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 カイが目を覚ますと、そこはエレナの膝の上だった。一瞬どこだかはわからなかったが、見慣れた猫の顔が寂しげに自分を覗いていることに気付いた。 「エレナ……」  カイが声を出すと、エレナは無の顔のままスッと立ち上がり、カイの頭はしこたま床へとぶつかる。綺麗に磨き上げられた大理石が、一撃必殺といえるほどのダメージをカイに与えることに成功した。 「いってぇなぁ……何すんだよ」  カイが頭を押さえ、目には涙を浮かべている。声を荒げるのも無理からぬことだ。  だがしかし、それ以上にエレナが恥ずかしいと感じることもある程度理解はできる。グレイソンは中立的に二人のことを眺めていた。 「起きたようだね、カイくん。良かったですよ。エレナさんがそれはそれは心配されていたものですからね」  グレイソンが意地悪く優しい顔で伝える。 「誰がっ。カイは殺しても死なないような奴だからね。心配なんかしてないよ。ただ、あんたのようなおかしな輩にカイをオモチャにされたくなかっただけ」 「オモチャとは心外ですね。私はカイくんのこともエレナさんのことも、心から丁重におもてなし差し上げているというのに」  意識が戻ってきたばかりのカイには、二人がどうしてここまで険悪なムードになっているのかがよくわかってはいない。しかし、エレナが理由なく憤るはずがない。カイはそう信じる。カイは、そっとエレナの横に立つ。  はぁ、とグレイソンが静かに溜息を吐いた。どうやら随分と嫌われてしまったようだと首を頭を横に振り、嘆く。 「私の偉大なる試みをきちんとご理解いただけていないようだ」 「何が『偉大なる』よ。自分で言う程チープなことはないわね。あなたの目的は……トゥルーマンの存在意義は、人間を乗っ取ること。人類の進化がAIとの共生だなんてバカげている。そんなことできっこない。あなた達は人類の滅亡を招こうとしている厄災よ」  カイはエレナを横目で見る。エレナの言う「AIとの共生」という発言を、この場にいない人々ならば鼻で笑うだろう。しかし、カイもエレナも現実にAIが自身の体の中に棲みついてしまっている。  エレナの発言を否定せずに最後まで聞いていたグレイソンは、相変わらず静かな微笑みをたたえている。それから、わがままな子供を諭すかのように優しく話す。 「人類を滅亡させようだなんて、そんなこと思ってはいませんよ。ただ、置き換わるだけですよ。古きものから新しいものへと」 「何を寝ぼけたことを言っているの。世界を……人類を壊そうとしているじゃない」 「破壊ではありません。変革です。生物の進化が突然の変異から発生するように、社会や人間も進化すべきなのです。そのために、AIが必要なのです。先にも申し上げた通り、人類から悪癖を取り除かなくてはなりません」  それにね、とグレイソンは続ける。その声は優しく諭すそれから一変し、厳しく攻める大人のそれになる。 「科学者たるもの、『バカげている』『そんなことできっこない』などという言葉は使うものではないのですよ、お嬢さん。希望と期待を否定しては、前進などできるはずがない」  グレイソンが初めて声を荒げた。そうして、オホンと咳払いを入れると、再び柔和な声で話を続ける。 「君らもより高みを目指すならば、否定的な思考から脱却することをオススメしますよ。できない理由を探すよりも、実現するための方法を模索するべきなのです」  その言に圧倒されるかと思いきや、エレナは折れることがなかった。 「詭弁ね……自身の行為を無批判に肯定しているだけじゃない。自己批判をしないことは思考停止と同じだわ」  パチパチパチという音が聞こえた。グレイソンが静かに拍手をしていた音だ。 「ふふふ。賢いお嬢さんだ。グーグーをお預けして良かったですよ。あの子は、少しだけおとぼけな子ですからね」 「うにゃにゃー。褒められてはいにゃいきがするにゃあ」  エレナの頭の中に寝惚けた猫の鳴き声が聞こえる。おとぼけか、とエレナは苦笑する。 「しかしね、エレナさん。だからいって、実験を止める訳にはいかないのですよ。人類の進化と進歩を私は誰よりも望み、そのための手段を適切に講じているだけなのですから」 「……あなたを止めるためには、物理に頼るしかないということね」 「ふふふ。エレナさんには大変申し訳ないのですが、残念ながら物理ですら私を止めることはできませんよ。正確に言えば、もう止められないということですけれど」  その言葉にエレナはハッとする。はめられた。ニュースサイトへアクセスしようとするが失敗する。アクセスに制限がかけられている。しまった。 