半世紀の契約
(23)腹の探り合い①

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 人が行き来してざわめいているエントランスの、奥に位置するメインロビー。エントランスからの喧騒や視線を自然に遮れる様に何段か低く設計されている、その老舗ホテルのロビーを待ち合わせ場所に指定された美子は、和装で出向いた為、慎重に絨毯敷きの階段を下りた。  吹き抜けの天井から吊るされている、やや照度を落とした照明の暖色系の光が、黒光りする漆塗りのテーブルに淡く映り込んでいる落ち着いた空間をぐるりと見回すと、ほぼ正面に位置する丸テーブルを囲むソファーの一つに、紺色のブックカバーを掛けた本を読んでいるスーツ姿の秀明が座っているのを見つけて、忌々しい思いに駆られる。 (居たわ。呆れる位、堂々としているわね)  そのまま彼に近付いて行くと気配や視線を感じたのか、本から視線を上げた秀明が美子を認めて薄く笑い、無言で手元の本を閉じた。 (上手く私を釣り上げたと、ほくそ笑んでるのが丸分かりだわ。顔を見たら問答無用で蹴り倒しそうだったから、用心の為に着物で来たのは正解ね。……でもいっその事、顔面をスパイクで踏みつける位の事はしても良かったかも)  そんな物騒な事を考えながら、美子はゆっくり足を進めつつ、周囲の様子を窺う。 (叔父さんからは『事務所の人間を、当日周囲に何人か配置させて貰う』と言われたけど……)  不自然に見えない程度に問題のテーブルの周囲を確認すると、叔父の自宅や事務所で見た覚えのある顔を認めて、溜め息を吐きたくなった。 (あいつの周囲に、見覚えがある顔ばかり。『何人か』じゃなくて『何組か』みたい。ここはお互いに、知らないふりをした方が良いでしょうね)  自分の動向を不特定多数の人間に注視されている事に心底うんざりしながら、美子は秀明が居るテーブルまで辿り着いた。 「やあ、久しぶり。元気そうだな」 「……どうも」  苦笑混じりに声をかけてきた秀明から微妙に視線を逸らしながら、彼とはテーブルを挟んで向かい側のソファーに落ち着くと、様子を窺っていたらしいウェイターが、呼ぶ前に自然な動作で近寄ってお伺いを立ててくる。 「お客様、お飲み物をお持ちしますか?」  その声に美子が頷いて注文を済ませてから、秀明が笑いを堪える様に言い出した。 「大仰なお供を引き連れて、大変だな」 「何の事かしら?」  惚けようとした美子だったが、秀明は如何にも楽しそうに詳細を語った。 「約束の時間の二時間前からここに居るんだが、一時間前位にやって来た集団のうちの何人かが、俺の顔を見てギョッとした顔になって、笑いを堪えるのが大変だった。でもそっちに連絡がいっていない様だし、連中はばれたとは思っていないらしいな」 (早々に、ばれていた訳ね)  軽く頭痛を覚えながらも、美子はあくまでもしらを切ろうとする。 「二時間前? 相当暇な上に、方々に顔が売れている人気者なのね。知らなかったわ。どんな人達に顔が売れているのかは知らないけど」 「れっきとした休日だからな。早目に来たお陰で珍しい見世物が見れて、今まで楽しませて貰った。その集団は俺の周囲に分散して座っているが、本当なら纏まって座って、俺が来る直前にわざと盗聴器を付けた席を一つ空けて、そこに俺を座らせる腹積もりだったんじゃないか? 段取りを潰してしまって、申し訳なかった。後から謝っておいてくれ」  そこまで言われて誤魔化すのを止めた美子は、軽く顔を顰めながら感想を述べた。 「あまり趣味が良いとは言えないわね」 「その自覚はあるが、困った事に止められない。本当に美子の傍に居ると退屈しないな」 「呼び捨ては止めて」 「了解」 (全く、腹が立つわね)  真面目くさって頷いた秀明に余計に苛付きながらも、ここで先程注文した珈琲をウエイターが恭しく持って来た為、美子はひとまず口を噤んだ。そしてブラックで一口珈琲を飲んで、気持ちを落ち着かせてから早速本題を切り出す。 「あんな物を叔父の所に送りつけるなんて、一体どういうつもり?」  単刀直入な問いかけに、秀明も淡々と言い返した。 「あれは要らなかったか?」 「必要だったかもしれないけど、あなたが気にする事では無いでしょう?」 「気にするさ。君の実の叔父と従兄弟の事だからな」  如何にも当然の様に告げられた美子は、思わず舌打ちしたくなったが、何とかそれを堪えて慎重に話を進めた。 「それから……、あのデータは他にもあるの?」 「いいや? あれだけだ。俺には価値の無い物だからな。あれは倉田氏が好きにすれば良い。外部に漏らしたがる筈は無いが」 (本当に? コピーも取らずに、あれだけだと?)  密かに気合いを入れた尋ねたものの、あまりにもあっさりと返された為に美子の疑念は深まったが、ここで秀明が思い出した様に尋ねてきた。 「そう言えば、あの気の毒な彼はどうしているんだ? おそらくあの後、大切な彼女に振られただろうし。いや振られる以前に、一方的に音信不通になったとか?」 (つくづく嫌味な男ね!)  わざとらしく世間話の一つの様に尋ねてきた秀明に、美子は自分の顔が強張ったのを自覚しながら言い返した。 「あなたらしくないわね。自分の行為に対して、今更罪悪感でも覚えたと言うわけ?」  秀明がそれに対して、不思議そうな表情で応じる。 「どうして俺が、罪悪感を覚える必要がある。単なる好奇心だ。何も無かった事にして丸く収める手腕が有るなら、拍手喝采の感動物だからな」  平然と言い切った秀明に、美子は軽く呼吸を整えて平常心を心掛けてから、硬い表情で事の顛末を口にした。 「女性の方はどうなったのか全く分からないけど、俊典君は叔父の私設秘書を辞めて、ベトナムの合弁企業で働くそうよ。今日の午前中に出国したわ。向こうの生活が落ち着くまで、暫く帰国できないかもね」  それを聞いた秀明は幾分驚いた表情になると同時に、思わずと言った感じで小さく口笛を吹く。 「それはまた……。随分急な、文字通り新天地での再出発だな。直接の面識は無いが、一応君を通して縁があるから、健闘を祈ろう。しかし倉田議員は他人に厳しい以上に、身内に厳しかったと見える。さすが社長の実弟だな」 (とぼけてるの? あの時、ボールをぶつけて来たわよね?)  素で感心した様に呟いた彼の表情を見て、美子は無意識に鋭い視線を向けた。

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