半世紀の契約
(1)思いがけない話②

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 平日ではあったが、偶々休日出勤の代休を午後から取った秀明は、昼食を済ませてから深美の入院先へと足を向けた。 これまで通り面会の受付をして病室に向かった秀明だったが、ここで病室内の変化に気付く。 「深美さん……」  どうやら熟睡しているらしい深美の、口と鼻をきちんと覆っている透明な立体型のマスクと、壁に付けられたコポコポと音を立てているボトルや床の小さなボンベを少しの間無言で見下ろしていると、ドアが開いて美子が現れた。 「あら……、来てたのね。今日は仕事じゃなかったの?」 「午後から代休でね。これはいつからだ?」  目線で問うと、美子は冷静に答えた。 「三日前からよ。心機能と平行して、肺機能も低下しているみたいで、血中酸素濃度と動脈血中酸素分圧が低下しているのが分かったの。まだ症状としては軽い方だから人工呼吸器じゃなくて酸素吸入器だけだし、起きている時は外すようにしているしね。食べる量もかなり減っているけど、可能な限り経管栄養とかには切り替えない方針になっているわ」 「……そうか」  説明を聞いて神妙に頷いた秀明を見て、ここで美子は失敗したと言う様な表情で言い出す。 「家族や身内には確実に起きている時間に見舞いに来る様に、さり気なく誘導してみたけど、あなたに言うのを忘れていたわね」  自分が数に入っていなかった事は気にせず、ここで秀明は別な懸念を口にした。 「妹達には説明したのか?」 「美恵と美実は、見舞いの制限を告げた段階で察したわ」  その言葉の裏側を悟って、秀明が軽く眉を顰める。 「美野ちゃんと美幸ちゃんには?」  その問いに美子は直接答えず、秀明の手にしている物に目線を合わせながら片手を差し出した。 「まずはお花ね。お茶はその後に出すから、ちょっと待ってて」 「それはどうも」  皮肉っぽく笑いながら小ぶりの花束を差し出した秀明からそれを受け取った美子は、棚にしまってある花瓶を取り出して病室を出て行った。そして彼女が花を活けて戻って来る間に、ベッドサイドに椅子を出して座っていた秀明は、窓際に花瓶を飾ろうとしている美子の背中に、声をかける。 「それで? 下の二人には、いつまで隠しておくつもりなんだ?」 「……どうしようかしらね?」  何やら花の配置を直しながら、問い返す様に呟いた美子に、秀明は軽く眉根を乗せてから口調は笑いを堪える様に言ってみた。 「赤の他人に意見を求めるとは、らしくないな」 「誰もあなたの意見なんか求めていないし、ちょっと口にしてみただけよ」 「それは悪かった」 「第一、『らしくない』って言うなら、『私らしい』ってどういう事よ?」 「分かった。悪かった、降参だ」  振り返ってきつめの眼差しを向けてきた彼女に、秀明は両手を軽く上げて降参の態度を示す。すると美子は面白く無さそうに棚からカップとティーバッグを取り出して、無言のまま部屋を出て行った。 「相変わらず、俺の前では不機嫌そうだな」  苦笑しながらそんな事を呟いた秀明は、また眠っている深美の顔を無言で眺めた。すると戻って来た美子が、両手に持っているカップの片方を、秀明に差し出す。 「どうぞ」 「どうも」  秀明が受け取ると、美子は秀明とはベッドを挟んで反対側に椅子を出し、それに腰を下ろした。そして二人で無言で何口か紅茶を飲んでから、秀明が徐に口を開く。 「この前の……」 「何?」 「弁当が美味かった」 「はぁ?」  一瞬何を言われたのかが分からなかった美子は、まじまじとベッドの向こう側にいる秀明の顔を眺めてから、呆れた様に言い返した。 「いきなり何を言い出すのかと思ったら、今更?」 「直接、顔を合わせた時に言おうと思ったからな」  あくまでも真顔を崩さない秀明に、美子が肩を竦める。 「そんなお世辞、それこそらしくないわよ。人の事を言えないじゃない。美味しかったのなら、食べている時に誉めなさいよ」 「美味しかったのは勿論だが、他の事に気を取られていた」 「他の事って?」  不思議そうに首を傾げた美子に、秀明は本当に彼らしくなく若干躊躇する様な素振りを見せてから、静かに言い出した。 「深美さんに弁当を作って貰った時の中身と、この前の弁当のおかずの種類がほぼ同じで、重箱と味付けが同じだった」 「え?」  再び当惑した顔付きになって、瞬きを繰り返した美子は、当然の疑問を口にした。 「ちょっと待って。どうしてお母さんと入院中に知り合ったあなたが、お母さんにお弁当を作って貰えるのよ?」 「今まで隠してたが、俺が深美さんと知り合ったのは、前回の入院中だ。彼女が退院してから、何回か外で会ってた」 「何ですって?」  本気で驚いた美子に向かって、秀明は真顔で打ち明け話を続ける。 「勿論社長は知ってたぞ? 深美さんが『昌典さんが嫉妬しないように、秀明君とデートだってちゃんと言っておくわね?』って言ってたから。……そのせいで、その翌日とかに会社で嫌がらせめいた事をさせられたり、言われたりしたが」  最後の方は若干目が泳いでいた秀明を見て、美子は微妙に顔を引き攣らせた。

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