半世紀の契約
(17)躾の一環②

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「良いんじゃない? 今は誰も使っていないし」 「それなら使わせて貰う。……これで良いか?」  許可を貰った秀明は嬉しそうに指示された物を全て揃え終え、美子に声をかけた。そしてコンロの火を止めて振り返った美子は、満足そうに頷いてみせる。 「はい、どうもありがとう」 「頬じゃなくて、こっちが良い」  お礼の言葉に対して、秀明が自分の口を指差しながら言い返された美子は、一瞬言われた意味が分からなかったが、すぐにそれを悟って渋面になった。 「自分からだとやった事がないから、どんな角度にすれば良いか分からなくて、難しいのよ。鼻が当たりそうで」  そんな真っ正直な申し出に、秀明は尤もだなと納得し、彼女の顎と腰に手を伸ばしながら、真顔で言い聞かせる。 「仕方がないな。教えてやるから早く覚えろよ?」 「分かったわ。自主学習しておくから」 「誰とする気だ?」 「さあ……、誰とかしら?」  途端に不機嫌になった秀明に、美子は微笑んでから近づいてくる彼の顔を軽く見上げた。しかしここで先程の秀明以上に、不機嫌な声が割り込む。 「ちょっとそこのバカップル。この家にはまだ未成年者が二名いるんだから、朝っぱらからいちゃつくのは止めてよね」  いつの間にやって来たのか、台所の入口で壁に背中を預けながら渋面で腕組みしている美恵を認めて、秀明は全く悪びれずに笑顔で朝の挨拶をした。 「ああ、美恵ちゃん、おはよう」 「いちゃついているかしら? 躾の一環のつもりだったんだけど」  秀明に続いて、真顔でちょっと首を傾げただけの姉を見て、美恵はうんざりとした顔付きで愚痴を零す。 「これだから腹黒と世間知らずは、変な所で自然体なんだから。少しは周りを気にしなさいよ。とにかくそろそろ皆が揃うから、いつも通りさっさと準備するわよ」 「そうね。じゃあよそった物から、どんどん隣に運んで頂戴」 「分かった」 「美恵、箸置きと箸はあなたが並べて。秀明さんには席順が分からないから」 「……了解」  自分の主張に頷いて美子と秀明が動き始めたものの、姉が秀明の事をさり気なく名前で呼んでいる事に気が付いた美恵は、(この際、本気で一人暮らしを考えようかしら?)と少々うんざりしながら動き始めた。  そして台所に隣接した食堂に七人分の食事を運んでいるうちに、藤宮家の面々が次々に姿を現し、互いに朝の挨拶を交わした。 「おはよう」 「おはようございます、江原さん」 「江原さん、怪我は大丈夫ですか?」 「ああ、大丈夫だから心配しないで」 「良かった。お父さん達が籠って話してたから、昨夜は江原さんと全然顔を合わせないまま、休んじゃったし」  そして全員が着席すると、制服姿の美幸が、妙に機嫌が良い事に気が付いて、美子が不思議そうに声をかける。 「美幸? 何だか随分機嫌が良いけど、朝から何か良い事でもあったの?」 「うん。久し振りだね! 七人で朝ご飯食べるのって。紅葉も出てるし」  元気一杯に満面の笑みで答えた美幸に、彼女以外の全員が一瞬呆気に取られ、次いで柔らかく微笑んだ。 「そうね。じゃあ、いただきます」 「いただきます」  そんな風に、いつも通り美子の号令で食べ始めた藤宮家の朝食の席は、その日は普段より幾分賑やかな物となった。  朝食後、それぞれ出勤や登校していった家族を見送ってから美子は台所を片付け、次いで客間に顔を出した。 「洗っておくから、洗濯物は出して。お父さんが言ってたけど、本来の出張日程だった明日までは休みにするんでしょう?」 「ああ、頼む。社長と話してそういう事にした。明日の昼過ぎにマンションに帰るから」 「それが良いでしょうね」  美子が秀明に声をかけると、スーツケースの中身を整理していた彼は素直に洗濯物を渡した。しかし何やら言いたげな空気を醸し出している彼に、不思議に思って尋ねてみる。 「何か私に、言いたい事でもあるの?」  それを聞いた秀明は、幾分迷う素振りを見せてから、静かに言い出した。 「さっき台所で考えていて、色々言っておかなければいけない事を思い出した」 「それで?」 「今度の日曜、行きたい所があるから、一日俺に付き合って欲しいんだが」  真剣な口調でそんな事を言われて、美子は若干戸惑う。 「一日? 午前だけとか、午後だけとかは駄目なの?」 「都心からだと、片道三時間半から四時間と言ったところか。車は潰したから、新幹線と在来線の乗り継ぎで行くしかないからな」  そこで美子はピンときた。 「……ひょっとして秀明さんが白鳥家に引き取られるまで、住んでいた所?」 「ああ、そうだ。知ってたか」  出会ったばかりの頃に叔父に頼んで秀明の事を調べて貰った時、その報告書に記載されていた地名を美子は記憶の底から引っ張り上げたのだが、それは秀明にも予想が付いていたらしく、小さく笑った。その表情の変化を見ながら、美子が確認を入れる。 「私は構わないわよ? 何か持っていかないと、いけない物はない?」 「手ぶらで良い」 「分かったわ。お父さんにも言っておくから。今日くらい、一日ゴロゴロ寝ていなさい。治るものも治らないわよ?」 「そうさせて貰う」  そうして受け取った洗濯物を抱えて廊下を歩き出した美子は、今言われた内容について、頭の中で反芻した。 (秀明さんの故郷……。あの報告書で地名を見ただけで、全然馴染みは無いけど) 「色々、何を考えていたのかしらね」  小さく溜め息を吐いた美子だったが、一人で考えて答えが出る訳でも、事前に聞いても秀明が答える様に思えなかった為、意識を切り替えて目の前の事に集中する事にした。 「取り敢えず、お父さんがブチブチ文句を言わない様に、早目にメールで報告しておきましょうか」  今回の件で、一番神経を擦り減らした上に割を食った不幸な昌典は、十分後、更なる不愉快な事実に直面する羽目になり、その日一日旭日食品の社長室にはブリザードが吹き荒れていた。

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