半世紀の契約
(7)華麗なる転身②

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「美子姉さん。最近身の周りで、何か変わった事は無い?」  夜、自室で静かに本を読んでいたところに押し掛けてきた美実が、唐突にそんな事を口にした為、美子はさすがに面食らった。 「変わった事? 特に無いと思うけど?」 「本当に? 外に出た時、人や車に後を付けられている感じがするとか、家に変な物が届けられているとか。日中家に居るのは、美子姉さんだけだし」  そんな事を真顔で言われた為、美子は眉根を寄せながら確認を入れた。 「……何? 美実。あなた最近、誰かに後を付けられたりしてるの?」 「私は別に問題無いから。それより、美子姉さんの事を聞いてるんだけど?」  再度真剣に尋ねられた美子は、半分呆れながらも答えた。 「そんな事を急に聞かれても……。別に不穏な気配はしないし、物騒な事もないわよ?」 「本当に?」 「何なの? 疑り深いわね」 「だって、美子姉さん。《ハインリッヒの法則》って知らない?」 「何、それ?」  いきなり聞き覚えの無い単語を耳にして、美子は戸惑った。しかし美実は冷静に話を続ける。 「1つの重大事故の背景には、その前に軽微な29の事故があって、更にその背景には300の事故までには至らない異常が存在するっていう経験則の事」  それを聞いた美子は、頷きつつも益々納得のいかない顔付きになる。 「要するに《ヒヤリ・ハットの法則》の事ね。だから何? 第一それは、労働災害の分野で用いられる言葉じゃないの?」  それに美実は堂々と言い返した。 「日常生活でも当てはまるでしょうが。敷地内に生ゴミを投げ捨てられたり、燃える物が無い所でボヤが発生したり、電線が切れて停電したりとかあった時に、偶然とか事故だとか安易に考えて一人で処理して済ませないで、きちんとお父さんや私達に報告してって事よ」 「あのね……、個人的な事ならともかく、そういう事があったらきちんと皆に知らせるから」 「じゃあ、最近個人的な事で何か問題は?」 「そう言われても……」  呆れ気味の美子はうんざりしながらも考え始めたが、すぐに黙り込んだ姉に何やら該当する事があるらしいと察した美実は、しつこく問い質した。 「何かあるわよね?」  その問いに、根負けしたと言った感じで、美子が気が進まない様子で喋り出す。 「問題と言うか、どう対応すれば良いか困っていると言うか……。先月教室に入った生徒さんが、どうもやる気が無いと言うか、身が入らないと言うか。本当に日舞を習う気があるのか、疑問なのよね。正直、持て余しているの」  それを聞いた美実の目が、キラリと光った。 「具体的には?」 「日舞は未経験者の上、着物も着た事が無いって事だから、まず着付けから教えなければいけないんだけど、教室に備え付けの着物で簡単な着付けを教えても、あれは絶対家で練習して来ていないわね。次に来た時にすっかり忘れてるから、私が毎回着付けしてるのよ。小物の名前も完全に忘れているし」 「当然、自分で揃えようって気も皆無なわけだ」  相槌を打った美実に対し、美子が溜め息を一つ吐いてから説明を続けた。 「日舞を習う以前に、所作がなって無くてね。そもそも正座自体、滅多にした事ないんじゃないかしら? 板の間に二十分座って先生の舞を見ていただけで、足が痺れてひっくり返っていたわ」  それを聞いた美実が、思わず噴き出す。 「それ本当? 良くそんなやる気も素養も無い人が、習う気になったわね」 「だから、家族に強制されてるとかじゃないかしら? 本人にやる気があるなら、二十代や三十代になってから始めても物にしている人は何人も知ってるけど、あれではね」 「もしくは習う事自体じゃなくて、他に目的があれば、よね」 「え? どういう意味?」  皮肉っぽく呟いた妹に、美子が訝しげな視線を向ける。しかし美実は笑って首を振った。 「ううん、なんでも無い。因みに、その迷惑な新入りさんの名前は?」 「加藤望恵さんよ」 「学生?」 「いいえ。大学を卒業した後は、家事手伝いみたい」 「今、何歳なの?」 「二十六歳って話だったかしら?」 「姉さんの一つ上か。美人?」 「そうね。目鼻立ちははっきりしていると思うわよ? それに随分気合を入れてメイクしてるし」 「ふぅん……、どんな家の人?」  問われるまま答えていた美子だったが、ここに来てさすがに異常を感じた。 「そこまでは先生も仰らなかったし、第一どんな家の人かなんて、習うのには関係ないでしょう?」 「まあ、確かにね」  美子が探る様な目を向けると、美実は大人しく引き下がった。かの様に見えながら、しつこく確認を入れてくる。 「因みにその人、いつ教室に顔を出すの?」 「火曜と金曜の二時半からのクラスよ」 「それで終了するのが夕方、って事か」 「そうね。それがどうかしたの?」  事ここに至って、はっきりと不審の目を向けてきた美子に、美実はこれ以上の追及は無理だと諦めた。 「何でもないわ。他に、些細な事でも良いから、気になってる事は無い?」 「特には無いわよ?」 「そう。……でも良く分かったわ、お休みなさい」 「お休みなさい」  不自然な位の笑顔で就寝の挨拶をした妹を、美子は怪訝な顔で見送る。  「なんだったのかしら? あの子、普段はあんなに根掘り葉掘り聞くタイプじゃないのに」  不思議に思ったものの、すぐにそう言う日もあるかと結論付けた美子は、中断させられた読書を再開した。

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