半世紀の契約
(19)男女の機微③

作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

 その日の夜。例のDVDは淳の伝手で手に入れた物だった事もあり、秀明は手土産の酒持参で彼の部屋に押し掛けた。そこで美実からの電話を受けた彼は、美子の様子を伝えて来たのだろうと見当を付け、せっかくだから調達に一役買った親友にも聞かせてやろうと、スマホのスピーカー機能を起動させた。 「それでね? 江原さんが帰った後、美子姉さんったらPCにかぶり付きでDVDを見てるのよ」 「楽しんでくれているみたいで、嬉しいよ」  一通り説明を聞いて、男二人は満足げにグラス傾けたが、穏やかな時間はここまでだった。 「もう美子姉さんったら、常には無い位うっとりしちゃて。『凄い、今のプレー。もう神業としか思えない。ええ、そうよ、クラウディオ様は神そのものだわ……』とか寝言を言いながら凝視してるのよ。もう端から見たら笑えるったら!」  そのセリフに秀明は手の動きを止めて、僅かに眉を寄せた。しかし口調はいつもの調子を貫く。 「へえ? そんなに思い入れのある選手だったんだ」 「過去形じゃなくて、現在進行形。引退後はあちこちのナショナルチームのコーチとか監督を歴任してるから、その人が所属してるチームがその時点での美子姉さんの贔屓チームなのよね。知らなかったと思うけど」 「ああ……、知らなかったな」 「……おい、秀明。グラスを握りつぶすなよ?」  何やら不穏な気配を醸し出してきた友人の手に、妙に力が入ってきた様に感じた淳は、慌てて警告の言葉を囁いた。しかしそんな声は届かなかったのか、スマホからは美実の楽しげな声が引き続き聞こえてくる。 「ワールドカップの時期なんか、もう大変。そのスケジュールで美子姉さんの生活パターンが決まるし。日本と韓国で共催した時は、忘れたけどどこかの監督をやってたから、高校をさぼって追っかけやったわよ。あの普段の堅物ぶりからは、想像できないでしょう? あれが無ければ皆勤賞だったのにね」 「普段の彼女からは、想像できないな」 「因みに、今日はPCの前から離れないから、美恵姉さんと私で夕飯を作ったのよ。だけどご飯ができたって呼びに行っても、『ああ、そう』だけで動かないし。重症だわ。明日には回復するかなぁ……。確かに情報を流したのは私だけど、まさか本当に探し出して持って来るとは恐れ入ったわ。姉さんへの愛? それともつまらない意地?」 「そこは迷わず愛だと言ってくれないか?」  茶化す様に尋ねてきた美実に、幾分秀明は調子を取り戻しながら皮肉っぽく言い返した。しかし彼女は容赦なく断言する。 「今の所美子姉さんの愛は、迷わずクラウディオ様一直線だけどね!! じゃあそういう事で、以上、報告終わり。それじゃあね! あははははっ!! ホント、笑えるっ!!」 「………………」  言うだけ言って、最後は爆笑で通話を終わらせた恋人の仕打ちに、淳はがっくりと項垂れた。 (おいおい……、勘弁してくれ美実。こっちの状況が分かっていなかったとは言え、そういう報告は俺が居ない時にしてくれ、頼むから。さっきまでこいつ滅茶苦茶機嫌良かったのに、豹変しちまったぞ)  通話が終了した途端、面白く無さそうな表情で黙々とグラスを傾け始めた秀明を見て、淳は溜め息を吐いてから声をかけた。 「残念だったな、秀明」 「何がだ?」 「要するに、彼女に勝って、どこぞの一線退いた中年親父に負けたって事だろ?」  そんな的確な指摘をしてきた腐れ縁の悪友を、秀明が一睨みする。 「……五月蠅い」 「へいへい」 (本当に、こいつがこんな顔をするのは、彼女に関する事だけだものな)  困った奴だとは思いながらも、最近では得体の知れなさが幾分鳴りを潜め、時折妙に人間臭い表情をする様になってきた秀明の変化を、淳は微笑ましく見守る事にした。  その三日後。深美の見舞いから帰る途中の美子は、エレベーターで一階まで降りて広いロビーを横切りながら、緩みがちの自分の頬を、軽く手のひらで叩いていた。 (うう、顔が緩む……。顔を見せるなり、お母さんにも『何か良い事でもあったの?』って聞かれちゃうし。あんまりニヤニヤしてると、周りから変だと思われちゃうわ。あのDVDを貰ってから、もう三日も経ってるんだもの。平常心、平常心……。あら?)  そんな風に自分自身に言い聞かせていた美子だったが、自分とは逆に、正面玄関から入って来る人物を見て、驚いた表情になった。 (お父さん? 平日のこんな時間に、どうしてここに? 今日、見舞いに行くとか言ってなかったけど、予定外の纏まった空き時間ができて、お母さんの顔を見に来たのかしら?)  そんな予想をしながら、美子はまっすぐ昌典に向かって歩いて行った。 「お父さん、こんな時間にどうしたの?」  何気なく声をかけたつもりが、昌典は何かに気を取られていたのか、至近距離まで美子に気が付かなかったらしく、僅かに動揺した。 「……あ、ああ、美子。帰る所か?」 「ええ。お父さんはお母さんの顔を見に来たの?」 「そうじゃなくて……、桜井先生と話があってな」 「桜井先生と?」  常には見られない父の態度と、唐突に出てきた母の主治医の名前に、美子は怪訝な顔になったが、昌典は何やら真顔で考え込んでから彼女に告げた。 「そうだな……。私一人で話を伺うつもりだったが、お前にも同席して貰うか。何か急ぎの用事でもあるか?」 「いいえ。後は家に帰るだけだから……」 「それでは一緒に来なさい」 「……はい」  そこで幾分硬い表情の父に続いて、美子は嫌な予感を覚えながら、言葉少なに今来た方に向かって、再び歩き出した。

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません