アキは、地下通路から巨大ショッピングモールに入ったところで、空に初めての音声通話をかける。 駅から向かう道の途中で迷うとしたら、この辺のはずだ。 しかしモールの中は人で溢れていて、見渡すくらいでは見つけられそうにない。 ……私からの電話に、空さんは出てくれるだろうか。 スマホに表示されている時計は、すでに集合時間を過ぎている。 今頃撮影が始まっているかも知れない。 私達の出番は五番目だ。 一刻も早く戻らなければ、ミモザが待っている……。 「空さんお願い、電話に出て……っっ」 数コールの後、プツと微かな音がした。 「も、もしもし……」 ハッとアキは顔を上げる。 この空間に、確かに今耳元で聞こえたのと同じイケボの気配がある。 「空さんっ今どこに……」 「ええ、と、噴水がある所を通り過ぎたとこで……」 噴水!! それで声がはっきり聞こえなかったんだ。 噴水ならこっち……!! アキは全力で走りながら告げる。 「『おはようございます』って言ってくださいっ」 「え……?」 「早くっ! 大きな声でっ!!」 「お、おはようございますっ!!」 ああ、聞き慣れたイケボだ。この声を私は絶対に聞き逃すはずがない。 声はこっちから!! アキは人混みの中で振り返る。 遥か遠くに、人の波に埋もれる空の姿があった。 まだずいぶん離れていて、空はこちらに気付かない。 アキは心の底から空を呼んだ。 「空さんっっっっ!! こっちですっ!!!」 アキの大きな大きな声に、切実な響きに、道ゆく人々が足を止めて何事かと振り返る。 皆の視線がアキに向かえば、そこに一本の道ができた。 真っ直ぐな道を、空が真っ直ぐアキの元へ走る。 アキは空の手を取ると、元来た道を駆け出した。 「あ、……の、僕……っ」 空が、上がる息の合間から何か伝えようとする。 「時間がないので、話は後です!」 アキは振り返らずに走る。 空は足の速いアキについていくので精一杯で、返事すらできずにいた。 地下道から抜ける階段を駆け上がり、開けた石畳を駆け抜けて、ようやくテレビ局へ続くエスカレーターに乗る。 階段もないエスカレーターは人がいっぱいで合間を抜けることもできそうにない。 そこでようやくアキは振り返った。 「空さん、私が歌うとこ、見ててくださいね!」 アキの顔は、これから歌う事への期待でキラキラしている。 空は、息をするので精一杯だったが、荒い息の合間からなんとかこれだけ伝えた。 「僕も、あの曲には……、僕の想いを、いっぱい……込めたから。アキさんに……歌って、ほしい……」 「任せてください!」 ぐっと力こぶを作るような仕草でアキが笑う。 やっぱり彼女はこんなに眩しい。 僕を見て彼女がどう思ったかなんて事は、もうすっかりどうでも良くなっていた。 「もう後ちょっと、走りますよーっ」 言われて、空は震える膝に精一杯力を込める。 彼女は胸を張って前を向いて、僕を支えるように僕の手を握る手にぎゅっと力を込めた。 そうだ。 彼女は最初から、僕にそんなことを求めてはいなかったんだ。 気の利いた言葉とか、僕の姿とか、そんなことはどうでもよくて。 僕が彼女に渡すべきなのは、僕の心をいっぱい詰めた音だけで十分だったんだ。 彼女が好きだと言ってくれた僕の最高の音楽を、彼女に届けられればそれで。 それなら……それだけなら、僕はちゃんとできた。 この音楽は、今の僕にできる最高の仕上がりになっている。 心が何かでいっぱいになって、どこまでも走れそうな気分になる。 「空ーっ」 「アキちゃーんっ早くぅーっ」 微かな声に頭上を見上げれば、手すりから身を乗り出すようにして二人が手を振っていた。 「待っててーっ。今行くからーっ!!」 アキの大きな声に、周りの人達が片側に寄るようにして道を作る。 「あっ、ありがとーございまーすっ。助かりますーーっ!」 アキは空の手を引いたまま、エスカレーターをぐんぐん駆け上がった。
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