(全戦全勝って、どういう事だ? いや、そんな事より何より……) さすがに混乱しながら廊下を駆け抜けた秀明は、すぐに目的の場所に辿り着いた。 「アウトっ、セーフ、あ、よよいの……」 「ここだな!?」 「はい!」 襖越しに美子の声が聞こえた秀明は、一応後ろを駆けて来た笠原に確認を入れ、肯定された為迷わず襖に手をかける。 「美子!!」 「……よいっと!」 そして怒声と共に勢い良く両手で襖を左右に引き開け、座敷に飛び込んだ秀明だったが、その眼前には自身の目を疑う光景が展開されていた。 「きゃあっ!! また勝ったぁ――っ!!」 「やれやれ、美子さんは強いなぁ……」 「それじゃあ加積さん。また一枚、脱いで下さいね?」 「仕方あるまい」 立ったまま勢い良く万歳した美子の前で、座ったままの加積が苦笑いしながら長袖シャツを脱ぎ出す。そして上半身裸になった彼からシャツを受け取った美子は、帯に挟んでおいた裁ち鋏を取り出し、勢い良く一直線に切り裂いた。 「もう! 皆もあなたも、だらしないですよ?」 すっかり高みの見物を決め込んでいるらしい桜が笑うと、もはや身に着けているのがステテコだけという、かなり情けない姿になった加積が、苦笑しながら言い返す。 「お前、他人事だと思って、言いたい放題だな」 「あら、だって女性に冷えは大敵ですもの」 「そうですよ。特に桜さんは、お年を召していらっしゃるんですから」 しれっとして主張した桜に、切り裂いたシャツを畳に放り出して再び鋏を帯に挟んだ美子が、力強く同意する。その為、加積は些か哀れっぽく声をかけてみた。 「美子さん。それなら俺にも、敬老精神を発揮して貰えないものかな?」 「駄目です! 加積さんは今日の主役なんですから!」 「いやいや、手厳しいな」 ビシッと自分を勢い良く指差しながら断言した美子に、加積は苦笑を深めた。そして加積より先に美子に打ち負かされたらしい七人の男達が、全裸でそれぞれの席に座り込み、周囲に切り裂かれた衣類が散乱する中、膝の上に座布団を乗せて蒼白な顔で上座を眺めているのを視界に入れた秀明は、半ば呆然としながら妻に声をかけた。 「おい……、美子。一体、何をやっているんだ?」 「あら、あなた。どうしたの? まだ宴会は終わっていないけど?」 振り向いて不思議そうに尋ねてきた彼女に、秀明は困惑も露わに問いを重ねる。 「どうしたのって……、それはこっちの台詞だ。どうして皆、裸になっているんだ? しかも、どうしてお前が着物を切っている?」 「だって野球拳で勝った人は、相手の身に付けている物を一枚貰って、罰ゲーム代わりに二度と着れない様に切るんでしょう? ちゃんと知っているんだから!」 「ちょっと待て。誰がそんな事を言った?」 「美恵よ」 (何だ、その歪みまくった情報は……) 微塵も疑っていない風情で述べた美子に、秀明は頭を抱えたくなった。しかし先程から気になっていた事について尋ねてみる。 「ところで美子、その鋏はどうした?」 帯に挟んでいる、家から持参した覚えのない裁ち鋏を指差しながら尋ねると、美子は上機嫌に笑いながら答えた。 「笠原さんに持って来て貰ったの。背広もベルトも大して力を入れずに楽々切れるのよ、この裁ち鋏。このお屋敷の物だけあって、さすがに最高級品よね」 感心しながら妻が述べた内容を聞いた次の瞬間、秀明は自分の背後に控えていた笠原を振り返って睨み付けた。 「おい……」 その抗議の視線を受けた笠原は、再び取り出したハンカチで額の汗を拭いつつ弁解してくる。 「鋏をご所望されたので、縫い目が解れた糸でも、お切りになりたいのかと思いまして」 「それでどうして貴様は、あんな気合いの入った裁ち鋏を渡すんだ?」 「……ひとえに、私の判断ミスです。誠に、面目次第もございません」 深々と頭を下げて謝罪してきた相手に秀明は小さく舌打ちしてから、現実的な問題について言及した。 「それはともかく、どうしてさっさと鋏を取り上げない。危ないだろうが?」 しかし頭を上げた笠原が、これ以上は無い位真剣な面持ちで、秀明に訴えてくる。 「私共で試みてみましたが、下手をするとこちらの手足の一本や二本、切り落とされそうでしたので。今日の藤宮様は、まさに神憑りです。今のあの方の、ご機嫌を損ねてはいけません」 「真顔であまり馬鹿な事を言うな」 完全に呆れかえった秀明は、自分で何とかするべく、美子の方に歩きながら右手を伸ばした。 「美子。危ないから、その鋏をこっちによこせ」 すると美子は帯の間から再び鋏をスルリと取り出し、しっかり指を通して秀明に向かって振りかざす。 「駄目よ。これは野球拳をする為の、必須アイテムなんだから!!」 シャキシャキ言わせている鋏の刃に届かない様に、素早く右手引っ込めた秀明は若干険しい表情になり、足を踏み出しながら美子に言い聞かせようとした。 「馬鹿な事言ってないで」 「い~や~よ」 「美子」 「ずぇぇーったいに、渡さないんだからっ!」 腕を掴んで押さえようとしてもスルリと抜け出し、何度か顔や腕を切られそうになりながらも、捕まえる事ができない美子に、秀明は内心で動揺した。 (何だ? 一見隙だらけの様に見えて、全く隙が無い。着物を着ているくせに、動きのキレも尋常じゃないし。どういう事だ?) そして無意識に問いかける視線を笠原に送ると、彼は(お分かりになりましたか?)と目で訴えてくる。その隙に何を思ったか、美子が秀明に組み付いて来た。 「秀明さん! 秀明さん!」 「……どうした」 美子が右手に裁ち鋏を握ったまま、スーツの襟元に両手でしがみ付くと同時に、秀明は首筋にひんやりした冷感と、棘が刺さった様な僅かな痛覚を感じた。それで位置的に見下ろせないまでも、自分の首筋に裁ち鋏の切っ先が触れている事を理解し、引き攣り気味の笑顔で応じる。すると美子は上機嫌に、その体勢のまま夫に話しかけてきた。
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