「お疲れ様でした」 「今年もご指導ありがとうございました。良いお年をお迎え下さい」 中の一人がうっかり漏らした言葉に、隣の者が慌てて袖を引く。 「ちょっと! 藤宮さんは」 「あ……、失礼しました!」 美子が喪中である事を思い出した彼女は慌てて頭を下げたが、美子は気にする事無く穏やかに言葉を返した。 「いえ、構わないわよ? 私だって良い年を迎えたいもの。来年も宜しくお願いしますね?」 「はい、こちらこそ、宜しくお願いします」 そうして生徒が全員引き揚げてから、美子は野口を振り返って微笑んだ。 「先生、今年も無事に踊り納めができましたね」 「ええ、そうね。だけど藤宮さん、本当に出て来て良かったの? 無理しなくても……」 気遣わしげに尋ねてきた野口に、美子は少々困った様に微笑む。 「初七日は過ぎましたし、少し体を動かしたかったんです。却って皆さんに気を遣わせてしまって、申し訳なかったですが」 「それは気にしないで。気分転換できたら良かったけど」 「ええ。十分できました。ありがとうございます」 「それじゃあ、少しお茶を飲んでいかない?」 「ご馳走になります」 そして教室に隣接した控室で、ちゃぶ台を挟んでお茶を飲み始めた二人だったが、野口が何やら神妙な口調で言い出した。 「あのね、こんな時にと言うか、こんな時だからと言うか……」 「何か?」 何やら言い淀んでいる師匠を不思議そうに見やると、野口は思い切った様に言い出した。 「藤宮さん。正式に自分の教室を持つか、ここの師範になってみない?」 「先生?」 「前々から考えていたんだけど、あなただったら十分その実力はあるし、今すぐじゃなくても徐々に引き継ぎをできれば良いかなって思っていたの」 「それは……」 唐突に言われた内容ではあったが、これまでの相手の態度から薄々察していた事ではあり、美子は戸惑う事はあってもそれ程驚きはしなかった。そして口火を切ったなら後は話すだけだと開き直ったのか、野口が正直に思うところを述べる。 「でも藤宮さんは、お家の事やお母様の事で色々大変だと思ったから、今までなかなか言い出せなくて。だから落ち着いたら、改めて考えて貰いたいの。お母様が亡くなったばかりでこんな話、不謹慎かもしれないけど、何か打ち込む物があった方が却って良いかもしれないと思ったから」 言うだけ言って、確かに不躾だと思ったのか俯いた野口を宥める様に、美子は優しく声をかけた。 「お気遣い、ありがとうございます。落ち着いたら、良く考えてみますので」 「そう? 良かったわ」 そして安堵した表情になった野口に、お茶の礼を述べて日舞教室を辞去した美子は、カシミヤ製の和装コートをきちんと着込み、自問自答しながら最寄駅への道を歩き出した。 (師範、か……。自分の弟子を取って、責任を持って教えて……。それが嫌ってわけじゃないし、何か他にやりたい事があるってわけでもないんだけど……) 煮え切らない思いを抱え、そんな自分に何となく嫌気が差しながら美子が悶々と歩いていると、唐突に横から声がかけられた。 「こんばんは。藤宮さん」 思わず振り向いて声をかけて来た相手を確認し、その意外な相手に思わず目を見開く。 「ええと……。確か江原さんの後輩の、佐竹さん?」 「はい、お久しぶりです」 「二年半ぶり位かしら? こんな所で奇遇ね」 「いえ、白鳥先輩の指示で、待ち伏せさせて頂きました」 平然とそんな事を言われた途端、こめかみに青筋を浮かべた美子を、「すみません、通行人の邪魔になりますのでこちらに」と、佐竹はさり気なく車道側の端に誘導した。そんな彼に、美子は冷たい目を向ける。 「……あのろくでなしは、今度は一体何を企んでるの?」 「詳細は不明です。ですが一応顔見知りが説明しておかないと、あなたが暴れる必要があると先輩が判断して、俺にお鉢が回ってきました。最初に謝っておきます。誠に申し訳ありません」 そう言って最敬礼した佐竹に、美子は完全に怒り出した。 「あのね! 最敬礼して謝る位なら、年上だろうが目上だろうが、意見して止めさせなさいよ!?」 「もう手遅れです」 「はぁ!?」 頭を上げて断言した佐竹に、美子が尚も文句を言いかけた所で、彼女の背後でワゴン車が急停車したかと思ったらスライドドアが勢い良く開き、生気溢れる男の声が響いた。
コメントはまだありません