「まさか、時間稼ぎだったってことなの」 「正解です。さぁ、お答えするのはもう一問だけにしましょう。私も忙しくてね。早く戻るよう恐ろしい秘書に呼ばれているもので」  アクセスをこじ開けること自体はエレナならば可能だろう。しかし、その鍵を開ける時間すら惜しい。こうなれば推測でしかないが、グレイソンにぶつけることにする。何を問えば、グレイソンの腹の底を探ることができる。何を言えば、アタシたちのなすべきことを見つけることができる。エレナの頭は、最大ギアで高速に回っていた。 「……どうして、トゥルーマンを社会に放ったの」 「さすがの洞察力ですね。ここからは他のサイトへ接続できないようにしていたのですが」  カイも話の展開にかろうじて食らい付く。グレイソンの野望が本格的に始動したということなのだろう。 「正解を導き出したエレナさんには、特別にプレゼントを差し上げましょう」  グレイソンはそう言うと「マティ」と言いながら両手をパンパンと叩き、「例の物をここへ」と伝える。 「何、例の物って……」 「ふふふ。プレゼント、ですよ。クイズの正解者には、贈り物があると相場が決まっているではないですか」  初めからこうなることを予想していた展開だ。全ては仕組まれていたことなのだろう。カイがレイラと融合することも、エレナがここでグレイソンに楯突くことも。 「全てはお見通しだということね……」 「行動データがあり、計算できるコンピュータが存在する。正解データに照らし合わせれば、人間の行動を予測するなどヨーグルトを握りつぶすくらいに容易いことですよ」  「T」の個人情報といえば、膨大な数に登る。行動ログだけではなく、生年月日から住所、果てはカードに紐付く購買ログから、役所の届出情報なども「T」を介している。この中にあるデータは、個人の生きている証であることは間違いない。  エレナはその事実を思い直し、冷や汗が背中へと伝わる。「T」に入り浸るのも考えものね。  するとそこへ、いかにもエリート然としたスーツ姿の人物が現れる。カイはその人物のことを知っている。カイがルードラ山脈で閃光と出逢った翌日に、不穏な呼び出しをかけた人物だ。  その達磨のような顔に髭を生やした見るからに厳しい男という様相の彼女は、エレナにもカイにも一瞥もすることなく、グレイソンの元へと歩み寄る。 「グレイソン様。こちらお持ちいたしました」 「ありがとう、マティ」  マティは品物をグレイソンへと手渡す。それは封筒のようだが、中身は薄そうだ。それから、グレイソンにのみ恭しく礼をすると、静かに扉の向こうへと消えて行った。マティの所作には生気が感じられない。まるで幽霊のようだとカイは思う。 「さて、カイくん。エレナさん。この中にあるのは、とある真実が隠されたマイクロチップです」  グレイソンは相変わらずパフォーマンスじみた動きで、封筒を見せびらかす。 「このチップをお二人へ託しましょう。もしもこの世の真実を暴きたくなったならば、このチップを解析してみると良いでしょう」  グレイソンはチップの入っている封筒をエレナへと手渡す。グレイソンはカイに渡す予定だったが、カイが手を上げてエレナへと促すので、それに従ったまでだ。 「この中に真実があると言い切れるの」  エレナはグレイソンを睨みつけるようにして見る。そんなエレナをグレイソンはにこやかに眺めている。 「何が真実かを探すことが真実になるのではないですか、エレナさん。答えを他人に求めているだけでは、真実には辿り着けませんよ。さて、私はマティが待っているので、そろそろお暇させていただきますね。お戻りは——」  グレイソンがその瞬間に指を鳴らすと、カイとエレナの足元に人間大の穴が開いた。ブラックホールのように漆黒の円が二人を飲み込む。 「弊社一階入り口までの直通便です」  グレイソンはそう言いながら、ゆっくりと頭を下げる。礼をするというよりも、落ちていく二人を眺めたかったという顔をしていた。 「この野郎ぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」というカイの声が虚しく暗闇に響いた。  ドスン。ストン。  カイとエレナの二人が落ちた先は、先程も訪れたこの建物の一階エントランスの真っ只中だった。引き続き誰もいない伽藍堂の空間に二人の落下音が響き渡った。  大袈裟にお尻を打ったエレナは「イチチチチチ」とお尻を撫でる。しかし、あの高さから落ちても「痛い」程度で済むのは、さすがバーチャル世界だと言える。しかし、「痛い」を頭脳からの信号で体感できるということがそもそも凄いことなのだろう。  一方のカイは何一つ怪我をすることなく、綺麗に足から着地をする。 