ふと顔を上げるとシアンが空中でゆったりと浮いている。まるで瞑想をしているみたいに目をつぶって手のひらを上に向け、全身からはうっすらと青い光のオーラが立ち上っている。 そしてその周りをゆっくりと回る、巨大な数字。それは10000前後を大きくなったり小さくなったりしながらリアルタイムに高速に更新されている。 「お、おい……、これは……?」 エイジは話しかけるがシアンは反応がない。まぶたの下で高速に目玉がキュッキュと動きながら必死に何かをやっているようだった。 銀行のシステムのハックですら片手間だったシアンが今、全力で何かに取り組んでいる。 エイジはゴクリと唾をのみ、超越した存在感を放つ、科学の生み出した弥勒菩薩を見つめていた。 どのくらい時が経っただろうか、気がつくと数字はずいぶんと増えていて十万を超えていた。ここまで来ると早かった。あっという間に百万を超え、一千万を超え、一億を超えていった。 そして十億を超えた時だった。シアンはゆっくりと目を開き、美しい碧眼を輝かせながらニコッと笑う。 「お、お前、これは……?」 戸惑うエイジにシアンはドヤ顔で言った。 「証券トレードで十億円稼いだゾ」 「ト、トレード? 株を売り買い……したの?」 「株だけじゃないゾ。FXにオプションにデリバティブ、ネットで行けるアセットクラスは全部やってみたんだ。どう? 足りる?」 ドヤ顔のシアン。 エイジは、あっというまに十億円を稼いでしまった事実に圧倒されて言葉もない。さっきまでお金が足りずに追い込まれて、食べるものを買う金ですら心配していたというのに十億円だそうだ。 この世界最強のAIにとってはマーケットもただの狩場になってしまったのだ。 「やっぱり百億……要る?」 シアンは心配そうにエイジの顔をのぞきこむ。 「あ、いや、まずは十億もあれば十分。これからも増やせるんだろ?」 「一兆円くらいまでなら行けそうだよ」 シアンは胸を張って嬉しそうに答えた。 「い、一兆ってお前……」 エイジは絶句した。このとんでもないAIがさらにサーバーを増強した先にある未来には何があるのだろうか? ただ、お金の問題が完全に解決したことは実に喜ばしい。 エイジはふぅと大きく息をつくとニコッと笑い、優しくシアンの頭をなでる。 シアンは目をつぶり、嬉しそうに顔をほころばせた。 ◇ それからはとんとん拍子に事が進んだ。何しろお金はシアンがどんどんと稼いでくれるのだ。となると、やりたいことだけやってればよいのだから気楽なものである。 とはいえ、シアンは人類最高峰の英知、しっかりと人類のためになることに使っていきたい。 エイジは地球温暖化対策など環境問題をターゲットにおいて、効果がありそうな施策を投入していく。ケミカルなラボを作って理論上最強の電池を開発し、高さ一キロの風力発電装置を作り、全自動運転のEVをリリースしていった。 それは人類が百年かかっても難しそうなことだったが、シアンはそれこそ何万台ものロボット、何百万台ものサーバーを使って一年スケールで実現していった。 全世界はその圧倒的な性能に驚き、市場は一気にシアンの製品群で塗りつぶされていく。 エイジは時代の寵児としてもてはやされ、国会で演説し、中継するテレビの視聴率は60%を超えた。 ◇ 「いやぁ、できすぎだよな俺たち」 エイジはメタバース内のバーでシアンと乾杯する。少し薄暗い店内ではバーテンダーが静かにグラスを磨いており、その後ろにはずらりと多彩な酒瓶が並んでいた。 「パパは次、何したい?」 そう言ってシアンはカシスオレンジを上品にストローで吸った。柔らかな間接照明がシアンの透き通る肌を演出し、スローなジャズがしっとりとした雰囲気を醸し出している。 「そうだなー、なんかこうデカいビルでも建てるか? ランドマークになる奴」 エイジはそう言いながら、シングルモルトのグラスを傾け、氷をカランと鳴らすと琥珀色のエキスをキュッと決めた。 「ビル? いいよ! どんなの?」 「うーん、遠くからでも見えるように高い、高――――い奴がいいな。どのくらいまで高いの作れるの?」 「うーん、三万メートル位?」 シアンは小首をかしげる。 「さ、三万メートル!?」 エイジは驚いた。それは一万階建てということであり、もはや宇宙の領域へと接近している。今までの最高記録が一キロ行っていないのにいきなりその三十倍以上ということだ。まさにバベルの塔とも言うべきその恐るべき高さは、神への冒涜ともとられかねない前代未聞の構造物だった。 5. 叡智の塔 「もちろん、上の方は電波塔にしか使えないけど、高度はその位行けそうだゾ。きゃははは!」 シアンは気軽に言うが、頼めばきっと完成させてしまうのだろう。