半世紀の契約
(9)酒は飲んでも飲まれるな①

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「秀明さん。起きて。朝よ?」 「……っう、美子?」 「おはよう。さあ、起きて?」  翌朝、優しく声をかけられて、重い瞼を何とか開けた秀明は、半覚醒状態で要求を繰り出した。 「美子からキスしてくれたら起きる」 「あら、そう」  ふざけるなと怒鳴りつけられるかと思いきや、美子が余裕で微笑んだと思ったら素直に顔を近付け、軽く唇を合わせてきた為、秀明は軽く驚いた。 「これで良い?」 「……随分、自然にできる様になったな」  どういう心境の変化だと秀明が考えていると、その顔を上から覗き込みながら、美子が悪戯っぽく笑いながら告げる。 「爆睡している誰かさんを相手に、ちょっと集中自主練習をしてみたの」  それでどうやら知らない間に、自分が練習相手になっていた事が分かった秀明は、苦笑を漏らした。 「そうか。それなら」 「ところで、秀明さんは、ここがどこか分かっている? 分かっていたら凄いわ。『素敵! 惚れ直したわ!』って言ってあげても良いけど?」  相変わらず微笑みながら美子が口にした内容を聞いて、秀明は漸く頭が回ってきた。さり気なく周囲を見渡して、笑いを収めて真顔になる。 「…………ここはどこだ?」  彼にしては珍しく、間抜けな問いを口にすると、美子は益々面白そうに微笑みながら問いを重ねた。 「それで? 全く見覚えの無い場所で、休む羽目になった理由位は、見当が付くかしら?」 「何となく……、分かる気がするが……」 「正座」 「はい」  端的な美子の指示に秀明は即座に起き上がり、敷き布団の上で正座して彼女と向き合った。すると、美子は更に笑顔をグレードアップさせて、にこやかに夫に尋ねる。 「私に何か言う事は?」  それを受けて、秀明は即座に頭を下げ、布団に頭を付けて謝った。 「悪かった。今後は気を付ける」 「今回だけは許してあげる。でも、二度目は無いわよ?」 「それは勿論」  そこでカシャッと言う僅かな音を耳にした秀明が、反射的に上半身を起こしながら顔を向けると、博美が携帯電話片手に、自分達をニヤニヤと笑いながら眺めているのが目に入った。 「川原? お前、何をやってる?」  博美の旧姓を口にして訝しんだ秀明だったが、彼女は容赦のない事を口にした。 「江原君の土下座写真を撮ったのに決まってるじゃない。美子さんの尻に敷かれっぷりを、皆に教えてあげるのよ。はい、送信、っと!」 「おい!?」  慌てて秀明はそれを止めようとしたが、博美はあっさりと今撮影したばかりの写真を添付して、同級生のアドレスに一斉送信した。 「拡散希望ってコメントも付けたから、今日中には学年全員に回るかな?」 「勘弁してくれ」  博美がおかしそうに笑いながら説明すると、秀明は心底うんざりした表情で額を押さえた。それに博美がとどめを刺す。 「だって『一宿一飯のささやかなお詫びに、笑えるネタを提供します』って、美子さんに言われちゃったんだもの」 「……美子?」  思わず恨みがましい視線を向けた秀明だったが、対する美子はそれを物ともせず受け止めた。 「これで忘れようが無くなったでしょう? やっぱり『酒は飲んでも飲まれるな』が鉄則よね?」 「分かった。本当に気を付ける」  一見穏やかに微笑んでいる美子に、秀明は再び平身低頭で詫びを入れた。それを博美と隆弘に目撃されて笑われたのに止まらず、それから三分後にかかってきた良治からの爆笑の電話を皮切りに、その日一日、からかいや呆れた口調の電話やメールがひっきりなしに携帯に着信し、秀明は本気で閉口する羽目になった。

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