フローズン・ハードボイルド・エッグ
フローズン・ハードボイルド・エッグ 前編

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 階段を登り切った先は雪国だった。  うんざりするほどに積もった雪は、昨晩からの新雪だけで膝上まで届いている。  ヘッドフォンに垂れ流しのウェブ・ラジオは、今年の雪まつりも心配なさそうなんて嬉しそうだけど、ぼくの記憶にある限り雪が足りなかったことなんてなかった。  雪が降ったって、今どきの子供は大して喜びもしない。こんな不便極まりない季節を喜ぶのは大人ばかりだ。  大人たちの言うことには、ぼくたちが生まれる前、この星はゆだってしまいそうだったのだという。  そう言われるとぼくは、宇宙空間に浮かんだ、つるんと白い肌をさらす固ゆで卵を想像してしまう。  地球温暖化という言葉は、その頃なにかと折に触れては口にされていたらしい。  一方では際限なく物を燃やしながら、一方では涙ぐましくもプラスチックを減らそうとしたとか、してないとか。地球がゆだることとコンビニのプラスチック・スプーンにどういう関係があるんだか、ぼくは知らないけど。  若者のご多分にもれず歴史にうといぼくには、そのあたりのことはとんとわからない。正直あんまり興味もない。  そういう足並みのそろわない対策に、実際どれほどの効果があったかというのも、もう誰にもわからない。  まいた種が実を結ぶ前に、あっさりと地球は冷まされてしまったからだった。  マフラーに鼻先をうずめて、肌寒さに縮こまりながら、ぼくはそのことに感謝すべきかどうかを、ちょっと迷う。  大人たちが「冬らしい冬」と呼んで喜ぶこの季節は、ぼくら世代からすればわずらわしいだけでしかない。寒さを喜ぶなんて、意味が分からない。  家から出たくないほどに冷えた地球というものは、おかげで何百年か人類の寿命を延ばしたらしいけど、それも一体どこまで正確な計算か知れたものじゃない。  はあ、ともれかけた溜息を呑み下す。  溜息をつくと幸せが逃げるらしいし、何より体温が逃げる。  三十六度七分の体温を逃がさないように、ぼくはちょこちょこと氷の上を急いだ。  駅から徒歩十二分、微妙な距離の安アパートの前で、先輩は一人ぽつねんとたたずんでいた。ぼくを見つけた瞬間に両手をあげてぶんぶんと振り回すので、大型犬を思い浮かべてしまう。 『やあやあやあ! 待ってたよ! 待ちわびてたよ!』 「お待たせしました」 『朝五時から待ってたよ!』 「待ちすぎです」  時計を見れば午前十時十分。約束の時間の二十分前なんだけど。  機械越しの少しかすれる声に肩をすくめて、ぼくは自販機で買ったホット・ココアを差し出す。 「小さいですけど、どうぞ」 『わあ! ありがとうね! すぐ食べちゃうからね!』  先輩は缶を受け取ると、口元に運んだ。  その食事に伴う音を、ぼくはいまだに表現しかねている。すぽんとなにかを吸い込んでしまうような、そんな軽い音。でもそれは耳に聞こえるわけもない。聞こえるような気がする。そんな何かだ。  そんな軽い音で、一八五グラムのホット・ココアは何かを失ってしまった。 『ごちそうさま! おいしかったよ!』 「おそまつさまでした」  未開封のまま帰ってきたココアは、ものの見事に冷え切って、手袋越しにも冷たい。  かしゅっと開けて一口飲んでみると、小走りで火照った体に心地よい……よりもちょっとだけ身体に悪そうな冷たさが喉を流れ落ちていく。  いや正直大分体に悪い冷たさだなこれ。先輩は結構お腹を空かせてたみたいだ。  渋い顔のぼくを、先輩は子犬でも愛でるかのようにわしゃわしゃと撫でまわす。ひんやりした不思議な質感が、ぼくの髪をぼさぼさにしていく。 『んふふー。後輩ちゃんはちびっちゃくてかわいいね。