心配は払拭されました。私が鳩の羽ばたきのような音を耳にして振り向くと、息を切らせ、遠くから元気な若者が走って来たのです。私は驚いて隠れようとしましたが、その前に若者は私の手を取り、私が何者であるか確かめる前に抱きしめて、キスをしたのです。 「ああ、お会いしたかった! あなたなのですね、ルカニアの彼が言っていた最も小さい人というのは!」 「私には確かにルカニアの男と呼ばれる弟子が居り、この通り胴長短足ですが、私は貴方を知りません。」 「ええ、ぼくも貴方を知りません。鳩の姿を取られた神の使いが、貴方の所まで導いて下さったのです。」  私はこの人は神の子を称する悪魔憑きではないかと疑ってしまいました。余りにも嬉しそうに私の手を握りしめるからです。しかし、エルサレムにいるこの道の者であれば、私が嘗て、この町の、つまりここから歩いてすぐのところで何をしていたか、知っている筈なのです。このように喜び、ましてキスをするなんて考えられません。 「さあ、主の兄弟が待っておいでです。生憎主要な弟子の多くは今、他の所へ旅していますが、主の兄弟だけが、主に導かれてここに残っておいでだったのです。」  それはきっと嘘だと思いました。本当の所は、主要な弟子の内で一番屈強な者が、私と会い、見定めるつもりだったのでしょう。もしかしたら主要な弟子達は、兄弟子の事で私を殺そうとするかもしれません。私がまだ、疑っているということも知らず、若者は私の手を取り、引っ張っていきました。 

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