半世紀の契約
(6)自問自答

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 結局、加積の幼稚園児の服装と小物に加え、悪乗りした桜まで保育士の物を揃えて欲しいと無茶振りをするのを、どこか遠い目で聞き流しながら、美子は何とか最後まで心の平穏を保った。その後加積夫妻が乗って来たセンチュリーで自宅まで送って貰った美子は、門の前に降り立ってから、後部座席の二人に向かって頭を下げた。 「送って頂いて、ありがとうございました」 「いやぁ、今日はなかなか楽しかったから、礼には及ばない」 「着物が仕上がったら華菱からこちらに届くから、是非自宅に見せに来て頂戴ね? どんな風に素敵に仕上がったか、見てみたいの」 「はい。お礼方々、全て身に着けてお伺いします」 「絶対よ? 約束ね!」  そして揃って上機嫌な夫婦を乗せたセンチュリーを手を振って見送ってから、美子は深々と溜め息を吐いた。 「……疲れた」  後半はどう考えても自業自得の感があった為、愚痴は零さずに黙って玄関の戸を開けて家に上がり込む。そして居間に入ると、予想外に妹二人の出迎えを受けた。 「お帰りなさい、美子姉さん」 「あら、早いのね、二人とも」 「今日は部活が無かったし」 「インフルエンザが流行ってて、午前中で帰る事になったの。明日から学級閉鎖だし」 「そう。あなた達も気を付けてね?」  苦笑しながらコートを脱いでソファーに落ち着くと、気を利かせた美野がお茶を淹れて持ってくる。 「はい、良かったら飲んで。私達、部屋に行ってるから」 「ありがとう。ご飯ができたら呼ぶわね」  そうして美野と美幸を見送った美子は、華菱での出来事をあれこれ思い出しながらゆっくりお茶を飲んでいると、ふと加積から手渡された物の事を思い出した。 「そう言えば加積さんの名刺を、ちゃんとしまっておかないと」  そこでちょうどお茶を飲み終えた為、バッグから取り出して名刺を確認した美子は、バッグとコートを持って自室へと向かった。 (貰った時は良く見なかったけど、私でも知ってる有名企業の名誉顧問をされてるのか……。確かに羽振りは良さそうね)  歩きながら名刺に印刷されている社名とロゴマーク、肩書を見て、美子は一人納得した。 (話してみると結構面白いおじいさんなんだけど、典型的な見た目で損をする人なのね。ちょっと気の毒だわ)  うんうんと頷きながら廊下を歩いていた美子だったが、階段を上がりかけてふと笑みを零す。 (でも……、『誰からプレゼントを貰った』と嫉妬されるかもしれないって。加積さんなりに気を遣ってくれたのは分かるけど、幾ら何でも弁償として頂いた物に対して、どうこう言う人間はいないと……)  しかしここで美子は、ピタリと足の動きを止めた。 (そう言えば、『男と食事してヘラヘラ笑ってた』位で、俊典君の全身を染料塗れにしたんだったわ、あいつ)  そして全身の動きを止めると同時に、美子の顔から血の気が引いた。 (まさかこの事を知ったら、加積さんにまで変な因縁を付けないでしょうね!? ちゃんと早めに詳しく事情を話しておいた方が)  そしてコートを放り出し、慌ててバッグの中から携帯を取り出して電話をかけようとしたところで、美子は辛うじて幾らかの理性を取り戻す。 (ちょっと待って。落ち着くのよ、私。時差がどれだけあると思ってるの。今、向こうは早朝よ。それに携帯が繋がるとは思えないし、宿泊先だって分からないじゃない)  そして一つ深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから、それ以前の問題を頭の中で提起する。 (それ以前に、どうして私が、この場にいない無関係な男の顔色を伺う様な事を、わざわざしなくちゃいけないわけ? おかしいでしょう?)  そう自分自身に言い聞かせながら、美子は若干怒りの表情になりつつ、乱暴にバッグの蓋を開けて元通り携帯をしまい込もうとした。 (大体、一方的に求婚されただけで返事をしていない、付き合ってもいない人間じゃない。これじゃあ何か後ろ暗い事があって、弁解をしているみたいだわ)  そんな自分の戸惑いと幾分かの疾しさを誤魔化す様に、美子はバッグに携帯を放り込もうとしたが、見事に狙いを外したそれが一直線に落下し、派手な衝突音を立てる。 「あああっ! ちょっと! 何で落ちるのよっ!!」  理不尽だとでも言わんばかりの叫び声を上げ、美子が階段を下りて携帯を拾い上げる所までを、偶々一階に降りようとして階段の上から目撃する羽目になった美野と美幸は、一階に行く事を諦めて一度自分の部屋に戻る事にした。そして並んで歩きながら囁き合う。 「何かやっぱり変よね、美子姉さん」 「どう考えても、江原さん絡みだとしか思えないけど」  ここ最近の百面相付きの美子の挙動不審っぷりに、二人は思わず溜め息を吐いた。 「大丈夫かしら? 美実姉さんの話だと、江原さんが出張から戻るまでまだ暫くかかりそうなのに……」 「そこまで心配しなくても。『会えない時間が二人の愛を育てる』って、週刊誌に載ってたよ?」 「この前も思ったけど、どんな週刊誌を読んでるのよ? それにあの二人の間に、育む程の愛があると思うの? 寧ろ、破滅の足音が聞こえるわ。どうしよう……」  自分の台詞に動揺したのか、途端に深刻な顔付きになって狼狽える美野を見て、美幸が小さく肩を竦めた。 「本当に、美野姉さんって悲観的だよね」 「美幸が楽観的過ぎるのよ!」  そんな風に妹達に心配されながらも、表面上は穏やかに時は過ぎていった。  そしてそれは正に、嵐の前の静けさであった。

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