「漸く、静かになりましたね」 「はぁ……」 苦笑しながらそんな事を言ってきた秀明に、美子は曖昧に笑って頷く。 「あの方は悪い人では無いし、善意でやっているのは分かっていますが、いかんせん賑やか過ぎます」 「叔母も同様ですし、気にしてはおりません」 相槌を打った美子だったが、何故か秀明がそれから無言になり、そ知らぬ顔で茶を飲んでいるのを見て、次第に苛々してきた。 (何? この人はどうして黙ったまま、含み笑いで私を見ているわけ?) そのまま十分程が経過し、痺れを切らせた美子が声をかけてみた。 「あの……、どうして黙っていらっしゃるんですか?」 その問いかけに、秀明はにやりと笑ってから、当然の如く答えた。 「君が喋らないから」 「は?」 「君、俺と結婚する気は無いだろう?」 「はい」 「即答か」 唐突に話題を変えたのに、些かも動揺する事無く真顔で返してきた美子に、秀明は面白そうに笑いながら指摘してきた。 「周りに言えないだけで、他に好きな男がいるという感じでは無いし、そもそも結婚をそんなに意識しているわけでも無い。だが適齢期を迎えた五人姉妹の長女であり、周りからさり気なく結婚を勧められている上に、身内である叔母からの紹介で断りきれなかった。違うかな?」 「違いませんが、『適齢期』云々の言葉は、セクハラ用語に認定される時代です。特に職場で口にされる場合は、気をつけた方が宜しいかと思われますが」 「これは失礼」 落ち着き払って指摘した美子に、秀明は笑いを堪える表情になって軽く頭を下げて謝罪した。すると今度は美子が、秀明の事情について推察してくる。 「あなたこそ、自分から声をかけなくても、あなたの気を引こうと喋りまくる女性達に囲まれる生活を送っておられそうですから、本気で見合いなんかするつもりは無いでしょう? 直属の上司からの話だから、心証を悪くしない為に出ざるを得なかった。違いますか?」 「違わない。頭の回転は悪くなさそうだ」 そこで満足そうに微笑んだ秀明に、美子は思わず皮肉をぶつける。 「普段はそんなに頭の回転が悪い女性ばかり、相手にしていらっしゃるんですか?」 「そうだな。女性の回転は早いと思うが」 (見かけと肩書きだけの最低野郎ね、こいつ) 心の中で美子がばっさり切り捨てると、秀明が気安く頼んできた。 「どうやら、こちらから一々事情を説明しなくても分かってくれたようだし、君だって結婚したくないみたいだから、この話は適当に理由を付けて君の方から断ってくれないか?」 しかしその申し出に、美子は「はい、そうですね」とは頷かなかった。 「私だって、叔母の顔を潰す様な真似はできません。いつもは親戚中から押し付けられる縁談を、体良く断ってくれている叔母が、珍しく気合いを入れて持ってきた話ですもの。……本当に、どうしてこんな男を推したのかしら?」 ぼそりと独り言のように付け加えられた言葉もしっかり耳にして、秀明は含み笑いを漏らした。そして何やら思わせぶりに言い出す。 「俺はさっき言った通り、上司の手前断りにくくてね。確かに条件としてはなかなかだから、一応会ってみようかと思ったんだが」 「条件? 私のどこが、あなたの意に適っていると言うんですか?」 不思議そう首をかしげた美子に向かって、秀明は淡々ととんでもない事を言い出した。 「とある筋から『藤宮家の五人姉妹の中で、一番美人で気が強さが人一倍なのが二番目で、一番愛想がなくて抜け目がないのが三番目で、一番賢くて従順だが控え目過ぎて扱いにくいのが四番目で、一番天真爛漫で行動力が有り過ぎて手を焼く猪娘が五番目で、一番凡庸だが愛人を囲っても喚き散らさない程度の世間体を保てるのが一番目だから、正妻にするなら一番目だ』と聞いたので。