あったかいあったかい』 「先輩がでかいんですよ。あとひゃっこいんで止めてください」  先輩は、大きい。先輩からしたら小柄なぼくは確かに子犬みたいなもんだろう。  古い映画で見た宇宙服みたいな断熱スーツは、もこもこと着ぶくれたようだ。ギリギリ人間サイズだけど、これでもちょっときゅうくつらしい。  金魚鉢みたいなヘルメットは、中身を見通せない不思議な銀色。手袋はちゃんと五本指だけど、関節はちょっと怪しい。  一応人間の形をして、人間みたいに振舞うけど、その中身がどんな形で、どんな生き物なのかを、ぼくは、ぼくたちは知らない。人間の目では見ることができないとか、見てしまうと失明するとか、そんな話が、ネットにもたまに流れる。  先輩たちは、ぼくたちの知らないどこか遠い星から来た人たちだった。  地球を侵略しに来たわけでもなく、まして観光に来たわけでもない宇宙人たちの目的はただ一つ、「暖かさ」を食べに来た。らしい。  熱食人とか、ヒーティヴォアとか、いろんな呼び方をされているこの隣人は、ゆだった地球にやってきて、「ちょっと食べさせて」ってお願いしに来た。らしい。  この人たちは砂漠とか火山とか、あったかそうなところに散り散りに飛んで、それで「暖かさ」をもしゃもしゃした。らしい。  ちょっと間抜けな表現だけど、当事者によればそういうこと、らしい。  ぱくぱくして、もぐもぐして、それでごくんと飲み込んで、長旅ですっかり空腹だったのが収まった頃には、地球の平均気温は一度ほど下がった。らしい。  それから彼らは人類の排出する熱をぱくぱくして共生することになった。らしい。  それがぼくたちの生まれる前の話。  いまじゃあ大きめの町には、たいてい何人かは熱食人が住んでいるらしいし、熱帯では環境改善を目的に組織的に活動している。らしい。  なんだかアニメのような話だけれど、それもやっぱり物心ついた時から当たり前のぼくらには、あんまり興味もないことだ。  精々がちょっと物珍しがる程度のことで、さわぐようなことでもない。  先輩で言えば、普通にアパート借りて住んでて、出歩く範囲だってわかってるんだから、珍しさという点だけで言えば熊の方が珍しい。そして危ない。  言葉も通じて、その辺を普通に散歩してて、気軽に写真も撮らせてくれて、なんならSNSのアカウントも持ってるからそれにアップしたり。不愛想なぼくよりよほど世間様に馴染んでるんじゃなかろうか。  今日だって、この映画好きの宇宙人は、サービスデーを狙って映画を観に行こうとしている。それもいまだに地下街で迷うので後輩に道案内をさせて。それに乗っかるぼくがどうこう言う話でもないけど。 『いやー、木曜日っていいよね! ワタシは一週間のうちで一番好きかも!』 「前は金曜日って言ってませんでしたか」 『ガッコーあるときはね! 冬休みは毎日お休みだからまた別だよね!』 「また普通の高校生みたいなことを……」  まあ、みたいなもなにも、先輩はこんななりをしていながら、現役の高校生なのだった。同じく現役の高校生であるぼくの、本当に文字通りの先輩なのだった。  宇宙人なんて言っちゃったけど、先輩は実は地球生まれ地球育ちの、本籍地も住民票に載ってる地元民なのだ。いわゆる二世だ。今年で十七歳。誕生日はお祝いもした。  なにしろ最初の隣人たちがやってきたのは僕たちの生まれる前の話だ。ご飯食べて寝どこも整えば、殖える生き物ならそりゃ殖えもするだろう。だからこそ、いまじゃそんなに珍しくないわけで。  戸籍もあれば、義務教育も受けるし、親御さんは税金だって納めてる。選挙権は、どうだったかな。あるのかもしれない。  先輩も、だから地下鉄に乗る時は通学定期やICカードでちゃんと料金を払うし、たまにより割と高頻度で残高不足で改札に引っかかる。自転車の二人乗りをしておまわりさんに叱られたりもする。