「さて、これからどうする」 「その前に、痛がるレディを労りなさいよ」 「……で、どうする」  エレナは「無視かよ」と言いながらもお尻を撫でている。それから、深く溜息を吐く。 「リベンジしかないでしょ」  エレナは当たり前のようにその言葉を口にする。「やるのにゃー」と猫もなぜかエレナに同意をする。自らの主を倒すことを良しとするのか。不思議な猫だ。そして、猫同様にカイも乗ってくる。エレナはそう思っていた。 「……無理だろ」  カイから返って来た言葉を、エレナは瞬時に理解することができなかった。 「あんな狂った奴、どうやって相手にするんだよ。しかも、この会社の社長なんだろ。世界を牛耳る大企業の。勝てる訳がない」  カイの言葉が続く。しかし、そこにエレナの求めていた言葉は出て来なかった。猫ですら肯定してくれたのに。 「どうして……カイは、いつだってどんなゲームにも果敢に挑戦していったじゃない。それがあなたのプレイスタイルでしょう」 「——じゃないんだって……」  カイがポツリと溢す。その言葉をエレナは捉えることができなかった。エレナはそのまま黙る。 「ゲームじゃないんだって。これは現実なんだよ。負けたら終わりだ。ゲームオーバーじゃない。ジ・エンドなんだよ」 「……本気で言っているの」 「むしろ、どうやったらあんな奴にリベンジなんてできるんだよ」  カイの言うことが正しい。勝てる見込みはない。少なくとも今のところは。エレナもそれはわかっている。勝てない試合だとわかっていて、舞台に上がることが非合理だというのもわかる。そもそも勝ちがあるのかどうかすらもわからない。 「でも……このままで良いなんてことはないでしょう」  エレナがカイに詰め寄る。そのまま胸ぐらでも掴みかかりそうな勢いだ。  しかし、カイはその勢いに呑まれることはなかった。努めて冷静に今後の状況を把握していた。 「俺たちは、もう戻れないんだ」  その声は失望も絶望も怒りも希望も何もなかった。ただ感情のない平坦な音質が流れているだけだった。少なくともエレナにはそう聞こえた。 「俺はレイラを。エレナは猫を。奴らを抱えて生きていくしかないんだ」  それは、と言いかけて、エレナは言葉に詰まる。その通りでしかない。今のアタシたちにトゥルーマンを退ける力はない。エレナは、少しだけカイから離れる。 「だからさ……だから、もういいんだ」  カイはもう諦めると言った。この件には、もう足を踏み入れるつもりがないと断言をした。  しかし、エレナにはまだ解明できていない謎がある。それも無数にある。エレナは握りしめていた封筒に視線を落とす。 「何が良いって言うの」  エレナは信じていた。カイが何度でも挑戦をするとうことを。エレナは信じていた。カイと共に歩む未来を。そして、気づいてしまった。それが自分のエゴであったことに。 それでも、エレナは言う。エゴを押し付ける。 「何も解決されてないじゃない。せっかくここまで来たのに。ここまで来たのはアタシたちしかいないのに。グレイソンを、トゥルーマンを、そのままにして良いって言うの。こんなのほっといたら、世界の危機——」  エレナの言葉を遮るようにして、「だから」と苛立たしげにカイは言う。 「それでいいって言ってんだろ。俺がどうして世界なんてもんを相手にしなきゃいけないんだよ。俺はただのデバッカーでゲーマー。それだけなんだよ。天才ウィザードと言われるエレナとは違うんだよ……」  雨に打たれたわけでもないが、エレナの顔は水滴で濡れていた。 「フラれちゃったにゃー。ジ・エンド。終わりにゃのにゃ」  猫が茶化す。エレナは立ち尽くす。意識が抜けてしまったかのように、手元に握っていた封筒を落とす。 「悪いな……」  そう言うとカイはログオフをする。今までは逃げることのできなかった世界から、逃げることのできる現実へと還る。 「まぁまぁ、そう落ち込むにゃよ。ボクが一緒にいてあげるんだからにゃ」  猫がポンポンとエレナの頭を優しく叩く。そんなイメージが脳内で沸き起こる。  エレナは落としていた封筒を拾い上げると、無造作に封を破く。グレイソンは真実が入っていると言っていた。その真実を探ることで、何か新しい扉を開くことができる。エレナはそう願うしかなかった。 「このチップから真実を見つける」  エレナはチップを見つめながら、広いエントランスに一人で立つ。天窓からの陽光がキラキラとチップを照らす。 「手伝ってやるにゃん」  そして、もう一匹。  猫の手も借りたい、ではなく、猫の頭こそ借りたい。一人と一匹の笑い声が、フロアにこだましていた。

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