「ただいま」 「お帰りなさい、美子姉さん」 家に帰るとすぐに、廊下で美野と出くわした美子は、丁度良かったと思いながら、早速彼女に申し出た。 「美野、後で江原さんの連絡先を教えてくれないかしら?」 それを聞いて、その日の姉の外出先と一緒に居た人物を家族の中で唯一知っていた美野は、不思議そうな顔になる。 「それは構わないけど……、今日江原さんと会っていたんでしょう? 直接聞かなかったの?」 もっともな問いに、美子は少し口ごもってから、気まずそうに言い返した。 「……うっかりして、聞き忘れたのよ」 いつもの美子らしくない行動に美野は内心で首を捻ったものの、素直な性格の彼女は、それ以上食い下がったりはせずに了承した。 「分かったわ。後からメモに書いて、美子姉さんの机の上に置いておくから」 「お願いね」 そして自室へと向かう美子の後ろ姿を見ながら、美野は嬉しそうに微笑む。 「そうか……、江原さんも頑張ってるのね。一歩も二歩も前進かな? 早く『お義兄さん』って呼べるといいな」 そうして秀明の連絡先を書き取る為に、美野は早速上機嫌で自室へと戻った。 ※※※ スーツ姿の秀明が、ブリーフケース片手に東成大医学部付属病院の外来入口から中に入ると、総合案内に向かうまでに白い上下の制服を身に着けた医師が呼びかけてきた。 「先輩、こっちです」 その声に振り返り、視線の先に軽く片手を上げた旧知の人物の顔を見付けた秀明は、彼にしては珍しく嬉しそうに笑った。 「直に会うのは久し振りだな、芳文」 そう声をかけると、胸ポケットの位置に《葛西芳文》のネームプレートを付けた在学時代の後輩は、歩み寄って苦笑気味に挨拶をしてくる。 「はは……、研修医時代も配属直後も、何かと忙しくてご無沙汰していてすみません」 「その間、悪さをしないで職務に邁進してたって事だろう? 善良な患者の為には、それに越した事は無い」 「そうですね」 そんな会話を交わしてから、男二人はエレベーターホールに向かって、並んで歩き出した。 「しかし今回は、お前に骨を折って貰って助かった」 「先輩がそんな風に素直に礼を言うなんて、気味が悪いですね。まだ初秋なのに、早々と雪が降りそうです」 「言ってろ。……それで感触は?」 早々に首尾を尋ねてきた秀明に、すれ違う病院スタッフに会釈しながら、芳文が笑顔で答える。 「幾つかの細かい注文はありますが、だいたい先輩も納得できる所で折り合いを付けておきました」 それを聞いた秀明は、満足そうに頷いた。 「本当に助かった。持つべきものは如才無い、使える後輩だな」 「ですが一応、事務長と総看護師長には筋を通しておかないと後々拙いので……。すみません、平日にお呼び立てして」 申し訳無さそうに軽く頭を下げた芳文に、秀明は淡々と言い返した。 「お前が気にする事はない。俺が頭を下げる事で物事が円滑に進むなら、頭の一つや二つ位、いつでも下げてやるさ。それに平日じゃないと、お偉方が揃って無いだろう」 「はぁ……」 そこで微妙に納得のいかない顔付きで相槌を打った芳文を、秀明が不思議そうに見やった。 「何だ? 変な顔をして」 するとエレベーター前に到達した為、足を止めて上りボタンを押した芳文が、背後を振り返ってから慎重に口を開いた。 「……変わりましたね、先輩」 「俺は昔から、女性には寛容なつもりだが?」 平然と反論した秀明に、芳文は軽く溜め息を吐いてから首を振り、疲れた様に言い出した。 「それは気に入った女性対してのみ、ですよね。それに寛容である事と、献身的に振る舞う事は、全く異なると思うんですが。ところで先輩は、マザコンなんですか?」 「は? いきなり何を言い出すんだ、お前は?」 唐突な話題の転換に、秀明は本気で困惑したが、そこでちょうどエレベーターがやって来た為、開いた扉の中に秀明を促しながら、芳文も乗り込んだ。そして中に二人だけなのを幸い、遠慮無く話を続ける。 「『入院患者の前で、彼女の娘の婚約者のふりをする』という話の割には、肝心の相手の話は一切出ませんでしたし。ひょっとしたら相手の女性じゃなくて、その母親の患者の方に惚れているのかと」 「そうだと言ったら?」 その疑問に、秀明がくすりと笑いながら応じると、芳文はうんざりした様な表情になった。 「なんか先輩だったら、有りな気がしてきました。これ以上考えると怖い考えに行き着きそうなので、止めておきます」 「意気地が無いな。とことん追及しろ」 「無茶を言わないで下さい」 嫌そうに言い返した芳文に秀明が楽しそうに笑いかけていると、目的階に到着して扉が開いた。その向こうに足を踏み出した時は既に両者とも真顔になっており、無言のまま廊下を進む。 「あそこの相談室になります」 軽く指差しながら案内した芳文に、秀明は頷いて応えた。 「分かった。二十分以内に済ませる」 「え? これから何か用事でも?」 不思議そうに尋ねた芳文だったが、秀明はそれに事も無げに答えた。 「商談の合間に、半ば強引に時間を作ったからな。三十分以上かかると、移動時間を考えると少々拙い」 それを聞いた芳文は、思わず足を止めて驚く。 「マジですか!? 先輩はてっきり休みを取って、こちらに出向いたのかと思っていました」 「色々と忙しくてな」 平然と言われてしまった芳文は、無言で額を押さえてから真剣な顔で申し出た。 「この際、全面的に協力しますよ。終末医療の分野には精神科も参加してますから、こちらの病棟で懇意にしているスタッフは結構居ますし」 「頼りにしている」 本心からそう思っているらしい微笑を目にした芳文は(本当にらしくないよな)と思いつつも、余計な事は口にせずに再び歩き出して秀明を案内し、相談室のドアをノックしてから「失礼します」と声をかけつつ、ドアを開けた。
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