普通だ。  学校でも、遅刻して叱られたり、授業中に居眠りして叱られたり、プリント忘れて叱られたり、試験勉強が絶望的で後輩のぼくに泣きついたりする。普通と言えば普通。  普通ではないのに、普通ではないけど、なんだか気の抜けるほどに普通な先輩の隣は、まあまあに居心地がいい。  ぼくは関節の怪しい先輩の手を取って、来た道を取って返す。  ほぼ一本道の道のりだけど、先輩はこの時期、道がわからなくなる。  冬限定の方向音痴は、先輩だけでなく、熱食人の人たちに共通のことらしかった。 『だって、雪積もったらわかんなくない?』 「まあ真っ白にはなりますけど……」 『ワタシたちには一大事なんだよなー』  先輩たちは、熱を食べる生き物なので、熱が見えるらしい。  なのでその熱が雪ですっかり覆われてしまうと、ぼくたち人間以上に世界が様変わりして見えるらしい。 「まあ、雪って断熱性高いらしいですしね」 『それに暖房つけるべ? したらそっちが目立っちゃってさー』 「まあ、わかるような、わかんないような」  でも先輩が焼き芋屋さんに吸い寄せられるのは、そういう理由なのかもしれない。先輩は食いしん坊なのだ。  半端な時間だからか半端な込み具合の地下鉄は、うまいこと並んで席に座れた。  お馴染みの路線だから、そんなに目立たない。たまに物珍し気な人もいるけど、それはちょっと派手な格好をしたり、変わった服装をしていても同じこと。  すごくたまにプライバシーなんて気にせずスマホのカメラを向けてくる人もいるけど、先輩はすぐに振り向いてピースサインでアピールする。ぼくの顔がうまいこと隠れるようにして。本人はあくまでもはしゃいでる感じに振舞っているので、ぼくはいまもそれにお礼を言えていない。 「先輩、よく気付きますよね」 『カメラ? そりゃね。眩しいもん』 「フラッシュ焚いてました?」 『ううん?』  ぼくは知らなかったけど、スマホのカメラは赤外線を出しているらしい。ぼくたち人間には見えないけど、先輩には見えるので、カメラにすぐに気づくんだそうだ。 『猫も見えるらしいよ』 「ああ、だから撮らせてくれないんですね」 『それは普通に挙動不審だからだと思う』 「えっ」 「えっ」  ぼくが猫を前に挙動不審かどうかはともかく、にゃあと猫の真似をする先輩も大概だ。名状しがたい奇行だ。ぼくは赤外線に反応する先輩を何枚か記録しておいた。  地下鉄を降り、残高不足だった先輩を蹴りつけ、駅ビルに向かう頃には人も多くなっていた。  映画の時間まではまだあったので、ぼくたちは地下街をちょっとぶらっとした。  地元民なのに、先輩は土産屋が好きだ。いやまあ土産屋に売ってるものって、地元民ほど見たことがないものも多いけど。  ぼくも「クマ出没」みたいなのは好きだ。かわいい。しかし理解はされない。なぜだ。  先輩はお菓子なんかは食べないので、パッケージを見て面白がるだけ。変なTシャツも着れないけど、気に入ったやつは買って、ぼくに着せようとする。先輩のセンスは独特なので、ぼくはたまにしか着ない。  逆によく買うのは、ぬいぐるみの類だ。キーホルダーになるような小さい奴は、多分このあたりのはほぼほぼコンプリートしてるし、抱きかかえるような大きなものもたまに買う。邪魔なだけだろうに、本人はちゃんと考えているらしい。  その考えた結果、先輩の部屋は平面上だけでなく三次元的にも埋もれかけている。  先輩の家に遊びに行くと、これらのぬいぐるみの間にうまいこと腰を下ろさなければならない。  特にお気に入りは白黒が逆になったパンダみたいなやつだ。一番でかいのは、ぼくが脚の間に座って背もたれにできるくらいだった。ぼくが小さいわけではない。

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