冠の男
第十七節 若長の前にて

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 アンティオキアを出発して、私は弟子を派遣したり、或いは伴ったりして2度の宣教旅行を行いました。その間私は、沢山書簡を書かせました。というのは、世の動向も非常に痛ましい物だったからです。サマリア人とユダヤ人の衝突があったこと、帝国の皇帝が史上類を見ないほどの悪辣な皇帝であったこと、救世主を騙る偽物が続出したことなどです。私は多くの教会を励まし、兄弟を派遣しました。最初の福音書が完成した事や、私自身の救いの体験を宣べ伝えて、人々が喜ばしい気持ちになるように努めたのです。私の右腕の弟子や、あのアンティオキアの騒動で引き合いに出された弟子も遠くに派遣し、私の傍には、愛弟子と、幾人かの弟子がついていました。  エフェソからエルサレムに到着した私たちを待っていたのは、若長を始めとするエルサレム教会の長老たちでした。もう若くもないけど、まだ若長と呼ばれてんだよ。などと、穏やかに笑う姿は、もう娘を嫁に行かせ、弟子を育て終えた貫禄がにじみ出ていました。初めて会った時から、もう二十年は経過していますから、お互い落ち着きが出て来たと言うものでしょう。 「よく来たな、お疲れ。早速だが早急に解決したい問題があるんでね。お前の話をよく聞かせてくれよ。」  私たちは喜んで、今まであったことを全て話しました。宣教旅行の事や、神の御業のこと、改心した人々の事、そしてそれらの多くが異邦人の間に起こったことを話しました。お恥ずかしい話ですが、異邦人宣教の先鋒と言われておりましたので、長老たちは皆目を輝かせて聞き入っておりました。 「それで、問題とはなんですか?」 「いやね、お前についての妙な噂だよ。『子供に割礼を施すな、慣習に従うな』と、まあ、昔ながらの秩序を乱しているとね。」  恐らくアンティオキアでの件が曲解されたのでしょう。噂とはそう言うものです。私が知る限り、正しい噂とは………。…思い出すと気が滅入るので止めておきます。 「それは違います。慣習に拘って異邦人を差別してはいけないと申し上げたのです。」 「そうだよな! それなら話は早い。ここに誓願を立てた奴が四人いるんだが、どうだ、明日にでも神殿に行って、慣習通り身を清めてくれないか。そうしたら根も葉もない噂だと分かる。」 「ええ、良いですよ。では清めの期間が終わったら、その様にしましょう。」  それで、その夜はお開きになりました。私は気になったので、若長の弟子たちに、最近の若長の様子を尋ねました。すると意外というかやはりというか、相変わらず血気盛んで、しょっちゅう弟子を怒鳴ったり、長老と大喧嘩をしたりしているとのことでした。しかし、夜や朝の祈りは、それはそれは熱心に、静かに潜るように祈るとのことで、私は少し安心したのです。 「若長、入っても構いませんか?」 「どうぞ。」  ほんの数年前は怯えながら入った部屋ですが、今はお互い老成した物で、若長は酒に逃げるわけでもなく、本当に静かに祈っていたようでした。 「こんな状況、前にもあったな。」 「覚えておいででしたか。」 「我ながら格好悪い所見せた自覚はあるからなあ。」  からから笑って、若長は、それで? と私に本題を促しました。 「若長は、もう何も怖くないのですね。」 「…………。いいや、そうでもないぜ。娘がまだ嫁いだばかりだし、下の子ももうすぐ婚約の時期になる。孫が生まれて、成人するのは…、早くてもあと十二年は先だ。」  まことに、若長は人間らしく激しい方でした。今でも、静かにしておられますが、その心の中を慮ることは、到底できません。 「でも不思議なことに、祈れば祈るほど…。違うな、祈った時、より深い魂の底に、あの方がいるような、そんな気がするんだ。小さい時は一緒にバカやったりもしたけど…。そんな幼馴染や家族とは違う、もっと深い場所で。」 「ええ、そのお気持ち、分かります。」 「そうか。お前も漸く気づけたんだな。」 「はい。長老が私を導いてくださいました。…お話というのは、それだけです。ご迷惑をおかけしましたので、けじめをつけようと。」  私が部屋を去ろうとすると、若長は私を呼び止めました。そして改めて、別れを言いました。  翌日、私は捕らえられました。といいますのは、どうやら民衆の中に、私が聖所に異邦人を連れ込んだと勘違いした人がいたらしく、また彼等は私が帝国の市民権を持っていることを知らなかったらしく、いきなり無作法に捕らえてきたのです。私は民衆がサタンに支配されているのを見ましたが、自分の意志で、サタンが私に触れたとき、弾き返すことが出来ました。暴徒となった民衆が私刑を加えようとしたとき、私はただ、この場に愛弟子がいなかったことを感謝し、天が裂けるのを待っていました。しかし、街が大混乱だというので、帝国の千人隊長が出てきて、またしても無作法に、私をいきなり捕らえました。 「一言お話してもよろしいでしょうか。」  兵営の中に黙って連れて行かれそうだったので、私が千人隊長に言うと、千人隊長は非常に驚いていました。私を誰か別の反乱を起こした者と間違えていたようです。私が出身地を言いますと、許可してくれましたので、私は階段の上に上がり、民衆を諌めました。この中に愛弟子が不安そうに此方を見ているのを見つけられました。それ以外の弟子は逃げてしまったか、報告に走ったかのどちらかのようです。私はその民衆の中に、サタンを感じました。また、兄弟子の姿も見つけました。しかし私は、凍り付く身体を芯から燃やして、私自身の体験を語りました。私がヘブライ語で、皆さん、と呼びかけると、民衆は静かになりました。 

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