「あの……、気を悪くなさらないでね? 以前秀明さんに頼まれて、お二人が私を助けて下さった後、何かの折に、妹にその時の話をしたんです。そうしたらお二人について、妹が色々好奇心と想像力をかき立てたみたいで。主人と結婚後に、実はあの二人は秀明さんの後輩だったと話したら、妹が主人に根ほり葉ほり聞いて、益々想像を膨らませていたそうなんです」 「お前達の在学中の面白いエピソードを、俺が知る限り話してあげたからな」 ここで今まで黙っていた秀明が、薄笑いをしながら口を挟んできた為、二人はげんなりしながら呻いた。 「……一体、どんな話をしたって言うんですか」 「何だか他の人間に聞かれたら、驚かれたり引かれたりする話ばかりの気がする……」 揃って項垂れた二人だったが、彼等に向かって美子が切々と訴えた。 「妹が『大体の方向性と流れは出来上がっているんだけど、どうしてか私の創作意欲のスイッチが入らないのよ』とか言って、導入部を書いては消し、書いては消しの状態みたいで。ですから話のモデルになっているお二人をその目で見て、色々妹の希望に沿う事をして頂けたら、ひょっとしたら妹の筆が進むかもと思ったものですから……」 「なるほど」 「そういう事でしたか」 「駄目でしょうか? 長々とお引き止めするのも申し訳ありませんから、一時間位お付き合い頂ければ結構ですが」 控え目にそんな事を申し出てきた美子に、二人は一瞬顔を見合わせてから快諾した。 「遠慮なさらないで下さい。そういう事情なら、これも人助けですから幾らでもお引き受けします。なあ、清人?」 「ああ、俺も同感だ。それに生みの苦しみと言う物は、同業者として身に染みて分かっています。そんな事で遠慮なさらないで下さい」 「え? 同業者、って……、まさか……」 驚きを露わにして美子が無意識に夫に視線を向けると、秀明は悪びれずに言ってのけた。 「そう言えば言ってなかったな。清人の奴は、『東野薫』の名前で執筆活動をしてる」 それを聞いた美子は、狼狽しながら夫を詰った。 「まあ! あなたったら、そんな事、一言も言ってなかったじゃない! 東野薫と言えば新進気鋭の若手作家として、私だって名前を知っている位なのに、そんな人に向かって箸にも棒にもかからない美実の事について、愚痴を零したなんて恥ずかしいわ!」 思わず涙目になって訴えた美子を、秀明が苦笑いで宥めた。 「そこまで気にする事はないだろう。こいつだって今は偶々売れているだけであって、いつ鳴かず飛ばずになるか分からないんだからな」 「あなたったら、またそんな失礼な事を!」 到底宥めているとは思えないコメントに美子が声を荒げたが、ここで二人が割って入った。 「いえ、本当にお気になさらず。幸運な事に物書きで生計を立てる事ができましたが、俺だっていつ妹さんの様に煮詰まってしまうか分かりませんから、お話を聞いて身につまされました。俺で良ければ、幾らでも妹さんのお力になります」 「そうですよ。俺も出来る限り協力します。一時間と言わず、二時間でも三時間でも、妹さんの気が済むまで。構わないよな、清人?」 「俺もそう言おうと思っていたところだ」 「まあ……、ありがとうございます。それでは今から妹をここに連れて来ても良いでしょうか? それと、お時間は大丈夫でしょうか?」 力強く請け負った二人に、美子は忽ち顔色を明るくして申し出た。 「勿論、構いません」 「今日はこの後、特に用事もありませんから、お気遣いなく」 「それでは今から連れてきますね? 少々お待ち下さい」 そしていそいそと立ち上がった美子が、嬉しそうに一礼してから部屋を出て行ってから佐竹と柏木は安堵の顔を見合わせた。そして緊張のあまりこれまで手を付けていなかった茶碗に揃って手を伸ばし、一気に茶を飲み干してから、どちらからともなく思いついた事を口にする。 「そう言えば先輩の義妹さんは、どんな名前で執筆活動を?」 「どこの出版社の、どんなレーベルから出しているんですか?」 その疑問に、秀明は淡々と答えた。 「紫藤エミの名前で、宝玉社のマゼンダ文庫から出ている」 「そうですか……。すみません、聞き覚えがないもので……」 「相変わらず正直者だな、浩一。気にするな。本当に清人と比べたら、世間の認知度は天と地程に差があるからな」 「はぁ……」 冷や汗をかきながら柏木が謝罪したが、秀明は鷹揚に笑って宥めた。するとここで佐竹が、難しい顔で呟く。 「宝玉社……、マゼンダ文庫……」 そのまま何やらブツブツと自問自答している風情の佐竹に、柏木が怪訝な顔をしながら声をかけた。 「清人? どうかしたのか?」 すると顔を上げた彼は、秀明に強張った顔を向けて確認を入れた。 「先輩……、俺の記憶違いかもしれませんが、宝玉社のマゼンダ文庫と言ったら、BL本のレーベルだったのでは……」 「ああ、そうだ。さすが作家。畑違いの分野でも、良く知ってたな」 「え?」 上機嫌に拍手する秀明の前で佐竹は盛大に顔を引き攣らせ、予想外の展開に頭が付いて行かなかった柏木は、絶句して瞬きした。するとドアの向こうから騒々しい音が聞こえて来たと思ったら、ノックも無しに勢い良くドアが開けられ、壁で跳ね返って来る前に一人の目を血走らせた女性が室内に突入して来た。 「義兄さん!! イケメン二人を私の好きにして良いって本当!?」 「ああ。二人とも快諾してくれたぞ? もう煮るなり焼くなり好きにし」 「きゃあぁぁぁぁっ!! 美子姉さんから聞いたとおり、普段は氷の美貌を誇る一匹狼だけど、絆されて心を許した相手にだけはとことん尽くしちゃう流浪の騎士様に、一見気弱な受けキャラだけど、実は眼鏡を外すと鬼畜な攻め役王子!! いっ、やぁぁぁぁっ!! これまで聞いた話だけで、散々脳内で妄想を繰り広げてきた人物が、今ここに正に目の前に!! 夢じゃないかしら! ……あ、嫌だ。涎が」 室内に飛び込んで来るなり、秀明の台詞を遮りつつ絶叫したと思ったら、ふいに真顔になって舌なめずりをした二十代前半の女に、佐竹と柏木は顔色を変えて反射的に立ち上がり、素早くソファーの後ろに回り込んだ。そんな後輩二人に向かって、秀明がのんびりと声をかける。 「彼女が妻の二番目の妹の、美実ちゃんだ。暫く仲良くしてくれ」 「…………」 そんな事を言われて、さながら得物を目の前にした肉食獣の様な目をしている女性に対して、二人が心底慄いていると、パタパタと軽い足音を響かせながら美子が応接室に戻って来た。
コメントはまだありません