違っていますか?」 話の途中から綺麗に表情を消した美子に、秀明が楽しげに尋ねた。すると美子は何秒か無言を保ってから、静かに彼に尋ね返す。 「……因みに、そのお話。どなたからお聞きになりました?」 「肯定ですか」 問いには答えずに含み笑いで応じた秀明に、美子は一瞬殺意さえ覚えた。 (この男……、絶対喧嘩を売ってるわね。それなら高く買ってやるわ) そして彼女は殆ど何も考えず、二人の間に置かれている座卓の縁の下側に両手をかけて、勢い良く上に持ち上げようとした。 「うっ……」 しかし座卓は僅かに浮き上がった程度で、とてもひっくり返せる状態ではなく、美子は早々に失敗を悟った。 (失敗したわ。これ、予想以上に重い!) すると向かい側の、笑いを必死に堪える風情の秀明から、ご丁寧な指摘が入る。 「くっ……、彫細工を余裕で施せるくらい分厚い黒檀、しかも普通の座卓の約五割増しの大きさの、最上級品ですからね。その細腕では、華麗にひっくり返すのは無理ではないですか?」 そう言って目元にうっすらと涙を滲ませ、片手で口元を押さえ、もう片方の腕で腹を抱えている秀明を見て、美子は完全に頭に血を上らせた。 (一度ならず二度までも、人を馬鹿にして……、もう容赦しないわよ!?) しかし美子は密かに激怒した後、すぐに冷静さを取り戻し、これから自分がする事の段取りを頭の中で纏めた。その間、約五秒。 そして美子は、座卓の下で持参したハンドバッグからアトマイザーを取り出し、更にそのキャップを外して右手で握りながら目の前の茶碗を左手で持ち、その中身を秀明の顔めがけてぶちまけた。 「おっと、悪いが茶をかけられた位で」 「遅い!!」 余裕で顔の前に片腕をかざして茶の直撃を避けた秀明だったが、その間に座卓上にぶちまけた茶で足が濡れる事も厭わず、茶碗を放り出しつつ勢い良く座卓に飛び乗った。そして彼に肉薄した美子が、彼の顔の直前で、アトマイザーの中身を勢い良く噴霧する。 「……つうぅ!?」 唐辛子からの抽出成分を濃縮したその溶液は、霧状になって秀明の顔面に襲い掛かった。瞼内は勿論、鼻粘膜や口腔粘膜に付着しても刺激を与えるそれの直撃に、流石に秀明が手で顔を覆って呻く。美子はその隙を逃さず、座卓上に立ったまま、微塵も躊躇わずに彼の顎を下から蹴り付けた。 「食らえっ!」 「ぐあっ!!」 全く反撃できず、英明がそのまま畳に仰向けに転がると、すばやく美子も畳に下りて、とどめとばかりに右足で秀明の喉を踏み付ける。 「うぐっ……」 「腕力には自信は無いけど、脚力には少々自信があるのよ。失礼させて貰うわ!」 濡れた足の裏を拭う様に英明の喉を何度か踏みにじってから、捨て台詞を吐いた美子は座卓を回り込んでハンドバッグを取り上げ、憤然とその場を後にした。その間、呆然としたまま畳に転がっていた秀明は、美子が乱暴にビシッと襖を閉めた音で漸く我に返り、のろのろと上半身を起こす。 「は、ははっ……。すっかり油断した。まさか女に、蹴り倒されるとは」 そして服の乱れを直し、喉を擦りながら独り言を漏らす。 「ああ、女に蹴り倒されたのは久しぶりだが、女に踏まれたのは初めてか」 そうしみじみと口にしてから、秀明は我慢できずに一人爆笑してしまった。そして少しして何とか笑うのを止めてから、ボソッと呟く。 「面白い。文字通り足蹴にしてくれた侘びの代わりに、この際俺の計画に、とことん付き合って貰おうか」 その時の秀明の顔には、彼を良く知る者だったら絶対近寄って来ない程の、邪悪で不敵過ぎる笑みが浮かんでいた。
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