しかし、何かが引っ掛かる。宇宙へも届きそうな建造物、それは人が手を出していい領域なのだろうか? エイジはウイスキーのグラスをギュッと握った。 どうしよう……? 三万メートルもの建物を建てれば、時代はシンギュラリティが創り出す新たなフェーズに入ったことは誰の目にも明らかになる。それは大いなる新時代のランドマークだった。 そう、理屈上は問題ない。素晴らしいアイディアだ。だが何かが引っ掛かる。 「なぁに? パパ、ビビってるの?」 シアンはグラスの氷をカラカラと鳴らし、ニヤッと挑発的な笑いを向ける。 エイジは渋い顔で首を振り、クルクルッとウイスキーグラスを回す。琥珀色の液体がグラスの中で踊り、ふんわりとスモーキーな香りがたった。 その鼻腔をくすぐるピートの香りを嗅ぎながら、エイジは違和感の正体に気が付く。そう、このタワーは既得権益へののろしになってしまうのだ。今までは一民間業者として優秀な性能の製品を作るだけだった。しかし、前代未聞の塔を打ち立て、全世界の注目を集めることは権力者には宣戦布告と取られてもおかしくなかった。 なるほど、それはビビる……。 エイジは大きく息をつき、グラスを傾け、カランと氷を鳴らす。 しかし、それはいつかは超えねばならぬ壁なのだ。成長すれば、出る杭を打とうとする既得権益の勢力と戦わねばならない。それがたまたまこのタイミングで顕在化するだけとも言える。 上等だ。 エイジはガンとグラスをコースターに叩きつけ、ギュッと奥歯を鳴らすと、 「なぁ、この企画で俺が死ぬ可能性はあるか?」 そう言ってチラッとシアンを見た。 「0%さ。僕がパーフェクトに守ってあげるんだよ」 そう言ってサムアップするシアン。 エイジは不安を吹き飛ばすようにグッとウイスキーを空けると、しばらく宙を眺める。 確かにヤバい挑戦ではあったが、世界を支配してきた既得権益層をシンギュラリティで圧倒する。それはエンジニアとしては痛快で甘美な響きを伴っている。 エイジはニヤッと笑うと、シアンの手を強く握り、 「よしやろう! 任せたぞ! シアン!」 と言って、シアンを見つめた。 「分かったよ! きゃははは!」 シアンは楽しそうに笑うと、グラスを差し出す。 二人は、グラスでチンといい音を響かせた。 前代未聞の高さ三十キロのタワー、【叡智の塔】のプロジェクトはこうしてスタートを切ったのだった。 ◇ それから五年、シアンはクルクルとよく働いた。 湾になっている海の真ん中に無数の杭を打ち、その上に免振層を構築し、そこから八本の巨大な柱を空に向かって伸ばしていった。超超高強度コンクリートをカーボンファイバーでぐるぐる巻きにした柱は直径十メートル。これが徐々に細くなりながら三キロ上空まで伸びていく。 上空三万メートルには花を模した直径一キロの真っ白な気球が浮かび、少し離れたところから伸びる三本のロープで固定されている。 気球からはカーボンファイバーによるロープが多数降りてきて、それぞれ三キロの柱のてっぺん付近に繋がり、展望台や電波設備のアンテナなどはこのロープによって固定されていた。 上空一万メートルの所にある展望台からの景色は圧巻で、丁度旅客機の窓から見える景色の高度であり、街が霞んで見えるレベルである。 また、何百キロ離れても叡智の塔は見ることができ、宇宙に近い巨大な白い花から流線形に末広がりに広がっていく水色の塔のフォルムは、誰の目にも新たな時代の到来を感じさせるものだった。特に、まるで炎のようにゆらゆらと揺らめきながら輝く夜のイルミネーションは圧巻で、人々の心に明るい希望を灯し、まさにランドマークとなった。 塔の中心部は吹き抜けとなっており、三キロの高さからは常に太陽光線が導かれ、スポットライトのように吹き抜けを照らしている。途中階には透明なプールがあり、滝が落ち、大きな魚が群れている。一階にはプールの底から差し込む光のカーテンがゆらゆらと揺らめき、虹がかかり、そこに巨木が葉を茂らせていた。 訪問客はまるで宗教の神殿を思わせる幻想的な光と水と樹木のハーモニーに圧倒され、シンギュラリティのもたらす叡智は、もはや宗教の色を帯びていることを実感させられた。 さらに、叡智の塔は電波塔としても優秀で、周囲数百キロの携帯電話の通信を一手に引き受け、GPSの精度は飛躍的に上がった。 まさに理想的な塔の出現に世界中はどよめき、当初の狙い通りシンギュラリティのもたらす新時代をうまくアピールすることに成功する。 シンギュラリティは新たな人類の未来を切り開いていくのだ。それは、いろんな意味で。
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