「ただいま~」 「あら、美幸。どうしたの?」 朝食の片付けも洗濯も済ませて、一息入れていたところに帰宅した美幸を見て、さすがに美子は目を丸くした。それに美幸が困った様に事情を説明する。 「それが……、インフルエンザでの欠席者が多くて、また学級閉鎖になっちゃった」 「この前一度、学級閉鎖になったわよね? それにまだお昼なのに、生徒を返したの?」 「他のクラスでも、登校後に急な発熱で帰宅した人が何人もいたらしいの」 それを聞いて、美子も苦笑しながら頷いた。 「随分流行ってるのね。美幸。授業は無くても、きちんと勉強するのよ?」 「分かってる。課題も出てるしね。お昼ご飯までみっちりやるから」 「宜しい。お昼は一時よ。今からお茶を淹れて持って行ってあげる」 「何か甘い物もね」 ちゃっかり要求してきた美幸に苦笑しながら頷き、美子は美幸と別れて台所に行き、早速お湯を沸かし始めた。 (そういえば……、昨日の加積さんに関する話。あの後改まって話してないから、お父さんや小早川さんからは特に何も言われて無いけど、皆には言わなくて良いのよね?) 頭の中で自問自答しながら、美子は黙々とお茶菓子を探しながら、お茶の準備を進めた。そして小さく溜め息を吐く。 (愛人云々に関しては、やっぱり二人の考え過ぎだと思うんだけど……。あのご夫婦、何となく捉えどころが無かったし) そこで若干不安になってきた美子だったが、自分が怖じ気づいているという事実に気が付いた美子は、自らを奮い立たせる様にさくさくと準備を進める。 (冗談じゃないから。ちょっとお金持ちで変人夫婦の自宅に呼ばれたからって、変な事が起きるわけないじゃない。狼の巣穴に飛び込むのと比べたら、危険度は雲泥の差……) そこで何気なく思い浮かべた言葉に気付いた美子は、一人動揺して沸騰しているやかんを黙って見つめた。すると固定電話に着信があり、それで我に返った美子はふきこぼれているやかんに気が付き、慌ててコンロの火を消して、台所に設置してある電話の子機を取り上げる。 「お待たせしました。藤宮です」 「久しぶりだな。元気そうで良かった」 「え? あの……」 いきなり耳に飛び込んできた穏やかな声が、たった今考えていた人物のそれだった事で、美子の動揺は一気に増幅した。 (この声って、あいつよね? まだ出張中の筈だけど、そこからわざわざ電話してきてくれたわけ?) 少し嬉しくなりながら、しかし彼女らしくなく動揺している為に、美子がとっさに次の言葉が出ずにいると、秀明が先程の口調とは百八十度異なる、冷え切った口調で話を続けた。 「そんな、甘ったるい事を言うわけ無いだろうが。この間抜け女」 「……え?」 いきなりの豹変っぷりに、頭が付いていかなかった美子が固まっていると、秀明はわざとらしく深い溜め息を吐いてから、如何にも困りものだと言わんばかりの口調で続ける。 「全く……。これだから、一度もまともに外で働いた事の無い女は。危機感が皆無だし、あらゆる意味でなってないな。考え無しにも程がある」 そこまで言われた美子は、さすがに腹に据えかねて猛然と反論した。 「いきなり、何を失礼な事を言ってるわけ? それに、日舞教室で教えているけど?」 その訴えを、秀明は鼻で笑う。 「昔からの馴染みの所で、妹弟子相手にチャラチャラ好きに踊ってるだけだろうが。そんな世間知らずだから、変なじじいにちょっかい出される羽目になると言ってるんだ!」 ここで美子は完全にキレた。 「変なじじいって、まさか加積さんの事じゃないでしょうね!?」 「はぁ? 当たり前だろうが。この期に及んで何を言ってる!」 「この際はっきり言わせて貰うけど、加積さんはあんたと比べたら確かに見た目は悪いけど、中身は百倍ましな紳士よ!! 失礼な事をほざくのは止めなさい!」 「あっさり騙されてるから、迂闊で間抜けだって言ってるんだろうが! 少しは頭を働かせて自覚しろ!」 「冗談じゃないわ! 第一、桜さんと知り合ったのは偶然だし、引っ掛けられたりしてないわよ! 勿論、釣り上げても落としてもいないしね!! 不愉快だわ! 切るわよ!」 「おい、ちょっと待て! まだ話は終わって」 電話越しに秀明の怒声が響いていたが、美子は完全に無視して通話を終わらせると同時に居間へと走り、そこに設置してある親機を操作して、たった今着信した番号を着信拒否にした。そして一人壁に向かって、悪態を吐く。
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