半世紀の契約
(23)決行①

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「あの……、お母さん。驚かないで聞いて欲しいんだけど……」 「何?」  病室を訪れた美子は母が書いていた手紙を纏め、リストにチェックする作業を一段落付けてから、思い切った様に言い出した。そして不思議そうに首を傾げた深美に向かって、控え目に申し出る。 「その……、江原さん……、じゃなくて、秀明さんと結婚しようかと思っているの……」 「あら、まあ……」  そう言ったきり、目を丸くして黙り込んでいる母親に、美子は若干不本意そうに尋ねた。 「驚かないの?」  しかしそれに深美は、至極冷静に答える。 「勿論、驚いているわよ? だって美子ったら、秀明君の事を何かにつけて『狡賢くて抜け目がない』とか、『傍若無人で人を人とも思っていない』とか、『目的の為には手段を選ばないろくでなし』なんて言っていたのに、どういう心境の変化かと思ったから」  それを聞いた美子は、内心で挫けそうになった。 (確かに、これまで散々あいつの事を貶していたわね……。やっぱり無理があるかしら? でもここで引き下がったら、全ての準備が水の泡になるんだから!)  そう自分自身を叱咤しつつ、美子は慎重に言葉を選びつつ弁解した。 「確かに秀明さんについて、これまで色々言っていた自覚はあるけど、さっき言った様な事って要は『頭の回転が早くて目端が利く』とか、『それだけ自分に自信がある』とか、『事を成し遂げるために全力で集中するタイプ』って事だと思うし」 「……物は言いようねぇ」 (う……、やっぱり無理があったかしら?)  何やら生温かい視線を受けてしまった美子は、密かに冷や汗を流した。しかし深美はそれ以上追及はせずに、話を先に進める。 「それで? いつ頃入籍するの?」  その問いに美子は内心で動揺しながらも、予め用意しておいた答えを口にした。 「ええと……、挙式の前後で考えているの。でも江原さんの立場を考えると、それなりに招待客を呼んできちんと式と披露宴をするべきだと思うし、そうなるとその準備に二・三ヶ月はかかるでしょう?」 「そうねぇ……。ちょっと出るのは無理かもね。それにお式の最中に、ぽっくり逝きたくも無いわねぇ。皆に迷惑をかけるし」  如何にも残念そうにそんな事を言い出した母を、美子は軽く叱りつけた。 「そういう事を言っているんじゃないわよ! だから江原さんにお願いして、私のドレス姿を見て貰おうと思って! 折角だから江原さんも、衣装を合わせてくれるって言っているし!」  それを聞いた深美は、嬉しそうに微笑んだ。 「あら、そうなの? 嬉しいわ」 「今度の水曜の午後の予定だから、楽しみにしていて」 「ええ、分かったわ」  そして第一段階を首尾良くこなした美子は、更に慎重に言葉を継いだ。 「それから、この事は、他の皆には秘密にしておいてね?」 「どうして?」 「その……、皆には先生から言われた事を、まだ伝えていないの。この事がバレたら絶対『どうしてそんな事をしたのか』って詮索されるから」  秀明とは偽装について了承済みであっても、もしこれが妹達に知られたら、寄ってたかってからかわれた挙句に既成事実化されかねないという、美子が保身に走った故の申し出だったのだが、一応それらしい理由を挙げてみた。すると深美は真顔で考え込んでから、穏やかな笑顔で頷く。 「確かにそうね。まだ他の人には知らせないで欲しいと言ったのは、他ならぬ私だし。分かったわ。私達だけの秘密ね?」 「ええ。事情を知ってる看護師さん達にも『妹達には内緒でお願いします』って頼んであるし」 「徹底してるわね。ひょっとして秀明君が言ったの?」 「……ええ」 「さすがに抜け目がないわね」  くすくすと小さく笑った深美に、美子は憮然とした表情になった。しかし母の前でそんな不機嫌な顔のまま居られるわけはなく、気力で笑顔を保つ。そしてやるべき事を全て終えてから、美子は荷物を纏めて立ち上がった。 「それじゃあ、また来るわね」 「ええ。来週、楽しみにしてるわ」  そして笑顔で娘を見送った深美だったが、その姿がドアの向こうに消えるなり、苦笑しながら呟く。 「色々頑張ってたみたいだけど、途中から『江原さん』に戻っていたわよ? なんて指摘をするのは、野暮って物よね」  何もかも分かっているかのような表情で独り言を漏らした深美は、そこで溜め息を吐いた。 「本当に、困った子。姉妹の中で一番落ち着いていて、一番物分かりが良い様に見えて、実は一番何をしでかすか予想ができなくて、一番頑固なんだから。……これは秀明君、苦労するわね」  そこで心底同情するように呟いた深美だったが、美子に対する物か秀明に対する物か、はたまた両者に対する物か、彼女の顔には深い慈愛の表情が浮かんでいた。

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